第4話 迷路

 それから数日が、目まぐるしく過ぎて行った。

 妻は結局手術となり、骨を固定した。ただ幸い、ひと月足らずで退院できるという。

 犯人はまだ見つからない。警察が看板を立てて探してくれているが、今のところは進展がないようだ。

(せめて捕まってくれれば……)

 会社帰りの道すがら、そんなことを思う。

 というのも、出費がばかにならないのだ。急いで借りた駐車場代をはじめ、ともかくあれやこれや、細々とお金がかかる。これに加えて入院費用までとなったら、幾ら必要なのか見当もつかない。

 まぁ生命保険に入っているから、それが下りればまだ、何とかなるのだろうが……それにしたって腹立たしくて、文句の一つや二つは言いたいところだ。

 そうやって病院へ歩く途中で、携帯電話が鳴った。知らない番号だった。

 いぶかしみながら出てみる。

「もしもし――え、高木か?」

 かけてきたのは、久しぶりの旧友だった。高校を出て以来だ。

 電話の向こうが言う。

『なんか今回は、大変だったみたいだな。うちの会社に来た書類見て、驚いたよ。あ、俺いま、日の丸生命にいるんだ』

「そうなのか?」

 これは初耳だった。

『ふふん、劣等生の俺がそんな会社にって、いま思ったろう?』

「思ってないって」

 実際は思ったのだが、さすがにそうは言えない。

 相手も分かっていて、それ以上は言ってこなかった。

『とりあえずそういうわけでさ、俺、担当にしてもらったんだ』

「いいのかそれ……」

 よく言う癒着とかなんとか、そういう話になるんじゃないだろうか。だがこちらからしてみれば、知っている相手のほうが、いろいろとやりやすい。

『で、どうする?』

 相手が訊いてくる。

『保険のこと、いろいろ打ち合わせしなきゃだろ? どこかで会うか?』

「そうだな」

 昭一は少し辺りを見回して、目に入った喫茶店の名を口にした。

『おっけー、そこなら分かるし遠くないな。すぐ行くよ』

「分かった」

 まだそんなに遅くない。細かい話はまた後日にして、とりあえず顔を合わせる時間くらいはあるはずだ。

 それから病院へ行って沙耶を拾って、夕食を調達しながら車で帰れば、そんなに夜遅くならないだろう。

 携帯を出して、妻に保険屋と会う旨をメールして、昭一は喫茶店へ向かった。

 

 旧友との話し合いの結果は、上々だった。保険に詳しい彼に言わせると、今回は全面的に相手が悪いため、保険がほぼ全額下りるらしい。

「な、保険かけといてよかったろ?」

「ああ」

 まさにセールスの常套句だが、心底その通りだと思った。ひき逃げの相手が捕まらない今、お金のことは悩みの種だったのだ。

 実際にはお金がすぐに出るわけではないのだが、その間の工面に関しても行政が貸してくれるケースもある等々、彼はいろいろ教えてくれた。

 これで、しばらくの間は心配ない。

 持つべきものは友だ、自分は運がいい、そんなことを思いながら病院に向かう道すがら、ふと昭一は思い出した。

 ――幸運を予言した、レイラ。

 これが彼女の言う「星」のカードだろうか?

 だがかぶりを振る。本当に運がいいなら、妻が事故にあったりしないのではないか。けれどその事故は運が良くて骨を折った程度ですんで……いや、それならかすり傷で済んだっていいはずで……。

 ぐるぐると考えが巡って、こんがらがってくる。

 気づくと足は、あの店に向かっていた。この通りを渡って次の角を曲がって――。

 そして、昭一は立ち止まる。

「おかしいな……?」

 間違えていないはずだ。だが、通りの様子が少し違う。心当たりの場所にも、地下への階段など無い。

 やはり、間違えたかもしれない。

 そう思って引き返して、辺りを見回しながら歩き回って、また角を曲がって……。

 今度も店は無い。

 また引き返し、歩き出す。だんだん自分がどこにいるか、分からなくなってくる。このネオンの真ん中で、何かに化かされてでもいるようだ。

 知っているはずの町が、見たことの無い顔を見せる。喧騒が固まりになって襲い掛かり、雑踏が飲み込もうと迫ってくる。

 足がすくむ。息ができなくなる。

 あまりの苦しさにしゃがみこもうとしたとき、昭一は視線の先に、見覚えのある姿を見つけた。

 追いかける。追いかけながら呼ぶ。

「レイラ!」

 彼女が振り向いて、少しだけ驚いた顔をした。

 その傍へ、息を切らせながらやっとたどり着く。ひざが笑っていた。

 レイラが微笑む。だがその唇からでたのは、予想もしない言葉だった。

「どうしてここへ来たの?」

「どうしてって……」

 会いたかったからだ、そう言おうとしたのに、うまく声が出ない。

 レイラが言った。

「あなたのような人が、ここへ来てはダメなのよ」

 それを聴いた瞬間ふっと目の前が暗くなり――次の瞬間、昭一は誰かに肩をゆすられていた。

「大丈夫かね?」

 いい仕立ての背広を着た、恰幅のいい紳士だった。

「あ、はい……大丈夫、だと思います」

 言いながら立ち上がる。少し足元がふらついた。

「ふらふらしながら歩いていたと思ったら、急にしゃがみこんで、本当に大丈夫かい? 車を呼ぼうか?」

「いえ、大丈夫です。どうせこれから家内を見舞いに、病院へ行きますし」

「そうかい? それならいいんだが」

「大丈夫です。お騒がせしました」

 昭一が頭を下げると、紳士は「よく休んだほうがいいよ」と言いながら去っていった。

 辺りを見回せば、いつもと同じ歩きなれた町並み。ついさっき見たのは、なんだったのだろう?  もう一度あの店へ行ってみようかと思ったが、怖くなってやめた。ともかく時間を食ってしまった。今何時だろう、そう思って時計を見て、昭一はまた背筋が冷たくなった。

 友人と別れてから、もう二時間近く過ぎている。そんなに歩いたわけはないのに……。どちらにしても急いで病院へ向かわないと、妻も娘も待ちくたびれているはずだ。

 幸い閉店間際のケーキ屋があったので、急いで駆け込んで幾つか買い、詰めてもらっている間にこれから向かう旨をメールする。二人しておかんむりだろうが、ケーキがあれば風当たりも和らぐだろう。

 今あったことは考えないようにしながら、昭一は病院へ向かった。

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