こっこ

第1話 始まり

 薄暗い部屋。明かりは、ほのかに灯るランプだけだ。どこかで香でも焚いているのか、甘くて艶っぽい匂いがする。

「もう少し飲む?」

 言いながら向かいに座る女性が、グラスにワインを注ぎ足した。

 ――場違い。

 その言葉が脳裏をかすめる。

 なぜなら目の前のテーブルには、何やら怪しげな文様の縫いこまれた布がかけられ、何枚ものカードが並べられているからだ。

 ここは酒場ではなく、占い師の部屋。なのにまるでキャバレーか何かのようだ。それとも自分が知らないだけで、昨今の盛り場というのは、こういうスタイルになったのだろうか?

 考えれば考えるほど、分らなくなってくる。

 いや、分らなくていいのかもしれない。どうせ自分はここを飲み屋のように、自分だけの秘密の店として使っているのだから。

 不満を言うなら、大したおつまみが出ないことだけ。でもそれも、どうでもいい。

 刺繍で縁取りされた布を被った彼女が、マニキュアをした細い指でカードをめくった。

「今日は、もう帰ったほうがいいわ」

 どうやらまた、カードのお告げらしい。

 カードのことは、昭一はまったく分からなかった。何しろ会社へ行って帰るだけの、ただのサラリーマンだ。カードといって分かるのは、誕生日やクリスマスに贈るもの。あとはせいぜいトランプかカルタくらい。こんな占いに使う特別なものなど、今まで在ることさえ知らなかった。

「何のカードなんだい?」

 訊くと、彼女は答えた。

「いつもと同じ。星よ。いいことがあるわ」

 何でも星のカードというのは、とてつもない幸運、を表すらしい。それが毎回出るというのもおかしな話だが、きっと余興でやっているからだろう。

 昭一は立ち上がった。背広を羽織り、ドアノブを握る。

「また明日も来るよ」

「いいえ、あなたはもう来ないわ」

 言葉に驚いて振り向くと、彼女は嫣然と微笑んでいた。

「何言ってるんだ? 今まで毎日来てたし、明日も来るよ」

「そうね。またね」

 そう言う彼女の声を背に、店を出る。目の前には階段。それを昇り切って少し行くと、大通りに行き当たる。

 裏路地にある小さなビルの小さな地下室が、彼女の占いの店だった。

 空を仰ぐと、星が瞬いていた。どうやら雨は止んだようだ。これが「いいこと」なのだろうか? だが、いつものことでもある。彼女の店を出た後は不思議と、些細だが「いいこと」が起こるのだ。

 思えばあの店に行くようになったのも、不思議ないきさつだった。


 あの日、昭一はここからそう遠くないバス停で、バスを待っていた。家は駅からずいぶんと遠いから、そうしなければ帰れないのだ。

 その列のすぐ脇で、老婆が転んだ。

 いや、あれは転んだというより、突き飛ばされたに近い。変にちゃらちゃらした格好の若者が、すれ違いざまに老婆にぶつかったのだ。

「こら、何をしてるんだ!」

 思わず大声をあげたが、若者は振り向きもせず「うるせぇジジイ!」とだけ言って、さっさと行ってしまった。追いかけようかとも思ったが、すぐには立ち上がれず腰をさする老婆を、放っておくことはできなかった。

「お婆さん、大丈夫ですか? 立てますか?」

「あぁ、すまないねぇ。ありがとうねぇ」

 昭一が差し出した手にすがるようにして、老婆はなんとか立ち上がる。

「歩けますか?」

「だいじょうぶだいじょうぶ、歩けますとも……いたた」

 とても大丈夫には見えなかった。歩くことはできても、荷物を持つのは無理そうだ。

「荷物を持ちましょう。お家はどちらですか?」

「あぁすみませんねぇ。すぐ近くなんですよ」

 言いながら老婆が歩き出し、昭一は後をついていく。

 果たして老婆の言うとおり、家はすぐ近くだった。あれを家というなら、だが。

「ここなんですよ。ありがとうございます。お茶でもあがってくださいな」

 言われて案内されたのが、今は毎日通う、あの店だ。

 地下への階段を下りてドアを開けると、中には誰もいなかった。先に入ったはずの老婆の姿も見えず、薄暗い部屋にアンティークものらしい椅子と、ドラマで見たような怪しげな文様付きの布の掛けられた、テーブルがあるだけだ。

「あの、荷物ここへ置きますから」

 薄気味悪さに、そう言って昭一は帰ろうとした。そこへ、彼女が出てきたのだ。

 美人、だった。

 ただし、清楚とは言い難い。むしろ扇情的と言ったほうがいいだろう。彫りが深めの顔立ちで、光を放つ黒い瞳と、紅い唇とが目に焼きついた。刺繍の施された黒い薄布を頭からかぶり、耳には紫の石がついた大きな耳飾り、首にも同じような色の石があしらわれた首飾り。黒くてひだの多い、やはり襟や袖口に刺繍がされたワンピースのようなものを着て、どことなく中東の女性のようだ。

 そのなまめかしい唇が開く。

「助けていただいて、ありがとうございました」

 どうやら彼女は、先ほどの老婆の娘か何からしい。もしかしたら孫かもしれない。

「お茶でも、あがっていってください」

 先ほどは気味悪さに帰ろうと思っていたのも忘れて、昭一は頷いた。男などそんなものだ。

 いつの間にかテーブルの上に用意された茶器に、彼女が手際よくお茶を注いでいく。いい香りが部屋に広がった。

「どうぞ」

「すみません」

 年甲斐も無くどきどきしながら、昭一は勧められるままに椅子にかけ、お茶を口に運んだ。

 目の前でにこやかに微笑む彼女は、なんとも妖艶だ。肌に張りがあるからかなり若いのだろうが、どこかの飲み屋のママと言ってもいいような色香がある。顔を合わせれば文句と愚痴ばかりの誰かとは、大違いだ。

 彼女がやわらかい声で言った。

「私、レイラと言います。ここで占い師をしています」

「なるほど……」

 やっと服装やこの部屋に合点がいった。きっと彼女、レイラがこの店の主で、占いで生計を立て、さっきの母親か祖母と一緒に暮らしているのだろう。

 それから昭一ははっと我に返り、ポケットをまさぐって、慌てて名刺を差し出した。

「私、こういうものでして……」

 言いかけて気づく。長年のサラリーマン生活で身についた反射的な行動は、ここではあまりに場違いだった。

「す、すみません。こういう場所に慣れておりませんで」

「いいえ。名刺を出す方、多いですよ」

 言いながら受け取った彼女の指先は細く繊細で、耳飾りと同じような紫で爪が染められていた。

「昭一さん、とおっしゃるんですね」

 不意に名前を呼ばれて、心臓が跳ね上がった。

 ――ガキか、俺は。

 これではまるで、何も知らない中坊だ。

 そんな心中を知ってか知らずか、彼女は続ける。

「課長さんなんて、すごいわ」

「いやぁ、ちっとも。うちのやつからは、いつも文句を言われていますよ。安月給で遣り繰りがままならない、ってね」

「まぁ。昭一さん、がんばってらっしゃるのに」

「それがうちのには分からんようで」

 リップサービスだろうが、悪い気はしなかった。

 うちのやつも文句を引っ込めてこのくらい言えばいいのに、と思う。そうすればこっちだって、もっと気持ちよく働ける。

「もう一杯いかがですか? それともお酒にでもします?」

「いや、それは悪いですよ」

 だが昭一の答えにかまわず、レイラは奥の棚の引き戸を開けた。

「あまりいいお酒がないんですけど……」

 その言葉とは裏腹に、彼女が出してきたのは外国産のスコッチだった。

「や、そんないいものは。申し訳ない」

「いいんですよ。頂き物ですし、私飲みませんし」

 封が切られる。

 グラスに注がれた色は美しい琥珀で、上質なものだというのが一目で分かった。きっと占いの仕事をするうちに、誰かから贈られたのだろう。それを考えると、レイラはなかなか腕のいい占い師のようだ。

 グラスを傾けて酒を口に含むと、今までに感じたことの無い芳醇な香りが広がった。

「これは美味しい……」

「お口に合ったようで良かったですわ」

 レイラが微笑む。

「もう少し、飲まれますか?」

 言葉は訊ねているのに、彼女の手は訊ねていない。昭一の答えを待たず、グラスにさらに酒が注がれる。

「飲みすぎて、帰れなくなったら困るな」

「そのときは、ここに泊まればよろしいわ」

 それもいいな、と一瞬思ったが、昭一はかぶりを振った。うっかり一夜の夢を見てバレでもしたら、後どんなことになるか。あれやこれやと言われるだけならいいが、あれのことだ。両方の親に言いたいだけ言って、果ては仕事まで失いかねない。

 独り身の若造ならともかく、自分はもうトシだ。いくら景気が良くなったとはいえ、中年もそろそろ通り過ぎようというオヤジでは、再就職は容易ではない。収入が半減して、が関の山だ。それだけはさすがに避けたかった。

 女房に分からない程度に、そんなことを考えながら酒を愉しむ。

 そうやって他愛の無い話を続けながら、どのくらい飲んだのだろう? ふと時計を見ると、十時をとっくに過ぎていた。

 せっかくのほろ酔い気分が一気に醒める。

「まずい、帰らないと」

「あら……」

 レイラは一瞬不満そうな顔を見せたが、それ以上は言わなかった。代わりにどこからか、大き目のトランプのようなものを取り出し、めくる。

「星、だわ」

「星?」

 唐突に出た言葉に、昭一は訊きかえした。

「なんだい、それ」

「タロット。出たカードで未来が分かるわ」

「へぇ……」

 確かにレイラが手にしているのは、表に返してみると、トランプとは似ても似つかないものだった。昔の西洋の挿絵にでもありそうな何かの図案が、大き目のカード一杯に描かれている。だがどのあたりが「星」なのかは、昭一にはまったく分からなかった。

「その“星”とやらに、何か意味があるのかい?」

 グラスを飲み干しながら訊く。テレビで見たことが本当なら、確か占い師というのはカードを見て未来を読む。何でもそれぞれのカードに意味があって、その組み合わせやらで未来が分かるのだそうだ。

 ――本当に分かるのなら、苦労などないが。

 どこへ行けば受注が取れるのか、どの客と付き合えばうまくいくのか、先が分かれば誰も苦労はしない。

「このカードはね」

 レイラが言う。

「願いが叶う、という意味があるのよ」

「へぇ。じゃぁ確かに当たりだな」

 未来ではなくて今、願いなら叶っている。

「また来ても、いいかい?」

 身支度をしながら問うと、レイラが微笑みながら答えた。

「もちろんよ」

 耳に心地よい声に送られながら、店を後にする。

 それからほぼ毎日、昭一はレイラのところに通うようになった。そしてもう、半年になる。

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