第22話 私たちのいる位置

  移動図書館で外出機会を増やした稲垣を、私は一度喫茶店に連れ出した。中学三年生の秋。同級生は受験勉強に身を入れている。

 びくびくした彼を、私は話しかけることでリラックスさせようとした。外に出るだけじゃなく、飲食店で仲のいい友人と話すことさえ不慣れな印象を受けた。

 周りのざわめきか、普段と違うフィールドだからか。

  自分にできることは理解している。いつもどおりに話そう。それには本の話が一番だということもわかる。

  「最近読んだ本のなかでどうだった?」

 紅茶を飲んで一言。まずは私からボールを投げる。

 抹茶ラテを飲み込んで、稲垣は鞄に手を入れる。

  「これなんか面白かったなあ」

 すぐに反応はかえってきた。

 稲垣は1冊のハードカバーを取り出した。若手作家、香月花音のハードボイルド小説だ。そこそこの人気を誇っている作家だが、このハードボイルド小説は唯一文庫化していない。初動はよかったものの、あまり面白くないという書評がなされた代物だ。文庫化や重版もしていない。

「え、これ?ネットで散々たたかれてたやつだよ?古本屋で積み上がってるよ?」

 確か、大手の通販サイトでも、星は平均2,5だった。ほかの作品が4以上なので、ぶっちぎりで面白くないのだろう。私は驚きの声をあげるが、相手は意に介した様子はない。

「確かに傾向は違ってるよね」

「そうそう、別人が書いてるとか言われてるしさ~」

 香月花音は要請があるにも関わらず、顔だし取材やサイン会を絶対にしないことでも有名だ。その結果、インターネット上では実在しない作家とまで言われている。香月花音の名前を借りて、複数の作家が作品を出しているのだという都市伝説は広く受け入れられていた。

「でも、僕は面白いと思うよ。この人が書くものは全部面白いんだけど、今人気のシリーズよりも好きだなあ」

「……」

「水瀬さん、どうかした?」

「ううん 、なんでもない!」

 私たちはそこから延々と本の話をした。ベストセラーや平積みを片っ端から読むのではなく、隠れた名作を発掘するのが好きなのかもしれない。ミーハーじゃなくて、好きなものは好きとはっきり言えるタイプ。

 稲垣の読書傾向から、そんな印象を持った。

 ただ、普段こんなに話さないせいか、ほんの一瞬話題が尽きてしまった。

「あ、高校ってもう決めた?」

 つなぎとばかりに少しだけ、進路の話もふった。正直欠席日数を重ねている稲垣はどうするのかと気になったのだ。

「通信か定時制かな」

 なんでもないように答える。聞いてしまってから後悔した。

 稲垣の成績は話を聞く限り悪くない。ただ、出席日数が致命的なため、通知表上では評価が悪くなる。

「休みすぎてるから、公立の全日制普通科は少し厳しいよね」

 稲垣は笑った。私は黙って曖昧な顔をしたと思う。

 そんなときだった。来店を告げる音と共に騒がしい声が店内に入ってくる。

どことなく耳にしたことのある声だ。

「あれ、水瀬じゃん」

 予想は外れてほしかった。クラス一のスピーカー男子とその連れだ。

「一緒にいるの、誰?」

 私は一瞬言葉に詰まった。

「……じゃあ、水瀬さん、僕はこれで」

 稲垣が席を立とうとしたときに、向こうが稲垣のことを思い出したようだ。

「もしかして彼氏?」

 にやにやとした顔は、ゴシップに飢えていたらしい。どういうふうに返したらいいのか、答えが出てこない。

 帰りかけようとした一人が動きを止めた。

「……そういうの、水瀬さんに迷惑だから、やめてほしい」

 稲垣は存外はっきりとした声で言うと、私のほうに向き直る。

「休んでる間のプリント、持ってきてくれてありがとう」

抹茶ラテはまだ半分以上残っていた。

 すっと店から出て行った稲垣を、私は追いかけることができなかった。

毅然した態度もとれず、かといって自分を繕って稲垣を傷つけることもできず。

なにもできなかった私を守ったのは稲垣だった。

自分の立ち位置なんてものに、こだわっていないふりをして執着していた私をただ黙ってその場所にいさせてくれる行動を。

ほかならぬ私がとらせた。

彼は強く、私は弱い。

あちらは真に優しくて、こちらは偽善者にすぎない。

 『今日は無理やり連れ出してごめん』

迷いに迷って作り上げた文面を、本に挟み込んで部屋で待つ。携帯電話から固定を鳴らし、窓を開けてくれるのを待った。

暗くなっても窓は閉まったままだった。

諦めようとしたときに、遠慮がちに窓が開く。

「稲垣……」

「水瀬さん、今日はありがとう。楽しかった」

暗がりで、向こうがどんな顔をしているのかはよく見えない。

「もう移動図書館で待ち合わせするのやめようか。水瀬さんに迷惑かけたくない」

「迷惑なんて」

「僕はもうドロップアウトしたけど、水瀬さんには学校があるから。そっちを大事にしてほしいから」

「ちょっ」

窓は勢いよく、最後にはそっと閉められた。

鍵がかかる音がする。

私は窓際に立ち尽くし、座り込んだ。


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