第二章『炎と風の魔人』

  1


 天の機嫌は変わりやすい。空の気運は女人の腹案と同じもの、と揶揄されるのにも頷ける。

「いやあ、たいへんだ」

 大変なつもりだろうか、ルペルが眉根を下げてのたりと言った。

 敷き詰める石畳は黒く濡れ、至る所に出来た水たまりがぱしゃぱしゃと音を立てる。吾輩の自慢の黒毛もしっとりと肌に張り付き、不快なことこの上ない。

 ご主人様の城――ハーディエイジ魔法学院を出て三刻は経っただろう頃、つまりは先程、変わり映えのない景色の寂れた街道に大粒の雨が降り始めたのだ。

 雨具はないのかと急かす吾輩の言葉でようやくルペルは雑嚢に手を突っ込みごそごそやったのだが、ぴた、と動作が止み、顔を上げたこの男、「あ、忘れた」とかほざいたのだ!

 最早学院に引き返すには長い道のりを歩んできている。かといって街道に人家は見あたらず、宿場へはどの道先に進まねば行き着くことはない。

 かくして我らはいずことも知れぬ旅の宿り木目指し走る羽目になったのだった。

「本当に大変と思うなら、もっと早く走れ、このバカ!」

「自分は走ってないくせに~!」

 何を言うか、上下左右と変幻自在に揺れる肩の上で、バランスを取るのも……とと、大変な作業だと言うに。

 頭上に立ちこめる黒雲は切れ目の見えない大きなもので、当分雨は止みそうにない。それどころか雷鳴まで聞こえる始末。

 外套のフードを深く被り直し、ルペルは首をすくめる。

「はああ、こんなことなら出発を明日にするんだったなあ」

 その言葉に後悔の念でも詰めているのだろうが、こうも緩慢に言われてはどうにも冗談にしか聞こえない。

「『雨傘』の魔術でも覚えてりゃ済んだことだろうが。基本十行の応用だ」

 吾輩は皮肉をたっぷりと効かせたつもりだったが、

「日常生活系の講義は取らなかったんだ」

 とルペルはそれがさも当然かのように言ってのける。

「杖使って雨傘造ろうか?」

「こんな所で折角のご主人様の厚意を無駄にするつもりか? 慎めバカ!」

 ちぇー、と唇を尖らせるルペル。この男は雨が降るたびに杖に頼るつもりだったのか?

 魔術とは、イメージに始まりイメージに終わるものである。どんな魔術でも基本十行の手続きを踏まねばならず、そこから新たな要素を見出し行使するものなのだ。『雨傘』を例に挙げれば、基本十行が内『無』と『気』のたった二つを複合するだけのいわゆる『二行魔術』。魔術を学ぶ人間が仕様を迷うような高位魔術では決してない。習いなどしなくても、少し考えれば分かるようなものなのだが……。

「ひえ~、どっかに雨宿りするとこないかな~?」

 ……無理か、このバカには。

 ご主人様には出来る限り魔術に関する助言は控えよと仰せ付けられている。どうやらルペルの才能に任せよとの含みであるようだが、吾輩にはもとより助言などする気はない。

 したところで分かるまいし……。

「……なんか、ヘンなこと考えてる?」

 突然足を止めたルペルが、そんなことを聞いてきた。

「なっ、何のことか分からんな」

「ふーん……そう?」

 ルペルはまた何事もなかったように走り出す。

 ああ、驚いた。おっとりしてると思いきや、意外に鋭い面もあるのだな……。

「背中でも掻いて欲しいのかと思ったよ」

 ……やっぱりルペルはルペルか……。

 そんな莫迦なやりとりをしている間も、ますます雨足は強まっていく。

 バリバリッ!

 暗い空を幾筋もの稲光が、まるで獲物を待つクモの糸のように走った。

「ひゃああっ! うわあ、もうダメだ」

「何がダメかっ。……まあ仕方ない。何処か木の下で足を休めよう」

「だからヴィッケは走ってないじゃない」

「まだ言うか……ほら、あの大樹が良い」

 吾輩の爪の先に見えるのは、樹齢三百年はあろうかという立派な広葉樹である。うん、と二つ返事でルペルはその木に向かった。


  2


 吾輩は木の虚に身を沈めた。そこは吾輩の身丈にぴったりとはまる、まるで設えたような居心地の良い空間であった。

「はぁ~、疲れた」

 ルペルが幹を背にどっかりと腰を下ろした。からん、と音がする。ポケットからだ。

「ん、欲しいの?」

 吾輩の訝しげな視線に気付いたルペルがポケットから取り出したのは、ブリキの缶であった。

「何だ、それは?」

「ドロップ」

 ふたを開け、白い飴玉を手のひらに落とすと、吾輩の鼻先に持ってきた。

 ……ってこれは、ハッカではないか。

「……好きではない」

「何で?」

 まさか「辛いから」など口が裂けても言えない。

「いらないなら僕が舐めちゃうよ」

 とルペルは自分の口に放り込んだ。

 暫くカラコロカラと、口の中で飴玉を転がす音が蕩々と響く。

 それが止んだ今も、雨は滔々と止む兆しを見せない。

「ねえ、ヴィッケ」

 二つ目の飴玉が入ってるからだろう、ルペルは少しくぐもった声で吾輩を呼んだ。

「何だ」

「ヴィッケって使い魔なんだよね?」

「何を今更。使い魔ならば、周りにも使役する者が居ただろう」

「そうだけど……」

 ルペルが空を見上げると、吾輩も釣られて上を向いた。そこには大樹より拡がり天を隠す葉が茂っていた。

「ヴィッケみたいに言葉を話すのはいなかったから」

 通常、使い魔は人間の言葉を解すことはない。何故なら、主人たる魔術使とは魂で繋がっており、意志の疎通は言葉の遣り取りよりもずっと明解に成り立つからだ。言葉を話せるようにする為の対価も大きく、その価値は一般的にみると低い。 

 しかし吾輩の場合、言葉を話す利点が有る。それは教壇に立ちご主人様の代わりを果たせる、と言うことだ。

「ほう。何か聞きたいことがあるようだな」

「うん……」

 ルペルは深刻そうな顔つきである。

「何でヴィッケは、使い魔になったの?」

「……随分唐突な問いだな」

 多少興が湧いた。吾輩としてはそれは、初めて聞く類の質問だったからだ。

 ルペルは突然空いた間に少し居心地が悪そうにしている。

 ……下らない質問ならば断固無視して黙らせてやるつもりだったのだが、まあ、相手をしてやらんでもない、そんな気になり、口を開く。

「では、こちらから逆に聞こうか、ルペルツィオ。なぜ、お前は人間であるのか?」 

「そんなの……分かんないよ」

「だろう。吾輩もそれは同じだ。だが使い魔となって、以前の吾輩であった……ネコを見るに付け、ご主人様に感謝を抱かずには居られぬ」

「え……何で?」

「ネコよりも高位の存在となれたからだ。以前ならばこのように考えることすらしなかった」

 ふん、と知らずの内に息が漏れた。

「……僕には分からないな……」

 ルペルがぽつりと呟く。吾輩はそんな反語が返ってくるとは露ほども思っていなかったので、何事かとルペルの顔を見上げた。

「他の何かより上になって、何がおもしろいの? 僕の周りはそんな人ばかりだった」

「……お前は試練に出ることが適わず、級友に莫迦にされたそうだな」

「……うん」

「悔しいだろう?」

「……うん」

「その悔しさは、己の弱さが生み出したのだ。だからこそ、強くなければならん」

 吾輩の言葉は書物の受け売りである。ご主人様は、決して人の弱きを責めることはなく、包み込む優しさと徳にて人心を向かす。吾輩には出来ないことだ。

 しかし、なればこそ、吾輩は厳しくあらねばならない。ご主人様の側に従う騎士は、強く非情であらねばならないのだ。

「強いって、何かな」

 ルペルは自分に言い聞かせるようにか細く呟いた。いや、恐らくそうであろう。青い瞳は固く閉ざされている。

「……お前、何故魔術使になろうと思った?」

 素直な疑問だった。

「僕には、分からない……」

「どう言うことだ? 自分が選んだ道であろう。自信を疑うなど、愚か者のすることだ」

「僕は、三年前にこの学院に来たんだけどね……」

 吾輩の言葉が聞こえていないかのように、ルペルはまぶたを伏せたままだ。

「そのころは、何かやりたいことがあったはずなんだ。でも、今ではもう思い出せないんだ、何がやりたかったのか」

 吾輩は黙って聞いていた。

「入ってすぐだったんだけど、先生達が僕を見てすごく驚いていたんだ。その時、僕は何で驚いたのか分からなかったんだけど……ある日、それが分かった」

 何だったのだ、そう聞こうとして、吾輩は口を閉ざした。

 ルペルは、泣いていた。

「初めは皆、僕に優しくしてくれた。だけど、僕が魔術を見せると、つまらなそうな顔をして僕の前から居なくなるんだ」

 雨音にルペルの嗚咽が混じり出す。すくめた肩に顔を埋め、微かに震えている。涙を見せまいとしているのだろうか。

「……僕に話しかけてきてくれたのは、ハーディ先生だけだった。だから、僕はこの旅を絶対にやり遂げたい、けど……そんな力は僕には無いのかもしれない」

 そんなことは、と言いかけて止めた。今まで散々ルペルをなじってきた吾輩に言えることは何もないだろう。

 ましてや、真に思っていることではないのだから。

「ご主人様はお優しいからな……」

 そうやって、間をつなぐようにしか出来ない。

「うん……」

 言って、また沈黙。

「体術の授業で怪我したとこに、クスリを塗ってくれたしね……」

「なッ!」

 何だと? そんな羨ましいこと、吾輩でさえしてもらった覚えはないぞ!

「お前、どのような権利を持ってしてそんなことをして貰えたのだッ?」

「へっ……権利って、そんなもの……」

「権利じゃなけりゃ何だッ! 好意だとでも言いたいのかッ?」

 吾輩はルペルの鼻っ柱を喰い千切らん勢いで迫る。

「いたたたた!」

 あ、いや、既に噛みついていたようである。無意識というのは恐ろしい。

 ともかく! 吾輩の預かり知れぬ悪行を見逃すわけには断固いかんのだ!

「お前のような奴にあの清らかな指が触れたというのかッ?」

「な、何でそんなに怒るのさ?」

「これが怒らないで居られるか!」

「さ、さっきまで僕の話に同情してくれてたじゃないか~」

「それとこれとはまるで関係がない!」

 怒りの鉄拳がルペルに炸裂! だが哀しいかな、吾輩の肉球では致命打には至らず、ルペルはその情けない泣き顔を少し引きつらせて見せただけだった。

「何するんだよ、もうっ」

 がっしりとルペルの両手が吾輩の顔を包み込んだ。そのまま左右に引っ張られる。

「僕だって、怒る時は怒るよ!」

 ぐいいっ!

「痛、いたたたた!」

 吾輩は両手(俗に言うところの『まえあし』である)を突っ張らせ、ルペルから距離を取った。

「やりおったな。許さん!」

「それは僕のセリフだよ!」

 かくして、全く無意義な戦いは始まった。

 吾輩が四方八方を走り回りルペルを翻弄する、すると奴は荷物を放り出して恥も外聞も無く吾輩に掴みかかってくる。

 そんな、お互いに決め手の出ない、というか出よう筈もなく、体力の果てまでも行き過ぎて、二人して倒れてしまった。

 吾輩とルペルは地べたに寝転がり、乱れた呼吸を諫めるのに必死である。

 雨粒が、火照った体を潤していく。

 ……そして、長い沈黙の後、吾輩は口を開いた。

「ルペルツィオ。先程の問いの答えだがな」

「え?」

「何故使い魔になったのか、と聞いただろう?」

 ルペルは少し考え、やがて思い当たったようだ。

「あ……うん」

「吾輩は今でこそ使い魔となったことを誇りに思っているが、自分からなりたいと願ったわけではない」

「え……そうなの?」

「当たり前だ。ネコだったのだから。そんなことは考えもしなかったろうな。しかし今は、使い魔であることに一番の意義を見出している。まあ、そう言うことだ」

「そういうことって、どういうこと……?」

 ええい、まだ分からんか。

 吾輩はヒゲを前足で撫でてから、ルペルの顔を横目に眺めた。

「つまりはな……物事は最後まで、と言うかその時まで、何が起こるか分からないと言う……むう、言いたいことが巧く口に出来ん……纏まらんな」

 吾輩が暫し思考の海に身を投げ入れていると、不意にルペルがポンと手のひらを叩いた。

 何だか、瞳をキラキラさせている。  

「ああ、こういうこと? なるようにしかならない!」

「だぁぁ! 吾輩の崇高な考えをそんな陳腐な言葉で表せるか、バカもの!」 

 吾輩は肉球でルペルを殴りつけた。まったく、人が下手に出てやると付け上がりおって!

 ルペルは殴られたにも関わらず、にやにやと気持ち悪い笑みを浮かべている。

 その顔は、いつもと変わらない、情けない顔だ。

 涙の痕が見られるだけ、少し情けなさに度が増している……

 ……まあ、人には色々な事情が有るものだ、うむ。勉強になった。

「ルペル、吾輩にも飴玉をくれ」

「あれ? 嫌いじゃなかったの」

「甘いのが好物なのだ」

「……辛いのが嫌いなんだね」

 うるさい、と吾輩が言う。 

 くす、とルペルが笑った。


  3


 その後、待てども待てども雨の止む気配はまるでない。いよいよ待ち疲れ、闇夜と雨の中を野宿する羽目になろうか、と言うその時である。

 街道から、なにやら物音がした。パッカパッカパッカ……。

「馬だ!」

 ルペルが言った。吾輩、実のところ馬と言うものを実際に見たことがなかったので、それが蹄の音だとピンとこなかった。……何故か腹が立つな。

「どうするつもりだ?」

「乗せてもらおう」

 これだ。この旅慣れない坊ちゃん精神。吾輩は善意で忠告してやろうとしたが、既にルペルは行動に走っていた。

「すいませーん!」

 ルペルが諸手を挙げて立ちはだかった。馬はどうやら一頭。乗っている人物は、大仰な漆黒のローブを身に纏っている様子から察すると、魔術使だろう。

 魔術使らしき人物は手綱を引いて馬を止めた。

「……何の用だ」

 う、低い声だ。姿を間近にして初めて分かったが、かなり大柄な体躯である。口ヒゲを生やし無骨な印象を与えるその容貌は、周囲を圧倒する圧力も十二分に備えている。ローブを羽織っているだけで、戦士かもしれん。

「いやあ、雨で、困っちゃって」

 なんだそれは! 吾輩はルペルの無計画振りについ突っ込んでしまう。そもそも、誰かも分からぬ人間を疑いもしないことが既に信じがたい愚なのだが……。

「どこか、おいしい食べ物と暖かい布団のある雨宿りの出来る所ないですかね~」

 あるか! 吾輩はルペルの無理な要求につい突っ込んでしまう。

 しかし、魔術使らしき大男は少し間をおいた後、

「うむ、私の記憶が正しければ、この先に小屋が有った筈だ。丁度私も行くところだからな、乗っていくか?」

 とルペルに手を差し伸べたのだ。

「はい、乗ります乗ります」

 ……いかん、余りにも無謀だ。吾輩は警告のため、にゃんと鳴いた(正体を知られぬ為にだ、吾輩は用心深いのだ)。

「おや、使い魔を連れているのか」

「にゃ……」

 ぐ、既に見透かされていたか。いやしかし、吾輩にだって使い魔としてプライドがある。

「い、いかにも、吾輩は魔だ。しかし、お主の眼、節穴ではないな。いとも容易に見破るとは」

「それくらい見抜けぬ私ではない。そういう匂いをさせている」

 と。 

 大男は、ルペルを見てそう言った。

「……眼、大丈夫か? ちゃんと開いているか?」

「……ヴィッケ……それはどういう意味?」

 うお、ヤケに鋭いルペルの突っ込み。迂闊にもたじろいでしまう。

「どうみても僕たちのこと、ちゃんと見えてるよ」

 ……まあ、ルペルはルペルか。

「……ふ」

 大男が眼を細め口を歪めた。笑っている……ように見えなくもない。

「ところで、乗るのか、乗らないのか? 私も急ぎたいのだが」

「う~む、それなんだが……」

 言い渋ると、ルペルは吾輩が乗るのを当然と思っていたらしい、吾輩の言葉に今にも泣きそうな顔になる。な、情けない顔だ……。

「食事まで濡れるのは困る……どうするのだ?」

「食事?」

 その瞬間、吾輩の頭の中にある一つのキーワードが浮かび上がった!

「……甘いもの」

「ん?」

「甘い食べ物はあるのか、と聞いた」

「……ああ、ビスケットがあるが」

 うっ、ビスケット! ……いかん、いかんぞヴィッケ! ご主人様の言葉を忘れたか!

 ……ああでも、足が勝手に……吾輩、ダメかもしれん。ご主人様ぁ、お許し下さい……。

 ……かくして、勝手に動いたところの吾輩の足はルペルの懐に収まった。

「助かりました~、どうもありがとうございます。僕はルペルツィオって言います。親しい人はルペルって。こっちはヴィッケ」

「ユゲルリングだ。しかし……迂闊であったな」

 ん? 一体何のことだろう。

「大木の側で雨露を凌いでいるとは。雷は高みに落ちやすい」

「ええっ、そうなんですか?」

 ……そういえば、そうであった、ような。

「だってさヴィッケ。危なかったね~」

「……そうだな」 

 吾輩、どうやら面目に少々傷を付けたようである……。

「……では、行くぞ」

 言うが早いか、大男もといユゲルリングは手綱を引く。我らを乗せ馬は、雨の中を風切り走るのであった……。


  4


「そら、着いた」

 目標地点と思しき小屋には、少し馬を走らせるだけで着いた。

「……あばら屋?」

 ルペルが呻いた。

 隙間だらけの壁。所々腐り落ちた柱。空を見通せる天井。

 そこにあったのはルペルの言葉通り、荒れ果てた余りに質素な、「屋根がある」と言うだけの小さな掘建てであった。

「何をしてる? 遠慮無く入るが良い」

「遠慮をしてるわけではなかったのだが……」

 流石に「呆れていた」とは言えず、我らはユゲルリングの招きに応じ扉に手を掛ける。

 ぎぎぎぎぎぃぃ~。

 まるで百人の屈強な男達が立てる歯ぎしりのような音を上げ、扉はぎこちなく開いた。

「鍵は必要ないな、この強度ならば」

 吾輩が肉球でポンと叩いてやると、ベキッと接合部の金具が外れた。

「ふむ、五年前に来た時はもう少しマシであったが」

「……粋なバーカウンターでもあったか?」

 吾輩の言葉を意にも介さず、ユゲルリングは小屋の中央に歩き出した。

「待ってろ、火を起こす」

 そう言うと大男は、円に空いた窪みに薪をくべ、何かを呟いた。すると、灼けるような高熱の風が吹きつけ赤い火炎が揺らめいた。

「……お主、魔術使だったんだな、やはり」

 今の魔術、火の勢いやマナの動静からすると『火奔り』であろう。一般人には馴染みの薄い『三行魔術』である。補足しておくと、十行が内『火』『風』『気』を複合する。

「えっ、そうなんですか?」

「その通りだ。完全なる肉体と至高たる精神、それらを併せ持つのがこの私、ユゲルリング・リングリオスなのだよ」

 大男は筋肉の隆起した胸を張った。……吾輩、どうにもこういう自信過剰な輩は不得手だ。

「へええ、すごいなあ」

 ルペルが感心したように息を吐く。まあ、ルペルなどの未熟者にはこの高慢さが逆に高邁に見えるのやもしれん。

「こと火炎の魔術では、私の右に出るものは居るまい。それ故、私は『炎の魔人』の二つ名で呼ばれている」

 ……は。大方、自らで言い触らして回ったに違いない。高名を求めようとする愚民のよくやる手管だ。

 ユゲルリングは馴れた手付きで雑嚢から取り出した乾し肉をナイフで器用に捌き、火に当ててルペルによこした。

「ほら、ビスケットはこの中だ」

 吾輩の足下に革袋が放られる。……おい。何か感付くことはないのか。

「開けられないの? あ、指が短いもんね」

 ルペルが結われた紐を解き、中からビスケットを二枚、吾輩の前に置いた。……まあ、感謝してやる。

 ビスケットは何の飾り気もない粗末なものだったが、甘いものに目がない吾輩には文句のつかないご馳走だ。

 同じくユゲルリングが調理した種々の野草を煮出したスープをやっとで舐め終わると、吾輩は先刻から気になっていることを切り出す。

「ところで、何故お主はあんな寂れた街道に?」

 吾輩の言葉に、一瞬ユゲルリングは難しい顔をしたが、髭が覆う顎を擦ると遠い目をして語り出した。

「うむ。それがな、とある残虐非道な魔術使を斃す旅の途中なのだが……」

 ……はて? この辺りでそのような物騒な話はとんと聞かない。何せ、魔術を悪用する輩はご主人様が放っては置かないのだ。

「へーっ、悪の魔術使ですか~」

 ルペルが感嘆の声を漏らす。きっと奴の頭には稀代の暗黒邪術使、ミハイロロロゥンなどの名前が次々に湧いて出ていることだろう。

「その魔術使はな、私の仇敵でもあり、また人心を拐かす許し難き巨悪なのだが……まあどう言う訳か、途に迷ってしまったらしいのだ、わはははは!」

 膝頭をパンパカ叩き、豪快に笑い飛ばすユゲルリング。あ、アホだ……生粋のアホだ……。

 こんな調子ならば、奴の言うところの『残虐非道の極悪至極魔術使』とやらもどうせ大したことはあるまい。

 吾輩はこれ以上話を聞くのも莫迦らしくなり、尾を向け寝に入ろうとした。

「ちょっと、うるさいわねえ……」

 と、そこにりんと鈴の鳴るような声がどこからか聞こえた。はて、首を巡らせたがそのような姿は見えない。

「おお、起きたか」

「起こされたのよ。相変わらず、アンタの声はでっかいんだから……って、誰よアンタ達」

 誰何の声が聞こえても、吾輩は姿を視認できなかった。しかし、視界の隅に目映き光が差し込んだとき、声の主が漸く判った。

「ほお、これは珍しい……エルフか」

 ユゲルリングの腰元に浮かぶ、ぽうっとした丸っこい光。それは、妖精だった。見目美しく、彼らが生来持つ光はそれ自体が治癒の力を内包している故に、かつて人間の乱獲の対象となった非常に高潔な種族、の筈なのだが……。

「……もう少しエルフらしい格好をしたらどうなのだ?」 

 エルフの服装は、ドコをどう見ても踊り子か曲馬団か、と言うような華美なもの。おおよそ実用的でない、ゴテゴテっとした赤色のドレスだった。まあ、蜂蜜の色をした背丈よりも長い髪の毛にその衣服が映えて見えることは認めるが、その姿で空中をブンブン飛ばれたのでは目がチカチカしてしょうがない。

「何よ勝手でしょ、アタシがどういうカッコしようと」

 エルフは光の軌跡を描き、ユゲルリングの肩に腰を下ろした。頬をぷっと膨らませ吾輩をじっと睨み付けている。

「しかし、使い魔には使い魔のスタイルというモノが……」

「アンタ、素っ裸じゃん」

 ええい、うるさいわ。これが汎用的な使い魔のスタイルだと言うに。

「それに、アタシ使い魔じゃないもん」

 そんな屁理屈を……と、吾輩が反論しようとしたが……ふと見ると、ルペルが眼を白黒させていた。

「……どうした?」

「すっごおおい!」

 うわ、びっくりした。ルペルは通常見ることのない俊敏さでエルフに詰め寄り感嘆の声をあげた。

「ふっふっふ、そんなに凄いかね。そうであろう、このユゲルリングだからこそ、エルフを従者にするという業を遂げることが出来たのだからな」

「ちょっと、何よ従者って」

「まあまあよかろう。彼女は『碧の深奥』ロカの奥地に住まう部族でな、名前は……」

「パナよ。パナ・プリム・プリスム」

 ユゲルリングの口を両腕で塞ぎ、パナはいたずらっ子のように先んじて名乗った。

「天の架け橋って意味よ」

「ピンの駆け出し? 安っぽい名前だな」

「な、何ですってぇ!」

 パナは吾輩の目の前に飛び降りて、真っ赤な顔をした。そんなエルフに吾輩は余裕を崩さす、爪を左右に振った。

「吾輩の名前――ヴィッケンバウア・グレイトフリードの方が百倍は立派だ」

「なっ、何よこのネコーッ! 愛玩動物ーッ!」

 ふん、この程度で平常を逸するとは、やはり虫か。吾輩が誇らしさに髭を張っていると、

「ヴィッケったら、子どもみたいなこと止しなよ」

「うっ……がぅう」

 あろうことかルペルにたしなめられてしまった。エルフも心底可笑しいようで、けたけたと笑い転げる。

 吾輩も精進が足りんというワケか……くっ。

 パナはひとしきり笑い終わると、一息付いて頭の上に疑問符を浮かべた。 

「て言うか、アンタ達一体ダレよ? アタシ、ユゲルが宿屋の中で新魔術試して爆破させて逃げたトコまでは起きてたけど」

 ……もう突っ込む気も起きない。ルペルなどは何かの英雄伝と間違えて瞳をキラキラさせている。

「僕は魔法学院の生徒で、今は試練の途中なんだ」

「ほう」

 話を小耳に挟んだユゲルリングが眉を持ち上げる。

「いやはや懐かしい。今や天才魔術使たるこの私も、君のような地を這う時代があった。少年よ、挫けるでないぞ」

「はいっ先生」

「おいルペル、誰が先生だ、ダレが」

 密かに、いやあからさまにコケにされたというのに、ルペルの尊敬の眼差しは輝きを増すばかりである。

 吾輩はルペルに忠告してやろうと鼻先に爪を突き出した。

「うわっ。何するんだよ、ヴィッケ」

「いいか良く聞け。お前が『先生』の敬称を以て名を呼ぶべきは、我が主たるハーディエイジ様のみだ。いいか、ハー……」

「ハーディエイジだとうっ!」

「のわぁっ」

 思わずしてのけぞり、吾輩は木箱から転げ落ちそうになった。何故かって、ユゲルリングの巨躯が吾輩の身体を覆い尽くさんばかりに迫っていたからだ!

「貴様ぁ、ハーディエイジの名を口にしたかっ」

 ユゲルリングの屈強な腕が吾輩を掴み、ガクガクガクと前後に揺すられる。あわ、わわわわ……。

「うわああ、何するんですか~」

 ぼぼぼ、ボケッ! それででで、吾輩を助けようとととしているつも、もももりかぁ~ッ!

「ユゲルリングさん、ヴィッケが、ヴィッケが死んじゃう~」

「少年……ルペルとやら」

 ぴたり、と振動が止まった。ユゲルリングの顔がルペルに向いているその内に、吾輩は這々の体で指を抜け出す。

 ほ、本当に死ぬかと思った。

「お前の師は……ハーディエイジ、と言うのか?」

 目標を吾輩からルペルへ変えても、ユゲルリングの激昂は留まることを知らない。

「えっ……何……」

「貴様に魔術を指南したのは『暁の姫』ハーディエイジ・ハイアリスかと聞いておるのだぁッ!」

「そっそうです、けど」

 ブチッ。

 吾輩はその瞬間、ユゲルリングの顔が憤怒の形相を呈すのと共にそんな音を聞いた。確かに聞いた。

「くっ、くくくっ、くくくくくっ」

 と、今度は何やら笑い声が。しかもそれはおよそ尋常でない、明らかな狂気を帯びている。

 ……何か、ここに居ると途轍もなく恐ろしい目に遭いそうな気がしてきた。ヒゲがチリチリと疼くのだ。吾輩は猫であったため、そう言った災害に対する多少の鼻が利く。

「に、逃げ……」

 吾輩が最善かつ建設的な意見を述べようとした、正にその時だった。

「くっ、くくくっ。どうりで貴様からあやつの甘美な芳香が薫っているなあ~、とは思っておったわ!」

 ユゲルリングから噴出した真っ赤に染まったマナが周囲を分厚く取り囲み、炎の姿を形と成したのだ!


  5


 魔術とは想像の具象であるから、以前述べたようその力は術者が如何に鮮明なイメージを描けるかに懸かっている。その点で、ユゲルリングはルペルに大きく勝っていた。

「わはははは、食らうがよい! 我が真名に従いし不可視なるマナよ、現象し彼の敵を灼き尽くせ! 必殺、『極大劫火焔波』ぁぁ!」

 大声で唱え上げるユゲルリングの目は……イッてるな、ありゃあ。想像力逞しい輩ほどこのような傾向に陥りやすい。これを通称『マナ酔い』と呼び、度々大惨事を巻き起こす、魔術使ならではのバーサーク現象である。

 とと、こんな講釈をしている場合ではない、吾輩のすぐ横を、轟ッと音を上げて火炎球が行き過ぎる。お陰で吾輩、ヒゲを少し焦がしてしまった。

「うわああ」

 と、情けない声のルペル。

「こら、それでも魔術使か、『水壁』の魔術でも唱えて見せろ!」

「そ、そんなの覚えてないよ、第一、魔力が違いすぎるだろ?」

「ええい、この軟弱者が!」

 と、悪態を吐きはしたが、事実ユゲルリングの魔力は大したものだ。あれだけ大きく高温の火炎を生むには、並外れた魔力を必要とするだろう。あと妄想力。

「きゃはは、逃げてもムダムダ! ああなったユゲルは誰にも止めらんないよ!」

 パナが光の尾を引きながら、天井近くを飛び回っている。ええい、うっとうしい。

「ハーディエイジの間者と知ったからには、タダでは帰さんぞ! 我が魔術に平伏するがよい! 必殺『極大豪華炎波』ぁぁぁ!」

 さっきとは何やら色調の異なった火炎が迸る。どう異なるかって、まあ華やかな感じが。

「ひゃあああ、助けてえぇ~」

 このまま逃げ回っていても仕方がない!

 どたばたと部屋を駆け巡るルペルはとりあえず放っておいて、吾輩は燃えさかる炎をかいくぐり、ユゲルリングと対峙する。

「お前、ご主人様とどういう関係なのだ!」

「それを知る必要は……ふん、今『ご主人様』と言ったか? そう言えば先程も耳にしたな」

「察しの通り、我が主人はそこのぺーぺーなどでは断じてない! 吾輩が頭を垂れるのはハーディエイジ様の御前のみだ」

 そこまで言うと、吾輩はユゲルリングの顔に今までにない表情を感じ取った。

 あれは、喜悦か。芯の底から滲み出る狂気は変わらずに張り付いているが、確かにそれは満面の笑みであった。

「ふ……何という因果よ」

 ユゲルリングがゆらりと幽鬼のように揺らめく。淡い微睡み――熱気がそうさせているのだ。それはあたかも、奴のマナの噴出を視覚させているようである。

「まさか我が仇敵の使い魔と相見えようとはな!」

 な、何だとッ! ユゲルリングの言葉に吾輩は耳を疑った!

「お主、残虐非道で極悪至極の冷酷無比魔術使とは、ハーディエイジ様のことを言っていたのか?」

 吾輩、頭に血が上って少々誇張しているかも知れない。

「いかにも」

 ユゲルリングは鼻息荒く、胸を反らして言い放った。

「言うにこと欠いて、ご主人様が悪魔だと? 莫迦も休み休み言え!」 

「ふんっ、悪の使いの言葉に貸す耳など持ち合わせておらぬわ!」

 言って、ユゲルリングは懐に手を入れる。抜き出された手には、漆黒の光沢を放つ杖が握られていた。因みに、先端にはドクロ様の装飾が施されていたりする。

「ほら見たことか、お主の方がよほど悪党らしいだろうが!」

「正義の味方には服装の自由が認められているのだ! 憤ッ」

 ユゲルリングは杖を正眼に構え、一喝する。

「貴様らには、ハーディエイジの根城に案内してもらおう」

 なるほど、先程道に迷ったと言っていたがそれも当然だ。ご主人様の居城には、悪意を持つものを頑として寄せ付けない『人払い』の防壁が施されている。そこらの悪党がおいそれと足を踏み入れることはできないのだ。

「抵抗しないのなら、これ以上傷つけることはしない」

 杖の先に赤々と炎が宿る。間違いない、あの杖は見た目通りの強力な魔具だ。魔具は魔術使が定めた波形のマナを伝わせることで、極めて簡略に封じられし魔術を行使することが出来る。見る限り、あの杖に封じられた魔術は『火奔り』であろうか。

「はは、はい~、投降しま~す」

「おいッ!」

 流石に堪忍袋の緒が焼き切れた、吾輩はルペルに必殺のネコパンチを見舞う。

「にくきうにくきう~」

 パナがさも愉快そうに跳ね回っている。が、今はそんなことはどうでもいい!

「ちょっとは抵抗する気概を持てッ! ご主人様に顔向け出来んだろうがッ!」

「だだ、だって、敵うわけないじゃないか、あの人は魔神を斃した程の人なんだよ~」

 どうやらルペルの膿んだ頭の中では、無敵の魔術使像が出来上がっていたらしい。既に荷物をまとめ投降準備は完了している模様だ。

「こ、こいつ……」

 吾輩の怒りを察しようともせず、ユゲルリングは尚も詰め寄る。

「おいッ、案内するのかしないのか?」

 前門には燃えさかる発破魔術使、後門には頼りにならないぺーぺー魔術使候補見習い。撥ね付けたとして果たしてその後どうなる? ああ、吾輩は一体どうすれば、使い魔の面目を保てるのであろうか?

 と、吾輩の理性と野生とが格闘し出したその時である!

「そこまでだッ!」

 カツッ!

 パナの鼻先を掠め、ユゲルリングの杖の先端、ちょうどドクロの頭頂部に、紫色をしたバラの花が突き刺さった。な、何だ?

 声の上がった方を見る。小屋にいた一同は皆その声の虜であった。

「だ、誰だっ?」

 ユゲルリングが切迫した形相で誰何する。

「ふふ……見知り置くがいい、私は全てを知るもの。そして、全てを握るもの!」

 バァッ! 声の主と思しき白い影は、扉の前に舞うようにして現れた。開かれた外界からは月光が目映く、その人物を背後より照らす。

「誰が呼んだか、我が名は『月の使者』ジェミニアーニ!」

 白銀のマントを閃かせ、その人物は剣を抜き放った!


  6


 雨は止み、雲が割れる。場は静かだ。

 皆、白き輝きを放つその存在より目を離せずにいた。悔しいことに、吾輩はその姿を美しいとさえ思ってしまった。

 洗練された動静で、彼の人物は細剣を円かに振って見せる。月明かりの元、ジェミニアーニと名乗った彼――性別は分からぬが便宜上彼としておく――は、その全貌を徐々に明らかにしていく。

 まず目に付くのは白銀のマント。煌びやかな装飾を施されたそれは、夜風に靡き蝶のように舞っている。着ているものは皮鎧だろうか。細い腰から胸元にかけて走る幾筋もの白いライン。恐らく銀でも流し込まれているに違いない。

 しかし、そのどれもが顔に纏われた仮面を引き立たせる道化に過ぎぬことを吾輩は痛感する。仮面。それは、月の使者との異名を飾るに十二分な代物であった。三日月を象った仮面は、月影を輪郭に受けて輝く。そこにあるのは、正しく天上の月。白銀の糸を束ねし長髪が、まるで生きているかのように夜の闇を吸い込んだ。

「本当に、月から降りてきたみたいだ……」

 誰よりも早く我を取り戻したのはルペルだった。純粋な分だけ、整理すべき混乱が見あたらなかったのだろう。

「な、何だ貴様は?」

 ルペルの言葉に触発されて、やっとのことでユゲルリングの言葉が喉を通った。

「先程名乗ったろう? 私の名はジェミニアーニ。闇夜を照らす一差しの月影さ」

「ふ、ふざけるなッ。そんなことを聞いたのではない!」

「そーよ! 危ないじゃない、もうちょっとでアタシに当たるトコよ!」

 ぷい~んと音を立てて、いやに派手な虫が月の使者に噛みついた。

「……惜しかった」

「ソコのネコ、なんか言った?」

 き~ッ、と耳元で吠え立てる虫は放って置き、吾輩はルペルの足下に歩み寄った。

 断じて相棒などと認めた訳ではない。有事の際の楯だ。

 月の使者は、不用心とも取れるごく自然な振る舞いで、誰一人その動作を訝しく思う間もなく、炎の魔人に差し向かっていた。

「私はね、弱きを挫く、そんな悪行を見逃せないだけなのさ」

 そして鈴、と鳴る様な声で囁いた。

「ユゲルリング……貴方のような、ね」

 途端、骨の髄まで響くような咆哮が轟いた。

 ユゲルリングが杖を振りかざす。刹那、圧倒的なまでのマナの奔流が杖の先端に収束、炎を形成しジェミニアーニに襲いかかった!

 炎は凄まじいまでの熱波を伴い、轟音を上げて一直線上を浚っていく。そして、くすぶる残火……あの勢いでは骨も残るまい。

「っはぁ……っ!」

 マナを火焔形と成し放ったユゲルリングが、焦燥の息を吐き出した。

「水を差しおって……」

 勝利を確信し杖を降ろす。しかし次の瞬間、その顔が驚愕に歪んだ。

「……この程度か」

「な、何だと……ッ?」

 夜風が舞い込み焦煙が流される。そこには、微塵の傷も負っていない月の使者が、悠然と我らを見据えていた。

「バカな……我が渾身の一撃だったのだぞ……?」

 信じられない、と言った様子でジェミニアーニを見詰めるユゲルリング。それは吾輩も同じだった。今の一撃、奴が叩いた大言に恥じぬ威力であったと言うに、目の前の人物は無傷で立っているのだ。

「力を謳う者は愚かしいな……」

 風に揺れる前髪を払うと、ジェミニアーニはマントをひらりと閃かせる余裕まで見せた。

 その姿にユゲルリングはただ絶句するのみで、微かに震える指先を杖に宛がうことすら忘れていた。がらん、と音がしてドクロの杖が地に落ちる。

 そのユゲルリングの鼻先に、ひゅんっ、とジェミニアーニは剣を突き付けた。

 月光を反射し、神々しく輝く細剣。

「今度はこちらから行かせてもらう。気を付けろ。今宵は月が美しい、我が魔術も冴え渡っている」

 そう言うと、ジェミニアーニは優雅な動作で三つ指を立てる。そのまま、腕をつい、と横に引き払った。

「っがぁ……ああぁッ!」

 たった、それだけ。飛んできた一匹の虫に赤子がむずかるような、そんなたわいもない動作で、ユゲルリングが部屋の端まで吹っ飛ばされた。

 木枠の壁に強かに叩き付けられたユゲルリングの身体は派手な音を撒き散らかし、そのままの勢いで夜の闇に放り出された。

 パラパラと木の粉が舞い降る中……吾輩はある思惑を口走らた。

「あれは……『空切り』……?」

 そうして、二の句が継げなくなる。吾輩はその魔術に見覚えがあった。見紛うはずもない。しかし、それは信じ難き事実をも肯定する。

「せ、先生……?」

 ルペルも同じことを考えたようだ。『空切り』は、ハーディエイジ様の編み出したオリジナル魔術である。大陸の何処を探そうとも、ご主人様以外に操れる者は居ないはずなのだ。

 だが、ご主人様である訳がない。あんな華美な格好は好まないし、使い魔の血に架けて、見分けを惑うことなど有り得ない。

 吾輩の困惑を感じ取ったのか、ジェミニアーニは吾輩とルペルを肩越しに見やって、ふふ、と笑った。

「怪我はないか?」

「あ……ああ」

「それは何より。昔の人間は傷こそ栄誉だと言うが、やっぱり怪我をしたら痛いものだから」

 吾輩はそれ以上言葉を継げなくなった。もしも目の前の人間が、ご主人様だとしたら……?

「せ、先生! 助けに来てくれたんですね!」

 そこにルペルが顔を出す。

「すいません、僕一人じゃ何も出来なくて……」

 ジェミニアーニは一旦向いた顔を背け、踵を返した。

「何を勘違いしているか知らないが、私は君の先生ではない」

「え? だって……」

「それよりも。君達はここから去った方がいい」

 それだけ言って、ジェミニアーニはまるで、始めから我らなど居なかったかのように無関心な眼を空に向けた。

「そ、そんな……『空切り』は、先生しか使えないじゃないですか……」 

 しかし、それを断言する勢いもなく、ルペルは俯いてしまう。

 と、そこへ光の軌跡を棚引きながら、パナがジェミニアーニに詰め寄った。

「ちょっとぉ……どーしてくれんのよ。アタシの世話係ノビちゃったじゃない!」

「心配には及ばない……」

 言いながら、つい、と体を横向ける。その頬すれすれを轟炎が行き過ぎた。

「彼はまだ、健在だ」

 恐る恐る、吾輩は部屋の片隅に視線を走らす。

 奇妙な造形が開かれた穴から、大男が顔を覗かせていた。

 影から、嗚咽が漏れている。そうかと思えば、次には狂ったように笑い出した。

「ぬはははははは、片腹痛いわ! あれしきの魔術でこのユゲルリング・リングリオスが倒れると思ったら大きな大きな間違いだ!」

 吾輩、頭痛と腹痛を併発しそうだ。

「ユゲル!」

 パナが何だかふらふらと飛んでいく。その手には何やら棒状のものが抱え込まれ……って、あれは杖だ!

「ふふふ……気が利くな。これで思う存分悪を殲滅できる」

 ドクロの杖を持ち、邪悪に笑ってみせる大男の姿は、まあ悪の邪術師と言えなくもない。

「正義は不滅!」 

 叫ばれる言葉に間髪入れずドクロより閃く爆炎! その勢いは小屋の柱が傾ぐ程だ。

 だが、ジェミニアーニは一つも動じた様子もなく、指の一本で炎をいなしていく。

「ははははは……! いいぞ! 悪とはそう言うモノだ!」

 やるかたない昂奮が炎となって炸裂する。

 ええい、月の使者の素性などを考えている場合ではない。この場に居ては、待っているのは確実な死のみだ!

「いかん、外に出るぞ! この小屋はもう保たん!」

「だ、だけど……先生が……!」

「ご主人様があのような輩にやられるものか! それとも何か、お前はご主人様を信じていないのか?」

 二もなく三度ほど頭を横に振るルペル。

 吾輩の言葉に意を決した様子で、腰を折ってよれよれと火中を抜け出す。吾輩も間隙を縫って外に飛び出した。

 雨はもう止んでいた。代わりに、赤々とした炎が曇天に立ち上り、黒い煤が落ちてくる。

「ヴィッケ、見て!」

 めきめきめきぃッ!

 遂に小屋が柱芯を穿たれ、赤き光を閃かせながら耳障りな轟音を上げて崩れてゆく。

「何と言うことだ……」

 炎心にはユゲルリングが立っていた。マナを火焔と具象化した大男は、赤く燃える火の帯を体中に纏い、正に炎の魔人そのものであった。

 対面にはジェミニアーニが睥睨している。炎の牢獄に独り立ち熱気に揺らめき立つ姿は、月明かりに幽玄を纏い、正に月の使者の顕現である。

 およそ、人の業ではない。彼らはそう、魔人であった。

 吾輩のヒゲが大気の震えを感じ取った。

 ヤる気だ。

 あれだけの魔術を行使しておきながら、未だそのマナの衰える気配はない。

「皆殺しだ……貴様ら誰一人、その身に拠り着く寄生虫の一匹まで全て塵芥と変えてやろう……ふあははっはっはっは!」

 駄目だ。奴に見境などと言う防衛機制はもう無い。

 炎を周囲に撒き散らし、目に入るもの全てを焼き尽くす。そう言う眼をしている。

 吾輩はジェミニアーニを見やった。しかし彼は吾輩の存在に気を置くこともなく、間断なく炎をやり過ごしているだけだった。

 どうやら、逃げろと言うだけで、助けの船を漕ぎだしてはくれないらしい。自分の道は自らで切り開け、と言うことか。

「ルペル」

 まあ、もとよりそのつもりも無い。

「……あんなのに関わっていられるか。逃げるぞ」

「で、でもどうやって?」

「闇に紛れて、だ!」

 吾輩は身に宿るマナを叩き起こす。

 ……ご主人様はなるだけ自重する様に言っていたが、危急の際なればそれもやむなきことだろう。

 吾輩はそう心の中で申し開き、マナを活性させる。

「わっわっわ。ヴィッケ、魔術使えるんだぁ」

 感心するルペルを傍目に、吾輩は前足で印を描く。

 吾輩の躰には、三つの行が刻印されている。ご主人様ほどの魔術師の使い魔とあれば、それも当然である。

 一つは、癒。その力はご主人様の体温のごとく。

 一つは、光。その力はご主人様の背光のごとく。

 そして、闇。その力はご主人様の御髪のごとく。

 この戦局に用を成すもの、それは――

 ――闇、だ。

「ヴィッケンバウアの名において、『闇』『闇』二行よ、重なり真なる闇と成れ! 『真宵』!」

 吾輩の言葉にマナが現象する。闇はぽっかり穴を空に穿ち、我らの姿を失くした。

「さあ、この闇に乗じ撤退するぞ。さっさとしろ」

「何か……地味だね」 

「黙れッ、派手であれば良いというものではない!」

 不貞不貞しく不平を垂れたルペルは、言いつつも雑嚢を背負い、足早に小屋を離れる。

吾輩はルペルの肩に飛び乗り、落とされぬよう衣服の片端にしっかりと噛みついた。

 あとはもう走るだけである。

 我らは闇を纏い、小屋より少し離れた街道に辿り着く。

 しかしその時、野太い声が怒りを伴って轟き渡った。

 ……奴らは何処に行った? ええい、こうなったら辺り一面焼け野原としてくれる!

 確かにその声は、そう叫んでいた。

 わははははは。

 笑っていた。

 ……って、おい。

「~ッ! 急げ、急いでここから離れるのだ!」 

「わ、分かってるってば」

 そうこうする間にも、後からは魔術と魔術がぶつかり合う轟音とむせるような濃密なマナが迫っている。

 じょ、冗談じゃない、並大抵の者なら足を踏み入れただけで吹っ飛ばされるぞ! 事実、気を張ったマナの群れがビリビリビリとその姿を攻性化させて、吾輩の肌を痛いほど衝いている!

「ひええええ~っ」

 一つの火焔球が雑嚢をかすったが、そんなもの命と天秤に掛ける訳にはいかない。我らはもう何も考えず、ひたすらに街道を走る、走る、走る!

 荷物の口を結ぶことも忘れ、我らは掠める火炎と風塵から逃げまどい、ようやく修羅場から抜け出すことに成功した。

 縺れる足で走っていると、その時。

 ず……ずずん。

 大きな地鳴りと共に、足もとを脅かす、観測史上希に見る縦揺れの大地震が我らを襲った。

「あ、あれ……」

 ルペルが地面に膝を突いて頭を抱えながら、とんでもないものを発見した。

 彼方の方向には、黒煙が天に手を伸ばそうとするがごとく流々と立ち上っている。内部には赤く揺らめく光をはらんで、世界の終わりを彷彿とさせる惨状がそこには広がっていたのだ。

「……よかったね、巻き込まれないですんで」

 ……この時ばかりは吾輩、ルペルに同感であった。まだ死にたくはないからな。死ぬ時はそう、ご主人様の膝の上がいい……。

 そう思った吾輩の頭に、月の使者ジェミニアーニの姿が浮かぶ。どうにも気になる存在だ。あの災禍の中にあっても、月の煌めきは失われていないだろう。根拠はないが、何故かそう確信する。

 一人で考えていても仕方がないので、しばらく歩いた後、吾輩はルペルに問い掛ける。

「ルペル、お前はどう思う?」

 一拍置いて、ルペルは

「恐かったね~」

 と先の事故を振り返り感想を述べた。

「そうではない……月の使者とか言う、あの者のことだ」

「……僕は、先生だと思うよ」

 驚いた。吾輩ですら未だ判断が付かぬと言うに、この魔術使見習いはハッキリと言ってのけた。

「先生の、匂いがしたから」

「匂いだとッ!」

 何と言うことだ! 吾輩ですらご主人様のお側に付くことは憚られると言うに! 

「お前がご主人さまと同じ空気を吸ったと言うだけで、何故か異様な程腹が立つわ!」

「な、なんだよそれ~?」

「うるさいうるさい! ルペル、今度こそ覚悟しろ!」

 と、吾輩が必殺のネコパンチを見舞おうとしたその時、ルペルがうんざりした顔つきで攻撃を制した。

 はぁ、と一息吐いて、

「って言うか……疲れるからもう止めようよ」

 と、まあもっともなことを言った。

「……そうだな」

 ……吾輩も無駄に疲れるのは好きではない。そう納得した。

 かくして、我らは何事もなかったと思い聞かせながら歩き出した。

 向かうは、南方の都アルチェスタ。見れば、地平には晴れ晴れと、我らの旅を照らし出す太陽が顔を覗かせている。 

「ようし、行こっか、ヴィッケ!」

「お前が威張るな!」

 はぁ……この先、何があることやら……尽きることなき不安のように、道は果て無く続いていくのだった……。

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