第2話 そういうことにしておきましょう。

 僕には小さなころから、それはそれは美しい友人がいた。彼女はいつも森の中にある花畑の中にいて、白銀の髪をなびかせている。彼女の話は屋敷の中しか知らない僕からすれば新鮮なものばかりで、彼女に会うのは楽しくて仕方がなかった。


 今日も彼女は、切り株の上に座って花冠を編んでいる。彼女と出会ってもう十年は経とうかというのに、その美しい姿は出会った時のままだった。


 いつもの待ち合わせより、少々遅れてしまったこともあって、日は傾きかけていた。走ってきてせいで乱れた息を整えようと、彼女から少し離れた場所で木にもたれ掛かる。ここからは屋敷が随分と小さく見えた。あんな小さな世界で、僕は十五年も生きてきたのか。対する彼女は一体どれだけの場所を巡っただろう。美しいものも、残酷な世界の姿も、その赤い目に沢山焼き付けてきたはずだ。


 ふと、風に乗って優しい歌声が聞こえてきた。彼女の声だ。思わず聞き惚れてしまう。だがすぐに、妙な違和感を覚えた。


 この歌を、僕は知っている。随分と昔に、父上の書斎にあったオルゴールと同じ曲だ。あの日、明らかに女性が持つような繊細な細工が施されたオルゴールが父上の書斎に置かれていたことが気になって、幼い僕は好奇心に抗えず、開けてしまったのだ。その途端流れ出した優しい音楽と、大切にしまわれた一束の白銀の髪。とても綺麗だったのを覚えている。だが、直後に書斎に入ってきた父上に見つかり、酷く叱られてしまった。そのオルゴールを守るように僕から取り上げ、今にも殺さんとするような目で睨まれたのだ。あんなに取り乱した父上を見たのは、あれが最初で最後だった。


 あとから母上に聞いた話では、あのオルゴールは父上の妹君の持ち物だったという。母上曰く、妹君は継承権争いに巻き込まれ、命を落としてしまったのだということだったが、後から文献を調べてみれば、妹君を処刑したのは他ならぬ父上だった。その事実を知った日から、僕は父上が怖くて仕方がない。妹君を殺しておきながら、その妹君のオルゴールと髪をあんなにも大切にしまっているだなんて。父上が何を考えているのかまるで分らなかった。


 昔の記憶をぼんやりと思い出しながら、僕は花畑の中に足を踏み入れた。ざあ、と風が吹き抜け何枚かの花弁が舞う。彼女は僕の気配に気づいたのか、こちらを振り返ると屈託のない笑顔を見せた。絶対に、僕よりは一回り以上年上であるはずなのに、僕と同年代の少女のような姿をしている。そうだ、彼女はこの十年間、少しも姿が変わっちゃいない。どうしてそれに気づけなかったのだろう。


「今日は遅かったのね。もう来ないかと思っちゃった」


「……ごめん」


 沈みかける夕焼けを背に微笑む彼女は、この世のものとは思えない美しさだった。もしかすると、本当に現世の人ではないのかもしれない。


「さっきの、歌……」 


 話題を持ち出したはいいが、何といえばいいだろう。あなたは父上の妹君で今は亡き人なのかとでもいえばいいのか。


 彼女はたっぷり数十秒間、僕の表情を観察しているようだった。やがて、何かを察したように、ふふ、と笑う。その優雅の所作も、今思えば森の中にいる少女にしては不釣り合いだ。


「……君は、兄様に似てきたわね」


 僕から疑問を投げかけることもなく、彼女は答えてくれた。ああ、やはり、彼女は父上の亡き妹君なのか。父上とは異母兄妹だと言っていたから、見た目が随分と違うのも頷ける。


「ふふ、こんなところ見つかったら私、きっと兄様にもう一度殺されてしまうわね」


「……父上は、あなたの髪を大切にしまっている。きっと後悔しているはずだ」


 何の慰めにもなりそうにないありふれた言葉しか、口に出来なかった。彼女は白銀の髪を揺らしてくすくすと笑う。


「そうね、兄様は私の髪を綺麗だと言ってくださったわ。でも……きっと、後悔はしていないでしょうね。そういうひとだもの」


 さらりとそう言ってのけると、彼女は僕の目の前まで距離を詰める。ふわりと甘い香りが漂った気がした。その赤い目がじっと僕を見つめると、やがて手に持っていた花冠を僕の頭に乗せる。


「君が立派に成長して、兄様も安心しているでしょうね。……幸せそうでよかった」


 父上に殺されたというのに、まだ彼女は父上の幸せを願っているというのか。本当に、よくわからない兄妹だ。お互いに隠している想いが大きすぎる。


「……あなたは、この世の人ではないのか?」


 意を決して、核心に迫る。彼女のこの美しさ、儚さからして、そうだと言われても納得できてしまう。霊だとか、そう言った類のものだろうか。


「……今日のところは、そういうことにしておきましょう」


 そう、曖昧な答えを返して彼女は笑ってみせた。そうしてふっと、彼女の白い手が僕の頬を撫でる。


 その手は、温かかった。


 瞬間、突風が吹き抜け、花畑の無数の花弁が舞い上がる。思わず目を瞑れば、むせ返る甘い香りが鼻腔を刺激した。


 やがて、目を開いたその先に、彼女はもういなかった。まるで最初から何もなかったかのように、そこには何もなかったのだ。


 僕は頭にのせられた花冠を手に取り、しばらくそれを眺めた。きっと、これはお別れではない。むしろ何かが始まろうとしている。


 そんな予感を胸に抱きながら、僕は彼女との再会を待ちわびるように、夕景を見送った。

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