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※※※
先生と寅次が部屋に入ると、初夏の陽気をぎっちり凝縮したような暑気に満ちていた。たまらず先生が舌を放り出す。
「これはたまらん! エアコンが消えてるのか!」
「そうなんです。この時期はふつう、俺のために24時間付けっぱなしにしてあるんですが……」
あまりの暑さに材料が腐ってしまったのか、奥の方から饐えた匂いが漂ってくるのも不快度指数を上昇させていた。
「そのわりに、照明は付けっぱなしだったのだね?」
「はい。」
ふうん、と先生は一つ鼻を鳴らし、部屋の中央へと歩を進める。
首をめぐらせ一通り観察する。
1LDK。玄関から入って、右手に脱衣所、ユニットバス、左手にダイニング、その奥にキッチン。進んだ先のリビングはおよそ10畳。真正面にベランダがあって、葉が黄色く褪めたプランターが四つ。室外機は一機。洗濯物は干されていない。
リビングにはローボード、36型のワイドテレビ、テーブル、ソファ、背のたかいライト、ベッド。壁に掛かってい居るのはレターケース。
キッチンには2ドアの冷蔵庫、オーブンレンジ、炊飯器、トースター。
整頓された室内。一切むだなものがない。
きれいすぎるくらいだ。いなくなるべくしていなくなった。先生の脳裏に、そんな言葉がよぎる。
「いつもこんなにこぎれいなのかな」
「はい。あいつは俺がちらかした後も、すぐに片付けてましたね」
「ふうん」
先生が、一つ鳴いた。
テーブルの上に、手紙がおいてある。封はまだとじていない。レターケースに詰まっているそれとはちがい、かざりっ気のない簡素な封筒。
先生はとくに内容には言及しなかった。
「シンプルイズベスト、じつに好みだ」
ローボードにはフォトフレームが置かれている。カップルの中むつまじい様子が10枚、ハートやスター、大小さまざまな形に切り抜かれている。
先生は写真を見ながら、なにか不自然さを感じた。それがなにかは判然としない。
夏休みのこどもが、夏の野を駆けていく。虫取り探検、川あそび。夕方まで、真っ黒になるまで、腹ペコになるまで。そんな光景はもう、テレビの中にしかない。先生の脳内に、もやのベールがかかった、色のない記憶にしかいない。そんなこどもはいない。
そんな、もどかしさ。
「どうしました?」
「……いいや。なにも、かなしいことはないさ」
先生は思考のそぞろ歩きをやめ、リビングを後に、キッチンへ向かう。
じっと固まる寅次に気付き、先生は声をかける。
「どうした?」
「あ、いや……すいません、先生だけで行ってもらえますか」
見ると寅次は目も合わせない。忌まわしきものでもいるかのように、その方向から身を遠ざけている。
「まあいいけどね」
先生はキッチンへ入る。
ウォールシェルフには小分けにされビンにあつらえられた調味料類。冷蔵庫には近辺のゴミ分別表。床下収納庫。IHクッキングヒーター。
やはり、においの元はここだ。腐った肉の、吐き気をもよおすツンとした刺激臭が、どこからかただよっている。
冷蔵庫は開けられないから、先生はシンクの中をのぞき込んだ。
つるりとしたステンレスが、先生の顔を映すほどに研かれている。ひげをちょいとなでつけながら、ゴミ一つ、水滴一つ、シミ一つないことを確認する。
「包丁が、やたらにそろっているね。料理は得手だったとみえる」
「そりゃあもう。あいつのつくる魚料理は最高でした」
「だからじゃないのか。生臭くてかなわん」
先生がキッチンから帰ってきて、寅次は落ち着きをとりもどす。
「まあ、こんなところか」
先生が首をこきりとやった。別に肉体労働をしたわけでもないのに、疲労感を全身ではなっている。
「いやあしかし、こまったね。こればかりはわれわれには理解しがたい」
「先生、あいつは、彼女はどこへ……?」
「あせらないでくれ。この件は万事まかせてくれるよう言っただろう」
先生はじっと考え出した。なにを打ち明け、なにを話さぬべきか。先生がものごとを考えるときには、いつもその二点がおおきなウェイトを占めている。
しばらくだまった後で、また、こう言った。
「今回も、警察の人間に骨を折ってもらおう」
「警察に……」
ますます、寅次はわなないた。
先生は目をつむる。まぶたを閉じればなにも見えない。耳を閉じればなにも聞こえない。
けれどなにもないはずの、ただただ闇の中で、たしかにキラキラと光る光のつぶが、頭上から舞い落ちてくるのを、先生は待っている。
「生きているのに、死んだような部屋だ。この部屋は、まったく、さなぎみたいだ」
先生と寅次は部屋を後にする。
さなぎとなった部屋は、羽化をするのをじっと待つのだ。
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