第23話 救いの書
夏の暑い日だった。高校の夏休み期間中。
いつも入り浸る市の図書館は休みで、共働きの両親は家にいなかった。私は受験勉強に集中するため、自分の部屋の空調をつけようとした。つかない。リモコンの電池は変えたばかり。クーラーが壊れているようだ。
このくそ暑いのに、ついていない。
冷房がつかなければ、窓を開けて涼をとるしかない。私はしばらく締め切ったままの窓をみやった。
隣の家の住民に変わりはない。窓からみえる隣家の部屋には、同世代の男の子が住んでいる。窓の距離は近く、不法侵入もできなくはない。
一応相手は不良とか怖い人じゃない。けど、「なにかあったら遅い」というわけで、高校進学前から、両親に窓を開けることにいい顔をされなかったのだ。ただ、ここは普通の一軒家。部屋数はぎりぎりなので、簡単に部屋を変えられはしない。換気と空調のためには窓の開閉が必須だと訴えると、すぐにクーラーと空気清浄機が導入された。ちょうどそのとき、町内で空き巣が発生したのも原因だった。
さてさて。隣の家は、近所でも有名な札付きの家だった。稲垣の父親は数年の間で何度か警察のお世話になっている。
実際問題、稲垣の家の問題はますますひどくなっていたので、騒音よけといった意味もあったのかもしれない。
中学時代は移動図書館で話す機会が増えた分、窓越しの会話は少しだけ減っていた。それに加え、高校受験の頃からあちらの窓が開くことは少なくなった。高校に進んでも難しくなった勉強と、きたる大学受験の準備で、ゆっくり話す時間がとれなくなったこともある。
呼び出しの電話もいつのころからか鳴らなくなった。生活パターンも大きく変わり、移動図書館でも顔を合わせることはなくなった。
ゆるやかにつながりが薄まっていく。近いのに遠くて。
まだ手を伸ばせば届くだろうか。
ガラリ。立て付けの悪くなった窓を、久しぶりに開ける。次いで雨戸を。
まぶしさに目を細めていると、向こうの窓も開いていた。
あ、向こうが着替え中とかだったら気まずい。
開ききった窓の向こうには、稲垣の姿があった。幸い服は上下とも着ていた。
でも、目が離せなくなった。
踏み台に乗り、天井からロープを吊り下げ、輪っかを手に持って、今にも首をつろうとしていたからだ。
目があった。
「ちょ、なにやってるの!」
ーー体育は得意な方だと自負している。
だから窓枠を乗り越えて、無我夢中で相手の部屋に乗り込んだ。
絶対に止めて見せる。相手の懐に入り、首をわっかに通す前に自殺志願者を押し倒し、体重をかけて制圧した。
ドン、どさっ、がたたた。稲垣の家にも、ほかに人はいなかったのだと思う。そのあとは静かになった。
部屋には踏み台が転がっていた。ロープは釣り下がったままだった。
装飾のかけらもない、フローリングむき出しの床に、一般的な高校生男子より背の低い稲垣は仰向けに寝転がっている。
「なんで……」
私の下で自殺未遂者は呻く。
濁った眼を、私は上から見下ろした。稲垣の瞳は底がない。いろいろなものが飲み込まれそう。
「死にそうな人をとめて、なにが、わるいの」
肩はみっともないほど震えている。緊張で、呼吸の仕方が普段と違う。
それでもいうべき事を伝えた。
「……僕は、死にたいのに」
バチンと。思わず殴ってしまった。思い切り、手加減なしに。痛い。
「楽しみにしてることとか、できなくなるんだよ!死んだら、今まで楽しんでいたやつが、できなくなるんだよ」
「………もう、読んじゃったし」
「………?」
稲垣は、本棚を指差した。そこには、数少ない蔵書が並べられている。数年前に借りた短編集の他には、一段丸ごと同一の作者の作品で埋まっていた。
香月花音。プロフィールをほとんど公開していない売れっ子作家。
「香月花音の本、全部読んじゃったから、生きてる理由、なくなった」
こんなカルトじみた人気があるとは聞いていなかったけれど。
少なくとも、香月花音の書いた本は、誰かの心の支えにはなっているらしい。
「…………また、新刊でるんじゃないの?」
だから死ぬなと。気持ちを暗に込めた。幸いにも、香月花音は存命中だ。
「しばらく出ないと思うよ。この人、2、3年ごとに一年休んでるから、また一年くらい休むよ」
私たちが中一のときと中三のとき、三ヶ月に一度刊行されていた本の発表がぱったりと止んだ。
またペースは戻ったものの、売れっ子が一年本を出さないなんてと世間は騒いだ。
彼女は持病があるとか二年契約で覆面作家が変わるとか、一人であるなら若い学生である説もネット掲示板でまことしやかに噂されている。
「……………」
「でも、一年はちょっと、待てない。生きるのが、辛いから」
「…………」
ああ、本気だったんだ。今回止めても、また、首をつりそうな。
それほどまでに苦しい状況。
「続きが出たら、生きるの?」
「多分」
「続きがでなければ?」
「…………」
死ぬんだ。
「僕は、気になったものは最後まで読むんだ。シリーズものなら、そのシリーズが終わるまで。途中で放置しちゃうのは、個人的には気持ちが悪いから」
「じゃあ未完結だったら読まないんだね」
「よっぽど好きだったら読むけど、基本は最初から読まないよ」
「そう」
香月花音は人気シリーズの第二部を先日発売した分で終わらせた。稲垣基準でいうと、キリがいい。
「物語が終われば生きられない。けど、いつか出るなら待ってみたい」
「………そっか」
私は立ち上がる。
「もう少し、待ってみたら?一年とは言わないから」
きょとんとした稲垣に、私は続ける。
「稲垣の読むスピードは、速いよ。たぶん作家の書くスピードに追い付かないくらい。いや、刊行に追い付かないくらい?だから、あと1年、ううん、半年とか、待ってみない?出るかもしれないから」
「そんな、こと」
「作家本人から一年休むとかのアナウンスがあったわけじゃないでしょ」
「でも現にもう半年出てない。今までの傾向からいってしばらくはでない」
「たしかにそうかもしれない。でも待ってほしい。だってさ、幽霊になって本を読める保証はないよ」
踏み台を直し、私は稲垣を見据えた。
彼はむくりと起き上がり、唇をわなわなと震わせている。
「香月花音が絶筆宣言してからでも、死ぬのは遅くはないと思うよ」
稲垣は膝を抱えていた。
「それに個人的に、稲垣と本の話をするの、私は楽しかったから、死んでほしくないなーって思ってる」
「……よくいうよ、自分は前途ある若者なのに」
市内でも偏差値が高めの高校に通う私。そして、高校には進学しなかった稲垣。
「稲垣だって同い年だよ」
踏み台にのり、私はなんとかロープを取り外す。
「犯罪者の烙印押されちゃったから、前途とかなにそれ。そんなのないよ」
吐き捨てるような言葉は、人生への絶望が現れている。
稲垣は定時制高校への進学が決まっていた。けれど、卒業前に軽犯罪を起こし、入学を取り消されたときいている。
それ以来、移動図書館に誘ってもこなくなって、外出しているところも見なくなってしまった。町内のひそひそは冷たさを極めた。
「犯罪してないのにしたことにされて、そっちのほうがなにそれ、だけど」
「…………水瀬さんが僕を信じてくれても、他の人は信じてくれない」
「せめて最低一人は信じてる人がいるって知ってほしい。生きててほしいって思ってるって、どこかにいれておいて」
「本の話しか、僕はできないけど、気を使わなくていいよ。生きる価値なんてないんだから」
「気なんか使ってない!」
感情をほとばしらせた。伝われと思いながら。
「稲垣にしかできないこと、私はあると思う。知らないうちにも、稲垣は誰かを助けてる!」
稲垣がやったとされていた反抗は窃盗、不法侵入ならびに盗品の販売だ。引きこもりなのだし、アリバイはない。なにより被害者である私の部屋に一番入りやすい。
町内での空き巣の最後の被害者は、私だった。部屋から下着やら制服が盗まれたのだ。
それを持っていたのが稲垣だった。
別件で厄介になった稲垣の父親と共に、親子で盗みをやっていたんじゃないかとか言われていたけれど、それは違う。
なぜなら私が盗まれたものは、他の人の物とは違い、転売されていなかった。そして、宅急便で送り返されてきた。
黙秘していたらしいし、私も事情を聞かせてもらえなかったから推測しかできない。父親が盗んだ物品を、こっそりとくすねとり、事情が事情だけに宅急便で返してくれたんじゃないかと思っている。
そのことで、家庭内はいろいろあったかもしれないけれど、稲垣は弱くなんかない。
強い人だ。
ロープを手に、私は自分の部屋へと戻った。
そっと窓を閉めて、パソコンをたちあげて。ワードに文字を打ち込んだ。
ーーその年の秋。香月花音は新刊を出した。今売れているシリーズを差し置いての新シリーズ開始に、驚きと怒りもあったらしい。それでも本は売れた。
稲垣が新しい本を買っているのもみた。香月花音の新刊だった。
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