第5話 不和

 あの奇妙で気味の悪い体験をしてから、さらに数日が過ぎた。

 妻はまだ、どこか怒っているふうだ。それを「やれやれ」と思いながらも、顔には出さないように気をつける。怪我で寝ている人間に、あれこれ言っても仕方ない。

「着替え、ここに置いておくから」

「ありがとう」

 口ではそう言っているが、内心はどこまで思っているのか――ちらりと窺った横顔からは、上手く読み取れなかった。

 自分で言うのもなんだが、なかなかよくやっている、と思うのだが。

 朝起きて娘も起こし、簡単な朝食を取ってゴミを出し、妻の着替えを持って二人で車で出る。夜は仕事を早めに切り上げ、病院へ寄り着替えやらを受け取って、スーパーへ寄ってから娘と一緒に家に戻る。

 家に帰れば帰ったで、買ってきた惣菜で夕食を出し、食べさせている間にお風呂を沸かし、それから自分も入って洗濯をして……。

 こんなにやっているのだから、少しは労ってくれてもいいだろうに。

(俺だって、暇じゃないんだぞ)

 最近頭をよぎるのは、そんな思いばかりだ。

 本当ならまだ片付いてない書類を仕上げてしまいたいし、夜の誘いも断りたくない。だいいちこんなことをしていたら、この先「仕事より家庭を優先する」と思われて、リストラ対象になってしまうかもしれないのだ。そのことを、妻は分かっているのだろうか?

 上司に怒られ取引先に文句を言われ、それでも毎日通って仕事に励んでいるのは、家族のためなのだ。そうでなかったら、もっと好きにやっている。自分の小遣いやら、趣味に使えるお金が減るのを承知で家を買ったのだって、広い所に住まわせてやりたかったからだ。

 そもそもローンだって、自分が働いたお金から払っているのだ。本当なら文句を言われる筋合いはない。いわば養ってもらっている状態なのに、なんでこう文句ばかり言えるのか。金を払えば相応のサービスをしてくれる、商売女のほうがよっぽど理に適っている。

 だがここで言っても仕方がない。余計に怒り出すだけだ。

 ――結婚は人生の墓場、か。

 誰が言ったかしらないが、よく言ったものだ。

 ベッドの上の妻には、出会ったころの華やぎなど、もうどこにもない。ビヤ樽までにならなかっただけマシだが、図々しくて逞しくて厚かましい、肌の張りも失いつつある、ただの中年だ。もし若いころに今の姿が分かっていたら、結婚したか分からない。

 あの頃には、彼女以外いない、と、心の底から信じていたのだが……。

 そうは言っても今は仕方ない。まずは退院してからだ。

「あと、何か要るかい?」

「沙耶が買ってきてくれたから大丈夫。早く帰って、この子寝せてやって」

 またこれだ。

 早く帰ったほうがいいのは確かだが、こんな言い方をしなくてもいいだろうに。そんなに自分が邪魔なのだろうか?

 娘の沙耶はこの頃、口数が少ない。自分たちの微妙なぎこちなさを、感じ取っているのかもしれない。妻は二言目には沙耶のことをあれこれ言って可愛がっているのに、そういうところには気が回らないのだろうか?

 だがこれも、ここで言っても仕方がない。ただでさえ、母親が入院して不安定なのだ。さらにここで喧嘩をして、不安にさせてどうするというのか。

「じゃ、明日また来るから。沙耶、帰ろう」

「……うん。じゃぁママ、またね」

 言って二人で病室を後にした。

 少しでも娘の気分を紛らわせようと、車を出して家へ帰る道すがら、いろいろ話しかける。

「部活はどうなんだ?」

「別に……まだメンバー選ばないし」

「楽しいか?」

「んー、時々かな」

 横目で見る娘は、窓の外を眺めたままだ。話にも、あまり乗り気のようには見えない。

「宿題は?」

「病院でやった」

 そんな会話を続けているうち、家に着いた。忙しいのはこれからだ。

「すぐお風呂にするから、これ食べてなさい」

「……うん」

 あまり気乗りのしなそうな顔で、娘が食卓に着く。

「多かったら、残していいから」

「うん」

 こう言っておけば、娘は並べた総菜の中から、好きなものを適当に食べる。その間に風呂を沸かし、洗濯の用意だ。

 そして、思う。こうすれば忙しい自分だって、何とか家事がこなせるのだ。なのに妻はずっと家にいて、何をしているのだろう?

 大した量でない家事が終わった後は、ずいぶんと暇なはずで、いくらだって好きに過ごせるはずだ。なのに、何が不満なのだろう?

 だが考えても答えは出ない。出るわけもない。

「ほら沙耶、風呂に入りなさい。じゃないと、明日も早いんだろう?」

「……わかった」

 このところ繰り返される、似たようなやり取り。もうそろそろ半月になるだろうか?

 病院の医者が言うには、確かもう半月もしないうちに、退院できるはずだ。そうなれば沙耶もだいぶ落ち着くだろうし、妻も少しは気が変わるだろう。

 それに正直、昭一もそろそろ疲れてきていた。何しろ仕事を終えてから、これだけをこなすのだ。疲れないほうがどうかしている。

 けれどそれも、あと少しだ。そのくらいなら頑張れる。

 明日病院へ行ったら、退院の予定をよく聞いてみよう。そんなことを思いながら、昭一は皿を洗い終えた。

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