第一章 始まりは何時も晴れのち雨

 1


 白亜の壁にふと、翳りが浸る。流れる雲は太陽を己が身に透かし、のろのろと悠久なる時を刻んでいる。風の穏やかな良き日だ。

 「魔都」の二つ名を持つ都、ミストレイル。パースレーン大陸の最西部に位置し、峻厳な山々が連なる都。他都市との交易は僅かであるが、その反面魔術の発達が目覚ましく、住民のほとんどが基礎的な魔術を行使できると言う唯一無比なる都市である。

 かつて、その魔術の冴えは列強の侵攻を幾度となく足踏みさせた。大戦が終結し平穏となった今では、魔術使学院の数と質にて名を馳せている。

 紅いレンガ屋根が連なる街並みにあって、一際目を引く高い塔、その最上階に吾輩は居た。窓から差し込む光が吾輩を暖かく包み、風がヒゲを揺らす。

 申し遅れたが、吾輩の名はヴィッケ。黒き毛並みの美しい『元』猫のヴィッケだ。いずれ、大陸中に名を轟かすことになろうから覚えておくが宜しい。

 吾輩が何故人語を解するのかと疑問に思うことだろう。答えは明瞭かつ簡潔、吾輩は使い魔であるからだ。我ら使い魔は常に魔術使の傍らに付き従い、主人の命に命を賭す、魔力を付与された存在である。

 吾輩のご主人たるお方は、吾輩を「魔」とするときに、通常の法と併せてご自身の血液を以て躰を創ったのだという。血液とはその魔術使が力の源であり、式の礎。そのため、大陸広しと言えど吾輩程の魔力を内包した使い魔は他にいないだろう。

 おっと、話が脇に逸れたようだ。

 ここはハーディエイジ魔法学院。パースレーン随一の魔術指南と謳われるこの学園では、基本的に門戸の制約を設けず、大金を必要としないので、学徒の数もまた大陸随一である。

 吾輩の今居る塔は林立する研究施設の一片で、眼下一円を睥睨するこの街のシンボルである。吾輩、ここが大変気に入っている。

 胸の空くような爽快感が、ここにはある。前身である猫の性なのか、何より高いところが吾輩こよなく好きなのだ。

 そうして、山よりの涼やかな風を受け、いよいよ心地よい微睡みが吾輩を包み込んだ、その時だ。

「ヴィッケや、ヴィッケ」

 吾輩を呼ぶ玲瓏たる声を鳴らすのは、吾輩のご主人様であり大陸で指折り二番目の偉大な魔術師、『暁の姫』ことハーディエイジ・ハイアリス様である。

「はい、はい、ここに居ります」 

 言われるまでもなく吾輩はご主人様の下へ馳せ参じる。眠気など、とうに引っ込んでしまった。

 碧海のような輝きを秘めたる黒髪、きめ細やかなシルクのように透き通った純白の肌、見る者がハッとするほど紅く鮮烈な瞳。ご主人様の麗姿は、これまた大陸随一であろう。

 吾輩、生まれ出でてからこのかたご主人様より綺麗なものを見たことがない。

 一切の装飾を排した長い丈のローブが、日の光に照らされ輝いてみせた。

「また、陽気に身を浸していたのね……?」

 ご主人様はたおやかに笑うと、吾輩の喉を撫で上げた。ふわりと薫りが舞う。吾輩はにゃあんと鳴いた。

「今日もいい天気ね」

 そう言うとご主人様は、窓際の鉢植えにそっと指を置く。すると日にあてられ日焼けした葉が、見る間に青々と綾を咲かせた。

 何か、特別な魔術を唱えたわけではない。ただご主人様の力に触れただけで、枯れかけた草葉がその生命を取り留めたのだ。

 気質とはマナであり、マナとは魔力である。ご主人様に生来宿る魔力は、優しさに他ならない。

「この恒久なる平和も、ご主人様あったればこそです。かつて蔓延りし悪は、その全てがご主人様のお力に触れ平伏したのですから」

 吾輩の言葉に、ご主人様は少し困ったように笑う。その表情は少し哀しくもあった。

「ヴィッケ。確かに気持ちの良い晴天だけど、この空の下では穏やかに笑うことの出来ない人々が沢山居るの。止まぬ雨などあってはいけない。だから、彼らに少しでも光が届くように努力しなくてはね」 

 吾輩はご主人様の崇高なお考えを拝聴し、浅はかな自らを戒めるよう頭を落とす。

 こんなことでは、ハーディ様のお側に付き従うことなど余りにおこがましいのではないか?

 吾輩が苦悩に頭を垂れている折、ご主人様は吾輩をそっと自身の胸に抱き込んだ。

「でもね、日和を保つと言うことはとても難しいの。私一人では力不足。ヴィッケ、あなたは私に協力してくれるかしら?」

「も、勿論です! このヴィッケ、ご主人様の命とあらば、例え火の中にでも飛び込んで見せます」

 また、ご主人様は困ったように笑い、

「頼もしいこと」

 と吾輩の頭を撫でた。

 一陣の風が吹き抜けると、それが合図だったかのように立ち上がるご主人様。

「ヴィッケ、付いて来なさい」

 はいはい、付いて行きますとも。優雅に歩むご主人様の後ろ姿を、吾輩は足取り軽やかに追った。

 そう……行き着く果てに何が待っているのか、その時の吾輩は知る由もなかったのだ……。


  2


 赤い絨毯を辿って行くと、到るのはご主人様のお部屋――学院長室である。瀟洒な椅子に掛けたご主人様は吾輩を抱き上げ、その膝に降ろした。

 差程大きくはなく華美でもないが、ご主人様のお部屋はそれ以上に荘厳な空気の漂う空間である。吾輩、以前ご主人様に訊ねたことがあった。莫大なる財産をお持ちにも関わらず、何故裕福な暮らしをなさらないのか、と。それに対しご主人様は、解れの一つも見えない御髪を払って「柄じゃないもの」と平然の内に仰った。強大な力をいたずらに奮ったりせず、力に驕ることのない、究めて清廉なお方なのである。

 しかし、吾輩を寄せたのは、一体何の御用なのだろう? ご主人様のお顔を仰ぎ見るが、髪を弄りながら口元をほんの少し綻ばせるのみで、その唇を開こうとはなさらない。

 まあいい。ご主人様の仰ることは、何時だって間違いないのだから。 

 吾輩はにゃあんと鳴き、ご主人様の指に顔を擦り寄せた。

 それからほどなくして、部屋に渇いた音が響いた。黒檀の扉がノックされたのだ。

「こ、こんにちわっ。ルペルツィオですっ。呼ばれたので来ました」

 その声はどうにも情けなく、幼い印象を受けた。少なくとも師範ではあるまい。

「入りなさい」

 その言葉をうけ、扉はゆっくりと開いてゆく。

 隙間から現れたのは、栗毛の少年である。見る目に頼りない。吾輩、初めは使用人か何かだと思ったほどだ。

「失礼します」

 そう一礼し、少年は絨毯の上を小股で歩く。額にはうっすら汗が滲み、指先は細かく震えている。こちらにも移ってきそうな程、彼は緊張していた。

 ご主人様は学院の主ではあるが、常時は教壇に立つ講師でもある。講師に呼び出されたとて、こんな様子は見られるものじゃない。この少年、度を超えた小心者だな。

「ルペル、良く来てくれました」

「い、いえ、先生がお呼びならいつだって来ますっ」

 声がうわずっているぞ、ルペル。

「今日、貴方をここに呼んだのは、他でもありません」

 ご主人様は一拍置き、

「試練の旅のことです」

 と仰った。ルペルはその言葉を聞くなり、ますます体を震わせ始めた。

「この学園で三年を経た者は、試練の旅に出なくてはいけない。……分かってますね、ルペル」

「は、はい」

 試練の旅……それはこの学園に居る者なら誰しもが耳にする言葉である。いわば卒業試験のようなモノだ。

 何も難しいことはない、その受験者の実力に値する課題をクリアする、それだけのことなのだが……。

「でも、貴方は実力不足であると判断し、旅に出る日取りを延期しました。半年前のことです」

 ……それはよっぽどの落第者だ。

「しかし、私は見ていましたよ。級友から非難され揶揄されながらも、修練に明け暮れる貴方の姿を。この半年間、よく頑張りました」

「……先生」

 ルペルはご主人様の言葉に胸を打たれたようで、暫しうつむいて黙っていた。

「だからね、ルペル」 

 御主人様はうなだれたルペルの頬に指を触れる。そして、微笑みを見せた。

「貴方に、今日より試練の旅を課します。目的を成し遂げるまで、帰ってくることはなりませんよ」 

「は……はい!」

 ルペルは顔を輝かせた。うむ、落ち零れにも五分の魂か。さすが、ご主人様は慈悲深きお人である。

「旅の目的は、大陸のどこかにある『ハーディエイジの聖印』を私の元まで持ってくること。期限は特に設けません」

「ハーディエイジの聖印……」

「私のマナが付与されているものです。何処にあるのか、また誰かが持っているのか、それを探求するのがあなたのお仕事です」

「む……むずかしそうですね。で、でも頑張ります」

 ルペルは不安そうに呟いた。ふん、必ずやご期待に添えて見せます、くらいのことを言って見せろ!

 だがご主人様はそんなルペルに気を害した様子もなく、それどころか深い微笑みを湛えていた。その手がサイドテーブルに向き、置いてあった箱から何かを取り出す。

「ルペル、これを」 

 それは短めの杖だった。ご主人様は一度先端に口付けてから、ルペルに手渡す。ほのかに灯るマナの輝き……ちなみに魔力なきものがその光を拝むことは難しい。

「ごくごく普通のショートスタッフですね!」

 哀しい話である。

「そのスタッフには、私の力が籠められています。困ったことがあったら使いなさい。三回まで、高位の魔術を行使することができますから」

「そ、そんなスゴいものを……?」 

 まったくです、ご主人様。こんなの猫に小判では……って、言ってて微妙な腹立たしさだ。

 ご主人様は目を白黒させるルペルを見やりクスリと息を漏らす。

「自信を持ちなさい」

 ハーディエイジ様がルペルの手を取って、穏やかに仰った。

「貴方の賜った真名の主、前世たるルクス・エテルナに笑われますよ?」

 ルペルは握られた手から徐々に赤く変色していった。

 ……にしても、ルクス・エテルナ? 吾輩、何だかその名前に覚えがあるのだが……まあ、そんなことはどうでもいい。

 髪を指で梳きながら、ご主人様は静かに続ける。

「それにね、このヴィッケを就いて行かせますから」

 うむ、それならば安心だ……って、ええーっ! 

「わ、吾輩がっ?」

「そう」

 にっこりと笑って言うご主人様。ああ、今の吾輩には何だか遠く感じるその笑顔。

「あなたは私が血を以て結因した、いわば私の分身。ルペル、ヴィッケは頼りになりますからね、連れて行きなさい」

「連れて……って、しかも従者扱いッ?」

 吾輩の肉球が真っ赤に染まる。頬のヒゲが震えてうねる。しかし吾輩、

「あら、何処へでも飛び込んでくれるのでしょう?」

 と言う言葉と天使も翼を収めて逃げ出すだろうご主人様の微笑みに、それ以上何も言えなくなってしまった。はぁ、何てことだ……。

「……」

 ん、ルペルが吾輩を見詰めている。な、なんだ。そんな熱のこもった視線を浴びせられると、その、照れるではないか。

「……ネコなんて連れて行っても」

「な、なんだとッ」

 ふ、ふざけるなぁ! 誰がこんなクソガキに就いて行ってやるモノか! 吾輩は決めた! 絶対だ! 


  3


 名残惜しいが、連綿と伸びる地平に向かい吾輩は力強く足を踏み出した。これもご主人様が課した試練。お応えせねば使い魔として何とする。

 そう言い聞かせ吾輩は今、苦難へと立ち向かうのである!

「ね、ねえ、ヴィッケ」

 と、そこに興を殺ぐ間の抜けた声。

……結局、ご主人様の「お願いね」の一言に勝てなんだ。吾輩、自分に合掌。檜皮のように固くなった肉球がもの哀しい……。

「……何か用か、ルペルツィオ?」

「ルペルで良いよ」

 草葉の陰にて涙を落とす吾輩の心も知らず、人懐っこく笑う。

 奴は先程までの制服ではなく、どこから調達したのか肩から革の外套を羽織り、動きやすそうな旅装に扮している。

「……ルペルツィオ。吾輩はいささか機嫌が悪い、端的に述べるようにな」

「う、うん……これから、どうすればいいかな?」

 吾輩が知るかっ、自分で考えろそんなこと! ……とも思ったが、この試練を早急に済ませてしまわねば、吾輩がご主人様の下に帰る日がそれだけ遠くなる、と言うことでもある。ここは全面的に協力するのが合理的であろう。吾輩はそう思い直した。

「ふん。ご主人様の提示された課題は憶えているな?」

「うん。確か大陸の何処かにある『ハーディエイジの聖印』を持ってくるんだったよね?」

「疑問形にするな! ……ま、ハッキリ言って難しい話じゃあない。ご主人様は慈悲深いお方である。お前のような落第生のために、筋道だったシナリオを用意されているに違いない」

「何か、納得いかない……」

 しきりに首を傾げるルペルを後目に、吾輩は途を先んじて進む。後ではルペルが吾輩の影、三歩後を踏む。そう、これが師弟のかくあるべき姿である。

「まず第一に、冒険とは情報である。数多の情報を制し、冒険の危機を事前に察知すれば万事危うきことは何もない! 然かれど」

 も、とここまで言って、ふと吾輩は一抹の不安を覚えた。

「……その前に、お前……魔術はどの程度扱えるのだ?」

「うーん、基本十行くらいなら自信あるけど」

「なんだとっ!」

 基本十行というのは魔術において基礎も基礎、ミストレイルの平均的一般市民だって到達しているレベルだ。魔術使学校に三年も在籍している学徒が、胸を張って自慢出来ることでは決してない。

 吾輩が暫し顎を閉ざせずに居ると、こともあろうにルペルは、

「そ、そんなにすごいかな……」

 などと、照れ顔である。吾輩、少々頭痛がしてきた。

 なにゆえご主人様はこのような者に門戸を許したのであろうか? ご主人様は出立の際仰った。ルペルは大いなる器だと。ご主人様の判断に吾輩ごときの理解が及ぶべくもないが、ルペルに限って言えば、明らかに間違いではないか?

 今も得意満面のルペルを見るに付け、その疑念が確信に変わる。吾輩、大きな大きな溜息を吐いた。

「ねえ、どうしたらいいのかな?」

「……とりあえず、都市部へ行こう。情報収集は人波の集合点にて行うべし。基本だ」

 そう言うとルペルは合点した様子で、

「そうか、じゃあ、行こう!」

 景気よく鬨の声を上げ、

「……で、都市部って、どこ?」

 と見事にボケくさった。

 ……吾輩、頭が痛い。

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