第2話 闇

 雨上がりの空は、星が綺麗だ。

 あのカードの星はどれだろうか、そんなことを思いながら大通りへ出、バス停に向かう。そこへちょうどバスが来た。

 今日も運がいい。

 バスの電光掲示板には、昭一が降りる、いちばん遠い終点が示されていた。このバスは本数が少なくて、乗り逃すと時間帯によっては、三十分待たされることもよくある。なのに待たずに乗れるとは、あの“星”のカードのおかげだろうか?

 乗客でいっぱいのバスに乗り込み、吊革につかまりながら外を見る。だんだん外のネオンが減って住宅街になり、乗客が少なくなる。

 やがて家の明かりもまばらになり、畑と林と点在する農家という景色になり、山が迫り、ようやく終点に着いた。自宅はここから歩いて十分ほどのところだ。

 昭一はここが好きだった。畑と緑に囲まれ、後ろに山。土の匂いも空気の澄み方も、育った田舎の風景によく似ているのだ。

 何の気なしに不動産屋でチラシを見て、実際に足を運んでみて、ひと目で気に入った。そしてすぐに土地を購入して家を建てた。

 広い土地は田舎なだけに格安で、家族三人には広すぎるくらいの家が建ち、二十畳もあるリビングダイニングに各自の部屋、書斎まである。庭も流行りのガーデニングはもちろん、くつろぐのに最適な青々とした芝生に、バーベキューができるスペースまで備えていた。

 家といい庭といい周囲といい、我ながらかつて思い描いていた通り、絵に描いたようだと思う。

 が、家族はいまひとつ気にいらないらしい。特に家内は駅まで遠いと文句を言い、虫が多いと文句を言い、、庭の手入れが大変だと文句を言い、果ては買い物が大変だと文句を言う。

 さすがに大変だろうと車も買い、自分は送り迎えなど頼まずバスを使い、休日は庭の手入れも率先してこっちがやるのに、だ。

 ――よくテレビやチラシでこういう家を見て、「いいわねー」と言っていたのに。

 あれはなんだったのだろう。真に受けたこっちが悪かったのだろうか?

 だがそれでも、昭一はこの家が気にいっていた。家に戻って、都会の喧騒とは無縁の静けさの中、広いリビングで木々のざわめきを聞きながらお酒を飲むのが、毎晩の楽しみだった。

 ぽつりぽつりと灯る街燈を頼りに、我が家への道を急ぐ。

 行く先には、黒々とした林があった。道はその際を、沿うように回り込んでいる。その先、今は隠れて見えないカーブの先が我が家だった。

 また帰るなり、「帰りが遅い」と文句を言われてはかなわない、そんなことを思いながら道を急ぐ。が、カーブの半ばで昭一は目を疑った。

 家に明かりが、無い。門燈はさすがに点いているが、玄関の奥も台所も何もかも、明かりの洩れているところが無かった。

 家まであとわずか、そんな距離を昭一は鞄を抱えて走り、門を抜けてもどかしく手をもつれさせながらドアの鍵を開ける。

「悦子、沙耶!」

 家の中はがらんとしていた。人の気配はない。

 この時間に誰もいないというのは、あり得なかった。妻は夜に家を空けるときは必ず朝までにそう伝えてくれるし、中学生の娘がこんな時間に居ないこともあり得なかった。塾でさえ、迎えに行った妻と一緒に、九時半すぎには戻るのだ。もう十一時近いこの時間なら、もうベッドにもぐっている。

 しばらく呆然と立ち尽くしてから、やっと昭一は携帯電話という存在を思い出した。

 慌てて取り出して、切っていた電源を入れる。会社を出た後、レイラの店にいる間横槍が入ってはたまらないと電源を切り、ずっとそのままだったのだ。

「あ……」

 携帯には、ずらりと着信履歴が並んでいた。娘からのショートメールも入っている。

『お父さんいまどこ? ママジコった』

 血の気が引いた。

 他のメールも慌てて開ける。娘もよほど気が動転していたのだろう。ところどころ誤字脱字があった。

『いま病院。早くきt』

『骨折だって』

『はやく、どこ?』

 昭一は慌てて電話をかけた。

「すみません、中央タクシーですか? 車をお願いしたいんですが」

 この時間では、町へ向かうバスはもう無い。車は妻が乗って行ったらしく車庫にないから、あとはタクシーしか手段がなかった。

 歯噛みをする。こんなことなら妻の言うとおり、ケチケチせずにもう一台車を買っておけばよかった。

 タクシーを待つ間、何度か娘の携帯に電話を入れてみる。だが、出なかった。病院に居るようだから、電源を切ってあるのだろう。

 これから行く旨をメールして、来たタクシーに飛び乗る。

「お客さん、どこまで行かれますか?」

 言われて初めて、昭一はどこへ行けばいいのか分からないことに気づいた。行き先も分からないうちからタクシーを呼ぶなど、慌てているにもほどがある。

 かといって、タクシーに戻ってもらうのも悪いし、行き先が分かってから呼びなおすのも面倒だ。

「市立病院までお願いします」

 運転手にそう告げる。

 どこで事故にあったか分からないが、家に車が無いことを考えると、町のほうだろう。何より事故を起こしたときに救急車で運ばれる病院は、だいたい市立病院だ。

 道すがら、車の中でいろいろなことが頭をよぎる。いったいどこで事故に遭ったのか、妻の怪我の具合はどうなのか、娘はどうしているのか……。

 こんなことなら、さっさと帰ればよかった。あんな店なんかに寄らずまっすぐ家に帰っていれば、もしかしたら事故に遭わなかったかもしれない。

 そのとき、携帯の着信音がした。落としそうになりながら取り出し、通話のボタンを押す。

「もしもし、お父さん?」

「沙耶か? 今どこにいる?」

「市立病院!」

 予想通りのところに、運ばれていたようだ。

「お母さん、事故で足、骨折しちゃったの!」

「え……」

 大怪我だ。

「ほ、ほかは? 頭とか、怪我してないか?」

「ほかは平気だって。でも入院だって」

 青ざめながらもほっとする。骨折で入院は大事だが、ほかに怪我が無いのは不幸中の幸いだ。

「お前は怪我してないんだな?」

「うん、大丈夫。お母さんがかばってくれて……」

 そこで涙声に変わる。今まで我慢していたのだろう。

「今、行くからな。もう少し待っててくれ」

「うん、分かった」

 娘の声が少しだけ、ほっとしたものになった。

 やはり、さっさと帰ればよかった。そうすれば、娘にこんな思いをさせずにすんだというのに。

 途中、事故や渋滞にでも引っかかったらどうしようかと思ったが、タクシーは順調に道を進み、市立病院の玄関に着いた。

「釣りはいい!」

 どうも、という運転手の声を背に、病院へ入る。

 夜の病院はがらんとしていて、照明も絞られていて、少々薄気味悪かった。どこへ行けばいいかもよくわからない。

 たまたまその辺を歩いていた看護師がいたので、訊いてみた。

「すみません、妻が事故で運ばれたと聞いたんですが」

「お名前は?」

 冷静な看護婦に苛立ちながら名乗ると、彼女は「ああ」という顔になってうなずいた。

「ご案内しますね。娘さんが待ってましたよ」

 連れられて、エレベーターに乗る。

「私は整形病棟なんですけど、奥様、そこへ夜に入院されたんですよ」

 どうやら担当の看護師だったようだ。

「具合は……妻の具合は、どうなんですか?」

「骨折と打撲が主ですね。奥様のお話じゃ、頭は打っていないようです。ただ念のため、そこはもう少し様子を見ます」

 看護師がてきぱきと答える。

 エレベーターが止まった。

「この先の、三〇三号室です」

 案内された先は二人部屋で、手前のベッドに妻が寝ている。

「あら娘さん、寝ちゃいましたね」

 見れば奥のベッドに、娘の姿があった。

「本当はいけないんですけど、娘さん、ずいぶん疲れてるみたいでしたから。急患が来たら起きてもらうって約束で、使っていいって言ったんですよ」

「すみません、ありがとうございます」

 きっと電話がつながった後、安心して眠ってしまったのだろう。起きる気配はない。

「そうしたらすみません、今のうちに入院の書類、書いていただいてよろしいですか? 奥様がああですし、まさか娘さんにお願いするわけにもいかなくて、保留のままになってるんです」

「あ、分かりました」

 看護師のあとをついて一旦病室を出て、ナースステーションで書類を受け取る。

「印鑑はお持ちですか?」

「三文判でしたら……」

 その他あれやこれやと説明を受け、紙の束とともに病室へ戻った。

 ため息がでる。

 明日から、いやもう今日か。今日からどうしようか。ともかく今日のところは、会社を休まないとダメだろう。そういえば何も持ってきていない。入院はたしか、寝巻きやら下着やら、いろいろ必要なものがあるんじゃなかったろうか? ならば一度取りに帰らないと。どこにあるだろう? 全部タンスの中だろうか? そうだ、沙耶の物も持ってこないと。だがそれこそ、どこに何があるのだろう。ともかく始発のバスに乗って……ああいや、車があるんじゃないか?

 椅子に座っていろいろ考えているうち、昭一は眠ってしまった。

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