第五章 嵐の予兆と予感は違う
1
風が、吹いている。
ばたばたと音を立てて吹き流れる旗は、はためいた鳥の大空を舞う姿が雄々しい、アルチェスタの国旗である。
アルチェスタ城主達が見詰めるのは、二人の魔術使の姿だ。
片や炎の魔術使ユゲルリング・リングリオス。
片や落第魔術使ルペルツィオ・アースライン。
大男は口元に笑みを浮かべ、少年は緊張した面もちで、ただその時を待っていた。
「ルペル……頑張って」
アリエットが胸元でぎゅっと指を絡め、祈るように目をつむる。隣ではパナが対抗心を燃やしたのか、負けじと同じ仕草をとっていた。
男達には、戦って勝たねばならないワケがある。誇り、使命、そして、愛するものの為に。例え己が身が張り裂けようと、例え両の腕が千切れようと、艱難辛苦に立ち向かって行かねばならないのだ。
ぎらつく陽光の下、月の使者が二人の丁度中間に立った。廃墟のような風景にあっても、彼の美観は損なわれない。風に翻るマントがばさばさと、戦いの始まりを報せるかのように音を立てている。
「双方、準備はよいか」
凛とした声。それは、この場を神の膝元に誘う宣告だ。ジェミニアーニは二人の視線を断ち切るように、細剣を円かに振るう。
「では、始めよう。戦神に祝福されし聖戦を……」
そして静かに厳かに、戦いが……!
「……やっぱりダメだぁッ」
……始まる前に、ルペルがユゲルリングに背中を向けて、すたこらと走り出した。両手を空に放り出し、さも「こうさーん」と言わんばかりの態度で。
……敵前逃亡しやがった!
「バカ者! せっかく吾輩がお膳だけでも見繕ってやったのに、台無しではないか!」
「だって、あの人の強さはヴィッケも見てるだろ?」
吾輩はルペル外套に力の限り噛みついた。ルペルはそれでも必死に走りながら、吾輩に向かい必死の弁解をする。
「勝てるわけないじゃないか、無理なものはムリ!」
「ここまできてごちゃごちゃ抜かすな! ガキかお前は!」
「ガキでもいいから見逃して~!」
駄々っ子の様にじたばたと暴れるルペル。
ええい……ルペルの甘ったれは今日に始まった事ではないが、それにしたってこんな大舞台で一番の甘味を堪能することになるとは思わなかった。吾輩、まだまだコイツのことを甘く……もとい、塩っ辛く見ていたようである。
「いい加減にしろ……酸いも甘いも噛み分けてこそ、人生の旨味が滲み出てくると言うものだ!」
「それにしたって酸っぱすぎるよ、きっと僕は溶けてなくなっちゃうよ~」
「うるさい、たまには漢を見せろバカ者!」
ルペルはとうとう吾輩を振りきろうと躍起になって暴れ回る。それに負けじと吾輩も決死でしがみつくのだが……
あ。アリエットからジェミニアーニからユゲルリングまで、とても冷たい目でこちらを見ている。
皆々から突き刺さる視線。吾輩何だか居た堪れなくなって、頭を前足で引っ掻いた。
「あー、えーと、ちょっと休憩」
吾輩の言葉に、長らく緊迫していた雰囲気が音を立てて崩れる。城主などはひっくり返っていた。
「おいコラ待て! 私は今すぐ開戦を要求する!」
ユゲルリングが空かさず吠えた。そりゃあ、吾輩があっちの立場だったら同じことを言うだろう。
「お前と違って、ルペルはまだ身体が暖まっていないのだ! しばらくの暇を当然の権利として要求する!」
双方の意思を総括する立場にあるジェミニアーニの下した決断は、ルペルの準備が整うまで時間をとる、と言うものだった。ユゲルリングが当然猛抗議したが、「戦意のないものを斃せばキミの評判が落ちるだろう」との善意の言葉に、妙に納得した様子で了承へと返事を変えた。
すこししょぼくれたルペルをセコンドに戻す。そこには怒れるアリエットが待ちかまえる、正にこのヤマの迫処であった。はぁ……つくづくルペルは、事態を悪しき方向へ導く天災である。
「あ……アリエット?」
青筋を立てた少女は、ただ黙して我らの帰還を待っていた。その目には……揺らめく殺意が宿っている気さえする。
ルペルの脚が、ぴたりと動かなくなった。まるでヘビに睨まれたカエルだ。額から首から体中から汗を吹き出す。
押し黙ったまま、アリエットが手のひらを振りかぶった。
叩かれる――! ルペルはあらん限りの力で目を瞑った。
「……ぷっ……あははっ!」
だが……アリエットは諦めたように大きく息を吐き出すと、突然大口を開けて笑い出した。目尻に涙まで浮かべて、何の屈託もないかのように笑っている。
てっきりもみじを張られると思っていた吾輩、そしてルペルは、そんな彼女にポカンと口を開けるだけだった。そのままの間抜けた面を見合わせ、頭の上に疑問符を浮かべる。
笑いすぎて息を切らすアリエット。指で目元を擦って、ルペルの肩に両手を置いた。ルペルは一瞬ビクリと身体を震わすが、それもすぐに止む。その手に宿るものは、純粋な優しさであった。
「ほんっとしょうがないね、ルペルは」
そしてくすりと笑う。
ルペルはそんな彼女に申し訳なさそうに頭をがくりとうなだれた。
「ご、ごめん。僕、自信なくって……」
「大丈夫だよ。あたしを助けてくれたとき、ルペルはすっごく頼り甲斐があったよ。お父さんとおんなじくらい!」
「僕が……?」
アリエットの手がルペルの手を包む。組合わさった指と指は、彼女の胸元に導かれた。
ルペルの目をじっと見詰め、
「あたし……信じてる」
ぽつり、呟く。
「一生懸命に頑張ってる姿を、あたしは見てたから。かっこよかったよ!」
アリエットは耳まで真っ赤になりながら、思いの丈を心の底から振り絞るように言う。
「だから……あたしは信じてる。ルペルなら、きっとやれるって」
ねっ、と首を傾ける。その言葉に顔を上げたルペルは、顔をくしゃくしゃにしていた。
「アリエット……」
「あたしだって、不安だもん。きっとルペルはもっと不安だよね……でも」
ぎゅっと握る手に、アリエットの胸を締め付ける想いが溢れた。唇が言葉を紡ぐ。
「まけないで」。そのか細い声は吾輩の耳には届かなかったが、読心術の心得などなくても窺い知れた。
しばしの沈黙。ルペルが力強く頷き返す。
「……うん」
応えは、確かなものだった。
そんな二人の側に、近付くものが一人。ジェミニアーニである。彼の口元は真一文字に結ばれていたが、手をしっかと握り合っている若者達の前に立つと、唇が弧を描き微笑んだ。
「ルペル。キミは、世界中の人に笑われたっていいから、弱き人を助ける立派な魔術使になりたいんだろう?」
それを聞いてルペルは、潤む目を瞬かせた。
「……先生」
「違うっ!」
ジェミニアーニはルペルの額をぺしっと引っ叩いた。コホン、と咳を一つ。
「……キミの道は遠く険しい。だが、キミがその志を失わぬ限り、必ず行く宛てに辿り着くだろう」
ばさりとマントを広げる。それはあたかも、ルペルを誘うように。
彼方に見えるは、ユゲルリング・リングリオス。大言に恥じぬ力を持つ、炎の魔人の姿が、熱気に揺らめき立っている。
「途は、自らの力で切り拓くのだ」
「……自らの、力……!」
ルペルは我らに背を向ける。その目は確かに、その大男へと――前へと、真っ直ぐに向いていた。
2
「おいッ! 感動の青春群像劇も結構だが、このユゲルリングの存在を忘れてはいないか?」
と、怒気を巻き上げ声を荒げる炎の魔術使。
「でも、何かイイよね、あー言うの」
と、夢見る乙女のようなきらきら輝いた瞳でうっとりするパナ。
「お前はどっちの味方なんだッ」
「強いて言うなら時代の味方?」
などと、ポーズを決めてしゃれめかす。
「それならば私の下にいて正解だ。何しろ私は、その名を大陸に轟かす予定だからな!」
ユゲルリングが豪快に笑った。まあ確かに、轟くかも知れない。無論、下手人としてだが。
ジェミニアーニがルペルとユゲルリングの丁度中央に立つ。本日二度目の仕切直しだ。彼の手の上がる矛先には、今にも落ちてきそうな空がある。
「待たせたね、炎の魔人」
一つ、指を鳴らした。
空は蒼い。それは、誰が考えるまでもなく当たり前のことだ。夕方となれば紅く染まる空にも、帳が降りれば闇に沈む空にも、疑問を抱くことはない。それが、当たり前だからだ。
しかし……吾輩はその認識を疑った。空が、見る見るうちに黒く塗りつぶされていくのだ。いや、違う。何もない空間から、黒くどんよりした雨雲が広がっていくのだ。皆、狐につままれたような顔でその光景をみている。
にわかに雲は渦を巻き、辺りは鬱蒼とした霞を帯び出した。
「……ハンディキャップのつもりか? 我が炎に雨なぞ、何の鎮めにもならんぞ」
ユゲルリングが月の使者を睨み付ける。
「なに……演出だよ。この陽光では、吟遊詩人も絵にならないと嘆くだろう」
月の使者がひらりとかわした。
「嵐、雷雨、劫火。それらは物語に輝きと色彩を与える為に不可欠なエッセンスだからね」
「ふん……好きにするがいい。何をしても、私の勝利は揺るがぬ」
そう言い、ユゲルリングは杖の尻で地を叩く。
「さあ、さっさと始めるぞ。いい加減、私の炎が外へと溢れそうだからな」
それは恐らく虚言ではない。ぽつり、ぽつりと降ってきた小振りな雨粒がヤツの身体に触れるたび、小さな音を立てて蒸発していく。全身を覆ったマナが、早くも炎と姿を変えつつあるのだ。恐るべきは、炎の魔人の逞しき想像力である。
「……これ以上水を差すのも野暮だろう」
吾輩の言葉に、月の使者は大きく首を振る。
「違いないな……ルペル。準備はいいか?」
「はい」
ルペルははっきりと了承を示した。その姿、その雰囲気は、いっぱしの魔術使である。その成長ぶりに、不覚にも吾輩、すこしばかり目頭を熱くしてしまった。
誤魔化すように、一言。
「行って来い! 奴を倒して初めて、魔術使を名乗ることが出来ると知れ!」
吾輩の皮肉めいた言葉にも、ルペルは気を動ずることなく力強く頷いてみせた。
「うん。僕、頑張るよ。せいいっぱい」
そうして、ルペルが戦の場へと足を踏み入れた。
「ユゲルリングさん!」
ルペルは相手の目を見据え、離さなかった。
「僕はきっと、あなたに敵わない。でも、一生懸命戦います」
ジェミニアーニが細剣を高々と掲げる。そして、今度こそ――
「もう、後悔はしたくないからっ!」
「……始めッ!」
――戦いが始まった!
始めに動いたのはルペルだ。杖を構え、ユゲルリングに突進する。その瞳には迷いはない。先程までの甘えた根性は、もうなかった。
「良い覚悟だ」
大仰な動きで印を組みユゲルリングが魔力を結集し始めると、ドクロの眼窩から紅い光がちらちら吹き零れた。
「その度胸を讃え、加減無しの最高出力にて屠ってやろう! 『火』『火』『気』『風』四行よ、存分に暴れるがよい! 『極大轟火焔破』あぁッ!」
放たれるのは巨大な火球! ヤツと初めてまみえた掘っ建て小屋でも炸裂した、ユゲルリングのオリジナル呪文だ。
ルペルが転がりながらそれを避ける。時折爆風になぎ倒され、破片で傷を負いながらも、その脚は止まることなく動いていた。
しかし、火球は息を吐く間もない程に連発されている……このままでは時間の問題だ!
「ほらほらどうした! 逃げてばかりでは、何も変わらんぞ!」
確かにその通りだ。いつ直撃を受けてもおかしくない、ルペルを掠め焦がす火球は、次第に数を増している。
反撃しなければ……しかし、叫ぼうとする吾輩を手で留めたのは、ジェミニアーニだった。
「何も変わらない……? それは、どうかな?」
柔らかな口調でそれだけを呟く。
「何言ってるの! このままじゃルペルが……!」
駆け出そうとするアリエットも同じく手で諫め、「まぁ見ていろ」とウィンクした。修羅場に似合わぬその仕草に、吾輩、何となく従ってしまう。
アリエットがとても不安そうな目をジェミニアーニとルペルに交互に向けるが、ジェミニアーニは泰然自若として動かない。それは、何故か……吾輩、ハッと気付いてしまった。
「……そうだ。ルペルを信じよう、アリエット」
彼はルペルがこのまま負けるなど、露程も思ってはいないのだった。その自信はどこから来るのか……一介の学生に、一体何故そこまでの信頼を寄せることが出来るのか……吾輩には解らなかった。
しかし、だからこそ……我らが動じてはならないのだ。
「……ルペルっ」
アリエットが組んだ指を顔に引き寄せ、ぎゅっと目を瞑った。見ていられなかったのだろう。
ルペルは体中に焼け焦げた痕を作っていた。幼い顔には煤がこびり付き、焦燥の色が濃い。
片手では数え切れない量の炎が飛んだ。ルペルはそれに追い立てられるように、ある一つの場所に逃げ出す。
そして、ルペルの足が止まった。瓦礫の狭間、背には壁。そこは正しく袋小路で、逃げ場などどこにも見あたらない死の淵であった。
「くっくっく……いよいよ、年貢の納め時だな。覚悟はよいか?」
ユゲルリングがじわじわと焦らすように、マナを杖の先に灯らせる。
「私と出会ったことを最大の誇りに、そして、最大の不幸に思うがよい。……『極大豪火焔破』ッ!」
目の前が紅く赤く染まり、炎が迸る――
――その炎が火種を失ったように立ち消えたのと、ユゲルリングの表情がはっきりと歪んだのは同時だった。
「……くっ、何だ……?」
ユゲルリングの足元がぐらり、と揺らいだ。いや、そうではない。ヤツの脚が、崩れたのだ。
まるで糸の切れた操り人形のように倒れ込み、地面に手を突いた。すぐに立ち上がりはしたものの、ユゲルリングの顔には、大粒の汗が幾つも浮かんでいる。
「一体、どうしたと言うのだ……?」
吾輩の鼻先に指が突き付けられた。月の使者が口を開く。
「マナは無限だが、人が一時に持ち得るそれは無尽蔵ではない。あんなに連続で消費し続ければ、その反動はすぐに押し寄せる」
……そうか。ジェミニアーニの言葉に、吾輩ようやく理解した。ルペルはただ闇雲に逃げていたんじゃない。さしもの炎の魔人と言えど、あれほど高火力の魔術を連発しては、魔力の枯渇、精神力の疲弊、判断力の摩耗……それらを避けることは出来ない。全てはユゲルリングを弱体化させる作戦だったのだ!
気勢がそがれたユゲルリングは、その巨体を一瞬揺らがせる。
その隙を、ルペルは見逃さなかった。
「『風』『気』二行よ、風の刃となれ……『鎌鼬』!」
見る間にマナが空を切り裂く。魔術を行使したことを吾輩が悟るより早く、ルペルは『鎌鼬』を完成させていた。
「ぐあぁッ」
刃は狙い過たず、ユゲルリングの肩口を切り裂いた。ユゲルリングの顔が苦悶に歪む。
ルペルはさらに、『鎌鼬』を二つ、同時に発生させた。崩れたところを一挙に叩く、戦術の基礎知識が生きている。
「ちぃっ、調子に乗るなっ! 『火』『火』『火』『火』四行よ、哮り炎の瀧となれ、『爆布』!」
堪らず、ユゲルリングはマナを魔術という炉にくべ、何もない筈の大気から火の手を熾した。それは怒濤のように吐き出され、風の刃を一息に飲み込み、咀嚼する。その勢いは微塵も衰えることなく、見上げるほど巨大な火焔の海嘯がルペルを彼岸へ押し流さんと目睫に迫った!
しかし、ルペルの脚は動かない。炎に呑み込まれるその刹那、その唇が言葉を刻んだ。それは、魔術であろうか……?
「ルペルっ」
吾輩の言葉は怒号に掻き消された。燃えつくような熱波が埃を巻き上げ吹き荒れる。アリーナはくゆり満ち、目の前が真っ白になった。
「ど、どうなったのだ? まさか……」
吾輩は一瞬にして勝負が決したと思った。しかし、それは早とちりであったことがすぐに知れた。
「な、何だとっ?」
ルペルは火傷の一つも負わず、ユゲルリングと対峙していたのだ。
猛火がルペルを焼き尽くすより先に、ごっそり持ち去られたかのような、不自然な穴が中央に穿たれている。ルペルのいる場所だけ、まるで炎が自分から身を避けて通っているように見えた。
ユゲルリングは追撃を怠っていた。否、できなかった。それだけ先程の炎には必殺の魔力を費やしたのだ。今、自らの軽率な行いをひどく後悔していることだろう。
しかし、あれは……?
吾輩の隣で、ジェミニアーニが不敵に笑う。
「巧いな。力に力を注いでは、単純な綱引きだ。それではユゲルリングには及ばない。肝要なのは、相手の力を殺すことだ」
「力を殺す……?」
「そうだ。いかな激しい炎であっても、そこに空気が存在しなければたちまち立ち消えてしまう。ルペルは己が掌に『空蝕』を定位させ、真空を作り出したのだ」
大気を弾き出す『空蝕』は『無』『風』『気』を重ねる三行魔術である。信じられぬ、ルペルがそんな高位の魔術を……?
「そうか……ショートスタッフに籠められしマナを発揮すれば、それも可能ということか……」
「いや。あれは、彼自身の力だ」
と、ジェミニアーニが髪を指で触りながら答えた。
「ばっ、馬鹿な! 基本十行ですら、ようようとして行使するルペルが……?」
しかし、その指摘は真実なのである。今も新たな魔術を使いこなすルペルの姿が、雄々しく吾輩の目に映っているのだから。
「ぬうぅっ、小癪な!」
ヤツは更なる魔術を行使しようとした。炎がルペルの魔術により掻き消された事実。それを認めることは、自身の力はルペルに劣っている、と言うことを認めるのと同じだ。魔力の快復を試み、詠唱を始める。
しかし……ルペルの方が迅い。
「『風』よ吹け!」
『空蝕』の渦中に膿み出された『風』が、勢いよく空気を吹き出した。高圧の風は四行を重ねた『業風』のごとき旋風を伴い、ユゲルリングの炎を天高く巻き上げた。まともにそれを浴びたユゲルリングは、派手にすっ転びもんどり打って倒れ頭を石畳に打ち付ける。止めと言わんばかりに上から降ってきた瓦礫がヤツの姿を轟音と共に消し去った。
何と、一行魔術と補助魔術の組み合わせで、あのような攻撃力をもたらすとは! 吾輩のいるところまで結構な距離があるというのに、それはそれは大勢力を誇る台風のごとき風速で、飛ばされそうになるのを必死で堪えねばならない程だ。
「ルペル……本当はすごいんだ」
「吾輩も……同感だ」
ならばしかし、今までの醜態は、一体何だったと言うのか……?
「ふふ……訳が解らない、と言う顔をしているな」
ジェミニアーニが訳知り顔で話し始めた。
「彼はね、平時は全力を出していない……いや、出せないんだ」
風が吹き抜けた。ルペルの放つ、魔術の風だ。吾輩のヒゲを揺らすたび、決意の深さが伝わってくるようである。
吾輩はごくりと唾を飲み込んで、月の使者に問うた。
「出せない? 呪いだとでも言うつもりか?」
「……そうだな。呪いと言えば、呪いだ」
彼は曖昧な返事を返す。何故だかその姿が哀しげに見えたのは、マナの満ちたる大気が見せたまぼろしであろうか。
「呪い、それは前世より繋がれし力の縛鎖……とだけ言っておこう。ともかく、ルペルには無比なる力が秘められているのだ」
そんな馬鹿な……吾輩はジェミニアーニの言葉を一笑に付そうと考え、そしてあることに思い当たった。
『竜の杯亭』の納屋を半壊させた、ルペルの『鳴る神』。地を、壁を、天井を這い回ったあの雷撃が、秘められた力の成せる業だとでも言うのだろうか?
がらがら、と大きな音がして、吾輩の思考は打ち切られる。
いかずちかと思ったが、違う。瓦礫を吹き飛ばし、降りしきる砂の雨から現れたのは、炎の魔人であった。
「ふっふっふ……なかなかやるではないか……流石は、ハーディエイジの弟子」
掌からくすぶる煙をもうもうと噴きながら、ユゲルリングはぜぇぜぇと焦燥の白い息を吐き出している。
「我が炎を破るとは、敵ながらあっぱれ……だが」
ユゲルリングはかつて見たことのない動きで印を組んだ。
「むぅうっ『理の壁』!」
何と、それは防御魔術であった。なるほど、あの奇妙な動きは、系統の異なる印を結んでいたからか。
「久しく使っていないからな……感覚が馴染まぬが」
ほのぼのと白く輝く炎の魔人は、ドクロの杖を逆手に持ち変えると、柄を引き抜いた。現れたのは、肉厚の刀身。
「仕込み杖だと?」
ユゲルリングの身丈半分程の長さを誇る剣は、実戦に十分堪えうる凶器である。その鋭い刃は、薄いレザーの外套など、苦もなく紙のように裁断するだろう。
「私が魔術のみならず、剣の腕においても魔人であることを、その身に刻み込んでやろう」
そう言うと、ドクロの剣を横薙ぎ縦薙ぎにめったやたらとぶんぶん振り回す。こうなるといよいよ、魔術使には見えなくなった。
対するルペルの手には、肘から先ほどの長さのショートスタッフが一本。長剣と相対するには、どうしても頼りなく見えてしまう。
「まずいな……接近戦に持ち込ませないよう魔術で牽制をするべきか……」
吾輩は思わず呟いた。
「そうかな……ルペルは、そうは思っていないようだ」
そんな吾輩を諭すかのように、ジェミニアーニは笑って見せた。
ルペルはショートスタッフを右手に持ち替え、中腰に構えた。定石を捨て、打って出る気だ。
「僕はもう……逃げない。裏切らない」
それは、自身に言い聞かすように。自分を奮い立たすように。マナが、ルペルの意思に応えるかのように活発に対流し始めた。
「僕を……僕のことを認めてくれた人を裏切らない! 『風』『風』二行! そして、『雷』『雷』二行よ! 我が身に宿り、思うが侭に吹き遊べ! 『疾風迅雷』!」
あれは……練金魔術! 一度精製したマナを生成し直し、相乗させると言う古の高等技術だ。
「一度崩れた砂の塔は、もう二度と元には戻らない。彼は……ユゲルリングは自分の力を過信しすぎなのだ。だから、いざというときに力が枯渇してしまう……対してルペルは、正にその対極をなす」
ルペルに宿った韋駄天の如き神速は、最早人の身で捉えられるものではなかった。ユゲルリングの目に映るのは、恐らくルペルの残像でしかない。何しろ人間より動体視力に勝るこの吾輩でさえ、その動きには反応できないほどなのだ。
こうなると、得物の違いなど何の有利も不利も生み出さない。
「彼に足りないのは、覚悟だけだった。今、それを得た彼の前に、敵はない!」
速度はそのまま力と変わり、ショートスタッフは巨人の振るう棍棒の如き膂力で撃ち抜かれる。ユゲルリングは疾駆する何物かを必死で見
定めようと細めた目のまま、またしてもくるくると回転しながらアリーナの壁に叩き付けられた。
アリエットが呆気にとられていた。そして、吾輩も。
「ぐぐぅ……そんな、まさか……この私が?」
そう、ルペルのマナは今や、炎の魔人を凌駕していた。にわかには信じられないその光景に、思わずして足が震えてしまう。
これは、ルペルの勝利もまんざら夢ではないか……? 吾輩がそう思いかけたその時、一筋のきらきらした光の軌跡が、暗い空を飛び回っていることに気付いた。
「ねーねーユゲル! 何か面白そうなの見っけたよ~?」
瓦礫の中からひょっこり顔を出したパナは、ぷぃ~んとユゲルリングの元へと飛んでいく。その手には、何やら方形の箱が一つ。パナの身丈では、正に抱える程大きい代物だ。
「はぁっ! あ、アレは!」
誰かと思えば、セルリアック十三世だった。顔を真っ青に染めて、何やら焦っている様子だ。
「あれは……我が国が門外不出の秘宝、魔獣の匣!」
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瓦礫の隙間からうねる炎の舌がとぐろを巻いて天へと昇る。泣き出した空の下で、今にも泣きそうな顔をするのは、アルチェスタ城主、セルリアック十三世だった。
「魔獣の……匣?」
「そうだ。魔法生物を封じ込めておく、いわばモンスターのびっくり箱だ。ちょっとやそっとじゃ開かないように厳重に封をして置いたのだが……」
匣を見る。そこには幾重もの鎖と魔術を施した封じの符が貼り付けてあった、その痕跡が残っている。
「どうやら、先程の崩壊でほとんど解けてしまったようだ」
ほとんど解けた……つまり、何かのきっかけで封印が解除されても不思議ではないと言うことか?
パナという名のとんだ懐刀が、匣を炎の魔人に届ける。
匣を手にしたユゲルリングは、にんまりと怪しい笑みを顔に貼り付けた。
「ふっふっふ……良いことを聞いた。やはり、私は時の女神に愛されているようだ……危機に瀕した時にこそ、大いなる奇跡が訪れるッ」
ユゲルリングが解呪の魔術を唱える! と言ってもただ火炎の魔術で外箱を破壊しようとしているだけだが、その危険性は隣で慌てているセルリアック十三世の様子から見て取れた。
「うわあバカ者、開けるな、絶対に開けてはならんぞ! その匣には彼の暗黒邪術使、ミハイロロロゥン・ドルドラルサルカが騎乗したと言われる獣が……!」
吾輩、その言葉に口からしぶきを吹いてしまった。ミハイロロロゥン、それは悪の邪術師の代名詞である。
「な、何でそんな危険なもの、迷宮に置いてあるのだ!」
「いやぁ、曰く付きの宝物とかあった方が、ホンモノのクエストっぽいかな、と……」
「馬鹿はお前だーッ!」
たた、大変だ! この世にかつて暗黒の時代をもたらした――生きとし生けるものを蹂躙し、この大地に死と混沌を根付かせた地獄の獣が、あの匣から出てきたら……? 吾輩、想像するだけで背筋が凍る思いだ。
「ルペル! ヤツを止めろ!」
「う、うん!」
ルペルが走る。間に合うか? 匣は、既に禍々しき狂気を吐きだして、今すぐにでも蓋が開きそうな程歪んでいる。
「がはははは、我がしもべに相応しき魔獣よ! さぁ、姿を現せ! そして、その身に宿る力、存分に奮うがよい!」
ユゲルリングが匣に火球をぶつけたその時、空に闇が迸った。目に、耳に、肌に、全てに絡み付く、それは暴力の塊であった。
皆、一様に顔を引きつらせた。ルペルの脚もすくんで動かない。ジェミニアーニまでもが、奥歯を噛み合わせ苦々しい表情を隠しきれないでいる。
吾輩は、命の危険を本能的に感じた。この場にいては、危ない。頭の片隅でちりちりと、警鐘が鳴り響く。
「がははははっはっは!」
ユゲルリングの狂ったような笑い声。手元は既に闇に閉ざされ見えなかった。匣から立ち上った闇は、頭上へとその手を伸ばし、広がっていく。天を覆い尽くした雨雲よりずっと、その暗色は濃い。
闇に触れられた暗雲が拒否反応を示すように、稲光を地面に放った。それは見たこともない凄まじさで、まるで花火が上がった夜空である。
「まずい……出てくるぞ」
その言葉を言い終わるか否か。一切の音が、水を打ったように止んだ。
絵に囚われたかのような風景。世界が止まったかのような錯覚。
やがて闇を割り、闇の中から現れ出でたのは一匹の獣だ。
ぎょろりと剥かれた大きな瞳には刃物のように鋭角な瞳孔が蠢き、は虫類のそれを想起させる。立ち姿は獰猛な肉食獣。二対の脚には十二本の弓なりに曲がった鉤爪を備え、山吹色の輝きを放つくちばしが得物を欲し硬質な音をがちがちと奏でている。鷲の如き翼をばさばさと懸命に動かす姿はあたかも巣離れをせんと風の訪れを待つ、幼鳥……。
その獣は、猛々しく四つの脚を地に張り、みゅーっ! と鳴いた。
……触るともこもこしそうな羽毛……大きさは吾輩よりすこし大きいくらい……その姿は地獄の獣と言うよりも……
「か……かわいぃ~ッ」
愛くるしい小動物、その言葉の方がしっくりきた。
喜色満面で近付くアリエットに、そいつは精一杯の強気で威嚇している。その仕草すら、彼女を喜ばせているだけだが。
側にルペルも寄ってきて、おっかなびっくり観察している。
こいつは……『世界の怪物・第一集』に総天然色図解付きで載っていた合成魔獣……の、幼生だろう。創造主の名前から、ドルドラルキマイラとでも名付けられようか。
鉤爪は百艘の帆船をひっくり返し、翼の一叩きは高き山脈を根こそぎ吹き払うという。おまけに炎のブレスまで吐く。地獄の獣に相応しき凶悪な気性で、十匹ばかり創造し野に放てば、瞬く間に世界を焼き尽くすと言う伝承まで残っている。
しかしまあ、それは成獣の話だ。と言って、合成魔獣をわざわざ幼生で創り出すなど考えられない。と言うことは、この姿で成獣なのだろうか……?
……あれに騎乗していたって、どんだけ小さかったのだ、ミハイロロロゥンは。まさか、妖精だったんじゃあるまいな。パナが背中に乗ってきゃいきゃい騒いでいるのを見るに付け、その疑念が確信に変わる。
「なっ、何だコイツは? これが地獄の獣だとでも言うつもりか!?」
大口を開けまくし立てるのは、ユゲルリングである。頭を撫でるアリエットからドルドラルキマイラを取り上げると、真正面からいかつい顔でまじまじと睨み付けた。
「みゅーっ」
恐らく、びっくりしたのだろう。ユゲルリングの大きな顔に小さなブレスを吹きかけた。
「どっ、どわぁッ!」
慌てて引き離すが、眉毛とヒゲが見事に焼け焦げ、きついパーマが掛かってしまった。いくら小さくとも、そこはやはり地獄の獣。ブレスの威力は大したものだ。
その拍子に手から抜け出したキマイラは、ぴょんぴょんと小さな翼で跳ねながらアリエットの足下に隠れた。ちらちらと周囲を気にしているようだ。何かを探している、そんな風にもとれるが……?
「くっ……くくくくく……この炎の魔人に対し炎を吹くとは。宣戦布告だなッ! そうなんだなッ!」
炎の魔人ならぬ炎の野人のようになったユゲルリングが、低い声で唸る。その声にキマイラは、みゅーっと少し高く鳴いた。
「いいだろう、その喧嘩買った! やってやるぞ! 全てを焼き尽くしてくれるわっ」
「最終的にはいつもそれかっ」
「やかましいわっ! これが私のスタイルだ!」
ユゲルリングの手が印を組む! 人間離れした快復力で、マナをざっぱに畳み込んでいく!
その時、アリエットの陰に隠れていたキマイラが、不意に飛び出した。小さな翼を動かし、ただ一目散にどこかへ向かっているのだ。
「みゅーちゃんっ」
アリエットが叫んだ。みゅーちゃんとはきっと小さな獣の愛称であろうが(気の早い話である)、キマイラは振り返ることなく無我夢中で翼をばたつかせている。
「がはははは、喰らえ地獄の獣!」
その背中に向かい、ユゲルリングが魔術を放つ。大気を焦がしながら、一直線に奔る三つの火球!
「駄目えぇぇッ!」
……しかしその必殺の火球がキマイラに届く、その瞬間は訪れなかった。上方より稲妻の如く飛来した巨大な何かが、軌道上を塞いだのだ。その何かは、ふさふさした羽毛に覆われていた。
鉤爪は百艘の帆船をひっくり返し、翼の一叩きは高き山脈を根こそぎ吹き払うという。おまけに炎のブレスまで吐く。地獄の獣に相応しき凶悪な気性を持つ……それは……!
「ドルドラルキマイラ……!」
きしゃああああぁぁっ!
バケモノが吠えた。腹の中までひっくり返りそうな大音量だ!
皆が押し並べたように驚奇に胸をつかえさせる中で、ただ一人ユゲルリングだけは驚喜に胸を躍らせていた。
「おお、これが地獄の獣か! 精悍な面構えと言い強健な体躯と言い、我が覇業、我が英雄譚に名を連ねるに相応しい。正に魔獣だ!」
ぎろり。ドルドラルキマイラは、その鋭い眼をぎゃあぎゃあ騒ぐユゲルリングに向けた。大きな瞳の中に、どたばたはしゃいでいる炎の野人が映り込んでいる。
「ねぇ、ヴィッケ……あの子のお母さんみたいだよ」
ルペルの指摘によく見てみると、アリエット曰く「みゅーちゃん」は地獄の獣の頭の上で、甘えるようにみゅーみゅー鳴いていた。
「そのようだ、な……」
もう、訳が分からない。匣に入っていたのはつまり、地獄の獣の親子だったと言うことか? だとしたら、随分アットホームな封印である。
「わはははは! さあ、私をそのふかふかした、いかにも気持ちが良さそうな背に乗せろ! そして世界を……」
地獄の獣は誇らしげに胸を張り笑い狂うユゲルリングに首をのっそり巡らせると、開口一番ブレスを吐き付けた。
その威力たるや、みゅーちゃんの比ではない。熱線が地面を浚うと、そこにはごっそりと溝が開通していた。しかも、職人の手になるそれと遜色なく、いやに断面がつるつるしている。
こんがりといい色に焼き上がる炎の野人。口を開くと、ぽわっと煙の輪っかが出た。何と言うか、あれで立っていられるのは流石としか言いようがない。
「こここ、コラ、地獄の獣! ともがらを巻き込むとは、一体全体ミハイロロロゥンはどんなしつけをしたのだ!? ペットの罪は飼い主の罪だぞ!」
威勢を整え唾を飛ばす。邪術使に良識を求める方がどうかしていると思うが……。
ともあれ、ペットのペットたるべき作法を説いているユゲルリング。地獄の獣が今再びブレスを吐き付けようと大きく息を吸い込むや否や、先程までの虚勢と余裕はどこへやら、ドクロの杖を放り出して逃げ出した。
しかし執拗に炎の野人を追う地獄の獣。そう……地獄の獣は我が子を苛めた張本人に、仕返しをしているのだ。
翼の羽ばたきが、烈風を吹かせ旋風を生み、竜巻を喚んだ。怒れる母親の一撃だ。
「ど、どわああぁぁぁっ!」
「きゃわぁぁぁぁぁぁっ!」
ユゲルリングは紙のように巻き込まれて、いとも簡単に遥か彼方へと飛んでいってしまった。
何とも呆気ない、炎の野人、ついでにパナも、戦いの舞台からさっさと退場してしまったのだ。
「きしゃああああぁぁぁ!」
勝ち鬨を上げるドルドラルキマイラ。みゅーみゅーとみゅーちゃんも嬉しそうだ……。
………………。
「……はっ」
あんまりな結末にあんぐり口を開け放していた吾輩は、果たして事態が好転していないことにはたと気付いてしまった。
「あ、あれっ? ユゲルリングさんがいなくなったって事は……僕の勝ち、なのかな?」
と、呑気な声を出すルペル。
「違う……その目論見は甘い見通しだ。なぜなら……」
そう。幕はまだ、降りていない。修羅囃子はまだ、時代に望まれていたのである。
「きしゃああぁぁぁ!」
仇敵を倒し、怒りは収まったかに見えたドルドラルキマイラ。しかし、そこは地獄の獣である。永らく暴れていなかった憂さも、相当に溜まっていたらしい。
頭上から見下ろす、獰猛窮まりない視線。地獄の獣は、怒りの矛先を我らに向けたのだ!
4
破城槌が如き鉤爪の一閃!
我らはほうほうの体でそれを避けた。直撃はしないものの、地を揺るがす圧倒的な暴力に脚を転げ、土を舐めてしまう。
「わ、わああぁぁ」
ルペルが慌ただしく踊らされている。先程までの頼り甲斐など最早見る影を失っている。それも致し方ない、幾ら何でも相手が悪すぎる!
ドルドラルキマイラの興奮は頂点に達し、見るもの全てを破壊し尽くす勢いだ。ブレスを天に撒き散らし、咆哮する。怒りに燃えているのか嬉しくて悶えているのか、はたまたただ暴れたいだけなのかはわからんが、身の危険が迫っていることだけは確かだ!
「うひゃあああ、助けてくれぇぇい」
魔獣を解き放つ原因となった双璧が一角、セルリアック十三世が、宙を舞いながら悲鳴を上げている。
丁度その時、地獄の魔獣が我らに天国の階段を歩ませるべく、その雄大な翼を大きく広げた。
「いかん、またウィングストリームだ!」
そりゃもう逃げるしかない。ジェミニアー二の言葉にさっきのユゲルリングの姿を思い出していた吾輩は、ルペルとアリエットに声を一掛けし、脱兎のごとく走った。
がぅんっっ!
耳元を痛い程劈く風、刹那、背を巨人が蹴飛ばしたような衝撃が走り、吾輩はアリーナの壁に叩き付けられた。
先だって行われたルペル対ユゲルリングの戦いで既に朽ちかけていたのだろう、がらがらと音を立てて壁が崩れ、外の情景が丸見えになる。
「ぐっ……」
激しい痛みを堪え、吾輩はよろよろと立ち上がる。隣ではルペルとアリエットが、苦痛に顔をしかめていた。
月の使者……ジェミニアーニは……?
「……の名において、風よ、此処に集え……『空切り』!」
彼は一人、戦っていた。
身震いするくらい膨大なマナが極限まで圧縮され、そして風となり放たれる。遅れて、ひゅんっ、と音がした。
空気の刃は目に見えない。その余剰として発生する衝撃波ですら、かつて炎の魔人を遥か遠く吹き飛ばした高位の魔術であるが、此度は『空切り』の本質、斬撃を地獄の獣に見舞ったのだ。
鋭利と言う言葉でも生温い紫電の一撃が、物質という細目に紡がれた結合を糸を解すように引き離す。右の翼から真っ赤な血が迸った。
「ぐわおぉぉぉぉぉぉんッ」
耳を塞ぎたくなるような獣の叫び声。切られた箇所はもう動かない。ドルドラルキマイラは翼での攻撃を断たれ、地面に降り立った。みゅーちゃんが心配そうに鳴いている。
「きしゃあぁっ」
形勢を不利と見たか、地獄の獣は踵を返した。その視線の先には……街がある!
「まずい! おいルペル、アリエットも! さっさと起きろ!」
「うう……ん」
と、ルペルの顔は至福の色に染まっている。どうやらよっぽど心地良い夢を見ているらしい。
「くぅっ、多少腕を上げたと思えばこれだ! アホは一生治らんと言うことか!」
吾輩は多少の愛憎を込めて、気付けとルペルを殴りつけた。吾輩の愛が功を奏したか、妙なうめき声を上げてルペルが目を覚ます。
「ん……おはよ、ヴィッケ」
「遅いわッ! 行くぞ!」
「へ……どこへ? 何をしに?」
「街へ、地獄の魔獣を倒しに、だ!」
そう言うと、ヤツの顔が露骨に歪んだ。どうせ、夢であってほしかった、とか思っているに違いない。
コイツはそう言うヤツなのだ、吾輩は忘れかけていた何か苦いものを感じずには居られなかった。
「きしゃああぁぁぁっ」
「馬鹿の一つ覚えだな……」
ドルドラルキマイラは、さっきから同じ行動をとっていた。すなわち、爪牙による蹂躙である。
極めて細密な風は、ノイズのように混信した風に弱かったのだ。ジェミニアーニの『空切り』をブレスでいなし、逆に反撃することを覚えた後は、自らの欲望を解き放つことに精一杯。思いの丈を爪と熱い吐息に込めて、文字通りぶつけている、と言う訳だ。
お陰で、街は既に三分の一程がまるで大地震でも起こったような廃墟状態。人は口々に「バケモノだー!」「モンスターだー!」と泣き叫び逃げ惑う、まるでタチの悪い怪獣小説の挿絵のようであった。
ジェミニアーニも精根尽き果て、今、我らの側で作戦会議を催している。
「と、言う訳で……聞いているのか、ヴィッケ君」
「何だ、その『君』と言うのは……聞いているぞ、ジェミニアーニ君」
吾輩の人を食った返答に口をへの字に曲げたが、そこは冷静で売っている(たぶん)月の使者、すぐに真面目な顔を取り戻す。
それもまあ、仮面越しなので怪しいものではあるが……。
「いいか、聞いての通りだ。ドルドラルキマイラの幼生を……」
「みゅーちゃんね」
アリエットが訂正する。ごほん、と咳を一つ払い、月の使者は続けた。
「みゅーちゃんを捕獲、もとい保護し、それを人質に……違った、お引き取り頂く取り引きの条件にする。詰まるところこの作戦は、ドルドラルキマイラの母性本能に期待するところが大きい」
ジェミニアーニがアリエットの苛むような目を気にしながら説明した。
地獄の獣にそんなものが……とは、あえて誰も突っ込まない。これ以上絶望の淵に立たされたいとは誰も思わないからだ。
「みゅーちゃんを奪う……あ、いや抱き抱えてくる役目は私がやる。以後、空を飛び回り牽制役に回るので、みゅーちゃんを連れアリーナまで母親をおびき出すのは、ルペルとアリエット、そしてヴィッケ。君達がやるのだ」
皆、真剣な表情で頷き合う。ルペルだけはその真意に迷いが見られるが。
「いいか、ルペル。この作戦はお前の双肩に全て懸かっているぞ」
「な、なんだよそれ~!」
「だって! 急がないと、アルチェスタは壊滅しちゃう。あたしのお店も危ないの。いざって時は、さっきみたいにすっごい魔法の一つや二つ、思い切ってやっちゃってよね!」
アリエットは腕をブンブン振った。なんだかんだ言っても、自分の生まれ育った故郷である。こんならんちき騒ぎで失ったとなれば、後悔を幾ら重ねても足りるものではないだろう。
アリエットの勢いに押されたか、ルペルは少し間を取った後、二、三回頷いた。
「おい、ジェミニアーニ。アリーナに追いつめて、その後どうするつもりだ?」
「封印の匣がまだ一つ、残っている。今、セルリアックを急ぎ回収に向かわせているから、アリーナで封印の儀を行う」
向かわせて……って、仮にも王に向かってその言い分はないとも思ったが、今は正直どうでもいいことである。
「では、準備は良いか?」
ジェミニアーニが互いの顔を見合わせ、重々しい口調で宣告した。
「ああ……幸運を祈る」
別れを告げ、月の使者は『飛翔』の魔術を唱えると、瞬く間にドルドラルキマイラの頭上まで飛び上がった。
中空を旋回し、母親の注意を四散させる。
ドルドラルキマイラは自分の鼻先をうろちょろする何かを気にし出した。むずかるように、顔の周りを手で払う。
「ルペル! お前も手伝うのだ、何か唱えろ!」
言いつつ、吾輩は『光』を二つ重ね、『閃光』を放った。突如発された輝かしき光源に、注意が逸れることを狙ったものだ。
「『雷』『雷』『土』三行よ、地を這い伝え……『地雷』!」
ルペルが地面に手を突き、雷撃を撃つ。地のマナを気脈と変換し、ドルドラルキマイラの足下を衝いた。
「きしゃああぁっ!」
ダメージは微々たるものだが……母親の注意は我らに向けられた。
ゆっくり、ゆっくりと首がこちらを向く。ドルドラルキマイラは我らを忌むべき敵と認識し、くちばしを開いた!
「みゅーっ!」
喉の奥に火の手が燃え上がったその時、月の使者が一陣の風のように行き過ぎた。みゅーちゃんはその風に流され、高く高く舞い上がる。
よしっ! ジェミニアーニは見事、みゅーちゃんを奪い去ったのだ!
後は、ドルドラルキマイラがみゅーちゃんに気を取られ、破壊の手を止めて追いすがってくれればよいのだが……。
そう。効果はてきめんだった。いや、てきめんすぎた……。
「きっしゃあああぁぁぁぁっ!」
我が子を奪われなおさら我を忘れたドルドラルキマイラは、辺り構わずブレスを吐き始めたのだ!
母親の愛する気持ちは、種族の壁など越えて確かに存在していたと言うことか。しかし、その美談は我らにとって冥途の土産になりかねない。
「いかん……これでは街ごと吹っ飛ぶぞ!」
大袈裟に言っているつもりは毛頭なかった。表情に乏しい猛禽の顔に、明かな怒りを見て取れるのだ。冷徹なくせ熱いことと言ったらもう、まるで例え様がなかった。
「バックに燃えさかる炎を背負ってるって感じだね!」
「……おお! そうだ、その通り! たまには冴えてるぞ、ルペル」
「そんなことどうでもいいから、早く何とかしてーッ」
降りしきる瓦礫に頭を抱えるアリエット。折しも月の使者が我らが元に舞い降りてきた。足は止めず、走りながら我らは相談する。
と言うのも、我が子が手の届く場所――我らの手の中にいると解ると必然、ドルドラルキマイラは俄然猛然と躍りかかってきたからだ!
「ななな、何とかしてくれ!」
「では、この子を頼む。私は命を懸けて、彼女の気を引いてみせる!」
そう言って再び空へと舞い上がる月の使者。吾輩は一抹の期待を彼の悠然とした姿に託した。
しかし……いくら目の前を遊弋しようと、アクロバティックな曲芸飛行を見せつけようと、怒れる母親には何もかもがはりぼての背景に過ぎなかった。彼女の前にあるのはただ一つ、我が子を奪った怨敵のみなのだ!
「ひえぇぇ~、とんだベビーシッターを請け負っちゃったな~。大怪鳥の卵穫りをしてる冒険者って、こういう気分なのかな?」
「何を呑気なことを……黙って走れ走れ、舌を噛むぞ!」
「ヴィッケもね!」
皆、火事場の馬鹿力を総動員して走る走る!
人間死ぬ気になれば大概のことはこなせるらしい。四つ足の巨大な肉食獣相手に追いつかれそうで追いつかれないのだ。何度か、くちばしが後頭部を突いたり、爪が背嚢を引き裂いたりはしたが、全員どっこい生きている。
今にも転げそうなちぐはぐな脚をどうにか走らせ、我らは城門まですぐそこ、と言うところまで来ていた。
しかし……急造安普請な奇跡は、やはり長くは続かない。
ドルドラルキマイラがブレスを一吹き! 熱線は我らの頭スレスレを掠め、前方にそそりたつ城門に照射される。麗しき都の象徴に大穴が空いた。装飾の女神像が、支えを失い前に後ろに船を漕いでいる。
「……あっ」
アリエットが大地の鳴動に脚を引っ張られた。みゅーちゃんを守るように、自らの身体をクッションにして倒れ込む。
「アリエット!?」
少女の姿が消えたことに気付き、ルペルは後ろを振り返る。しかし……一度向けたその目を覆いたくなったに違いない。
「きしゃあああぁぁっ」
もはや逃げ場はない……とでも言っているのか。ドルドラルキマイラは最早盤石の態勢で、アリエットの眼前に迫っていた。
アリエットは立ち上がらない。否、出来ないのだ。転んだ拍子に脚を挫いていたのを、吾輩は見てしまった。
「『地雷』っ」
ルペルの魔術が地獄の獣の膚を灼く。獣は大きく吠えた。
続けて印を組み出したルペルに、しかし取りすがったのは、アリエットだった。
「ダメぇ、ルペル!」
泣きそうな顔で訴えるアリエット。懐では胸に挟まれたみゅーちゃんが窮屈そうにみゅーみゅー鳴いている。
「傷付けちゃダメだよ! いきなり起こされたんだもん、ちょっと混乱してるだけだよ、きっと!」
「そんなこと言ったって……」
仕方なく、ルペルはアリエットに手を差し伸べた。肩を貸すつもりなのだ。
「みゅーっ!」
ほんの一瞬。アリエットの片手がルペルの手に掛かったその時、隙間からみゅーちゃんが飛び出した。
しかも、悪いことと言うのは、立て続けに起こるものである。
ぐらり、ぐらりと風に揺らいでいた城門の女神像が、遂にバランスを失い、崩れ落ちてきたのだ。巨大な女神が、ゆっくりと破滅への自由落下を始める。それは、誰もが目を疑う光景だった。ドルドラルキマイラの幼生――みゅーちゃんが、正に落下地点にいるのだ!
「みゅーちゃん! 行っちゃダメぇッ!」
痛めているはずの脚で、アリエットが掛けだした! あまりのことに痛みすら忘れているのだろう、みゅーちゃんを抱きすくめ、必死に守ろうとしている。
「いかん、二人とも下敷きになるぞ!」
轟音を上げ襲いかかる殺戮の凶器が、絶望の修羅場を創りあげんと欲っする……!
そして、吾輩は見た。その瞬間を。
「なんだ……あれは」
死の女神が、光の粒子へと変貌する。空間に拡がり、散っていくのだ。現実にそぐわない、まるで夢のような光景……。
「あれがルペルの真の力だ」
いつの間にか隣りに降り立っていたジェミニアーニが言った。
そう……奇跡のような出来事は、ルペルが発動した魔術が引き起こしたのだ。信じがたいことであるが。
「はぁっ、はぁっ……ぼ、僕……?」
放った本人も良く解っていないようだ。ルペルはそのまま力尽きたように昏倒してしまった。月の使者が本人に代わり弁明する。
「ルペルは自身の内に、マナを封じ込んでいるのだ。大陸を沈める程の力の一端を、ね」
「大陸を……沈める?」
「そうだ。彼の内に眠る才能が限度を超えて発揮された時、その力は……大陸をも砕くだろう」
身に迫る危険がなくなったと知ったアリエットは、その光の中、みゅーちゃんをそっと抱き抱えた。
「十行を無に帰す力……全てを殺す力……無限の光……それ故、あれはこう呼ばれる」
月の使者は一息置いて、唱えた。
「『十戒』と」
そうか、思い出した……遙か昔、魔人戦争にて『十戒』と言う魔術を使いこなし百の魔人を殲滅したとされながら、正史に名を刻むことのなかった伝説の英雄が居たと言う。その名は……『光輝』ルクス・エテルナ!
「ルペルの真名に、そんな秘密があったとは……」
ドルドラルキマイラは、一連の出来事に目を丸くしていたが、アリエットがみゅーちゃんを手に近付いてくると、我に返り「しゃあぁ」と鳴いた。
「ごめんね……やっぱり、非道いことできないよ。この子は、あなたに返すから……ごめんね」
アリエットは決して目を離さなかった。地獄の獣の瞳に今、彼女は何を見ているのか……それは母親だったに違いない。
吾輩も、慌てる必要がないことくらい見て悟った。ドルドラルキマイラはみゅーちゃんを背に乗せると、傷ついた翼をはためかせた。何かを言うように首を一度巡らせて一声鳴き……そして、遥か彼方へと飛んでいった。最後に、暖かな光を瞳に宿らせて。
アルチェスタ滅亡の危機は、去ったのだ。
5
がらら、と瓦礫を押し退けて、顔を出す男が一人。
「むむ……一体、どうなったのだ?」
炎の魔人、ユゲルリングである。
「少しおいたが過ぎたようね、ユゲル」
ジェミニアーニが覗き込むようにすると、ユゲルリングの顔が真っ赤に爆発した。
「お……お前は……!?」
「久し振りに胸が高鳴ったけど。でもこれはちょっと、やりすぎね。だから、お仕置き」
へっ? と言う顔で、ユゲルリングは空の彼方へと消えた。それはもう簡単に。
「では」
と、城主が仕切直す。それは幾ら何でもあんまりだと思ったが……まあどうでもいいか。
「この勝負、ルペルツィオの勝利である!」
その宣言に、我らは沸いた。ルペルは涙まで浮かべていた。
「それでは……コインを見せてもらおうか」
コイン……そうそう、忘れかけていたが、迷宮で手に入れたコインが必要なのであったな。
ルペルは満面の笑顔で懐をごそごそやり……そして次第にその顔に暗雲が立ちこめていく。
「あれ? ……ない」
体中のポケットをまさぐって、あらゆるところを覗いてみるが、一向に見つかる気配はない。ルペルはハッと何かに気付いたような顔をした後、今度は土砂降りの表情になった。
「逆さにされた時、落とし穴に落っこちたみたい……」
「キミの探し物は、これかな?」
と、ジェミニアーニが指に挟むのは、大礼王のコインだ。
「あ! それ、ソレですよ~」
お預けされたイヌのように手を広げそれを待つルペル。しかし、月の使者はニヤリと笑いそのコインを宙へと弾いた。
「はっはっは! と言う訳で、秘宝『ハーディエイジの聖印』は私が戴いた!」
ひらり、とマントが風に舞う。セルリアック十三世の手にあった宝石箱は、彼の月の使者の小脇に抱えられていた!
「えっ、えっ、えっ?」
「欲しければ自力で奪いに来るのだな! はっはっは~!」
そう言って月の使者は、空の彼方に消えたのだった。
「そ、そんな馬鹿なッッ!」
吾輩の叫び声も、空しく空の彼方に消えたのだった……。
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