第21話 図書館でだけではどうか
名探偵シャーロック・ホームズ、ポアロとマープル、怪盗アルセーヌ・ルパン。今も愛されるキャラクターを産み出した作家達だ。
「推理小説、好きなの?私も推理小説、結構読むよ」
「え!どんな?」
「外国のは、それこそさっき言ってたみたいな王道かな。アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』とか。それこそ、ホームズやルパンのシリーズを読んでた。日本のものなら、赤川次郎とか、東野圭吾とか、宮部みゆき。あ、ほかにも、おすすめの本あるよ。文庫本のけっこう出てるし」
買いやすいという意味で話したのだけれど。初めて稲垣の表情が陰った。
「たくさん教えてくれて、ありがとう。でも、買えないから、読むのはしばらく先かな」
本をお金のかからない娯楽ととるか、痛い出費ととらえるかは、経済状況によって違う。きっと稲垣は、読みたくても読みたいときに本を買えない人だ。
同じ本を何回も読んでいた理由の1つかもしれない。
「……じゃあ、私が貸すよ」
私たちが通う学校の図書室は、不登校の生徒には本を貸し出していない。だとしたら稲垣が新しい本を読むには、個人的に買うか、こうして借りるしかない。又貸しはポリシーに反するので選択肢からは除外。
彼の顔があがる。まだ晴れていないけど。
「いいの?」
どことなく稲垣は戸惑っているようだ。本が好きなのに、なにか躊躇している。
「なんで?」
「僕なんかに貸したら、水瀬さんが」
稲垣が不登校になった原因が分かった気がした。
繊細なんだ。そして、人の立ち位置とか、ポジションとか、そういうのをよく分かっている。いや、分かっているという言い方は語弊があるか。人一倍敏感に察知してしまうのだ。
自分の位置とか、あの人が校内でどれだけの影響力を持っているかとか。
自分がどんな風に人から思われているのかとか。こんな言動をされるってことは、この人はあの人に対してどういった感情を持っているかとか。
予測する。
見ないふりをしてできなくて、見ないようにするために、学校に行けなくなる。稲垣には自分だけじゃなく、関わった人たちの人間的力学まで深く見えている。
からりと笑いかけた。
大丈夫だと伝わるように。
「心配してくれてありがとう。でも学校の立場?そんなの関係ないよ。だってさ」
部屋に引っ込み、ブックカバーがかかった本を一冊抜き取る。よっという掛け声とともに、私は文庫本を投げた。
「こうやったら簡単でしょ…って!」
ゆるく投げたのに、稲垣は受け止められず、あごにヒットした。ばちゃっという音が聞こえる。
「ご、ごめん」
さすがにとれないとは思わなかった。とは、言わないでおく。投げるよと言わなかった自分が悪い。
床に落ちた文庫本を、稲垣はゆっくりと拾い上げる。
「いや、いいよ、わざとじゃ、ないでしょ」
「う、うん」
「体育すごい苦手だし、だから気にしないで。って、ほんとに借りてもいいの?」
文庫本を持ち上げて、再度確認する。
「もちろん!」
嘘偽りなく言い切る私に、どことなくほっとしたような様子だった。
「ありがと。うれしい」
にっこりと笑った顔は、まぶしかった。純粋で。本当に本が好きなんだと思った。いつもこんな顔をしていればいいのに。
そしてなぜだか、この顔をもっとみたいと思ったのだ。
携帯電話が一度鳴る。2回目の呼び出し音は鳴らない。履歴を見なくてもこんなかけ方をする人なんて、一人しか思い付かない。
私は見られて困るものが出ていないことを確認して、カーテンを、続いてがらりと窓を開ける。ほどなくして、稲垣の部屋の窓も開いた。
用があるときは、稲垣は家の電話から私の携帯に一度だけコールをしてくる。こちらがとらない限り電話代がかからないからだ。そして手間もいちばんかからないから。呼び出しの合図はこのところ毎日鳴っている。
「水瀬さん、本返す。あと、短編集の続きもよかったら貸すよ?」
はつらつとした稲垣は、健康的に見える。日々を少しでも充実感で満たしているらしい。未読の本を既読にすることで。
力になれているのなら、こんなに嬉しいことはない。
「ありがとう、でもごめん!まだ『砂糖とダイヤモンド』読めてないんだ。だから、続きをお願いするのは来週でもいい?」
「おっけー。じゃあ、先に借りてた本返すね」
そういって稲垣は、マジックハンドを取り出した。先のほうにはバスケットがついていて、そこには本が入っている。晴れた日限定のやりとりだけれど、投げ合うよりは安全だし、本も傷まない。私は窓際で本を受け取った。
「ありがと!」
「こっちこそ。『三姉妹探偵団』、面白かった」
「よかった!」
イチオシの本を満足げに読んでもらえて、私は胸を撫で下ろした。
稲垣の読書スピードは速い、一日1冊は当たり前だ。しかも3回くらい読み直すのだから。早いなんてものじゃない。瞬く間に私の蔵書は読みつくされてしまった。
「うーん、もう貸せる本がないんだよなあ」
「そっか、そうだよね」
稲垣は目に見えて残念がっている。しおれている姿に、私も思わずテンションが下がった。
どうにかできないだろうか。
――マリー・アントワネットの言葉がふと脳裏によぎる。
パンがなければケーキを食べればいいじゃない。
本が買えなければ………。
「あ、そうだ、移動図書館は?」
「移動図書館?」
おうむ返しからまさか、とは思った。稲垣が前に住んでいたところはなかったらしい。そこで私は市内を巡回している図書館の変形サービス、移動図書館を勧め、簡単に説明した。
移動図書館は市内在住者なら、無料で利用できる図書館サービスだ。市の図書館が月に一度バスに蔵書を詰め込んで、決められたポイントをまわり、図書サービスの普及に努めている。貸出期間は1か月で、限度数は15冊。本が好きな稲垣に、きっとぴったりだと思う。
「外に出なきゃ、だめなんだよね」
一転、沈んだ顔になる。それがおそらくネックだろうな、とは思った。稲垣は学校の人に会いたくないという気持ちが強い。そのため、外出は自宅の郵便受けに出るまでが限界だ。
「一番近い巡回ポイントは、駅前。ここから10分くらいかな。3時くらいから来てるから、早めに行けば学校の人はいないと思うよ。バスは1時間くらいしかいないし」
行きたがっているのは明白だ。けれど、なおも抵抗感があるようだった。
早めに踏み出せたら、そのぶんなにか変わるのも早くなると思うから。私は稲垣に幸せになってもらいたかった。できるだけ早く。
「だったらさ!もしよかったら、今度一緒にいこうか?」
正面で、前髪越しに大きな目がまばたきをする。
「………いや、そこまで迷惑かけられないよ。ごめんね、教えてくれて、ありがとう」
ぎこちないながらも、笑顔を見せてくれた。いつも通り窓を少しだけ開けておいて、カーテンを閉める。その日の話は終わった。
私は稲垣によりよく過ごしてもらいたい。それは嘘じゃない。
ただ、そのほかにも、一緒に移動図書館に行きたいという思いもどこか混じっていたような気がする。
残暑が厳しい頃。移動図書館の巡回日だった。いつものように借りていた本を返却した後、簡易の本棚で借りたい本を見繕う。ただ、私は思わず首をかしげた。やや挙動不審げな同年代の人を見かけたのだ。周囲を必要以上に意識、または警戒している。
近づいていき、人違いである可能性を潰した。きっと勇気を振り絞って外に出たのだ。姿を見つけてなんだかうれしくなる。
「やっほ!」
小さく声をかけると、帽子を目深にかぶった稲垣は、ずざざという音をたてそうな勢いで飛びのいた。
「!」
驚かせてしまった。一般的な中学生はまだ学校にいるはずだからだろう。受験を控えた3年生は塾に行く。1、2年のほとんどは放課後の部活だ。
私は部活をしていない。帰宅部だ。そして相手は不登校生だ。時間が合うのも当然かもしれない。
怯えているような姿に、自分が怖がらせているのか、と自覚した。
学校帰りに立ち寄ったので、私は制服姿だ。学校の嫌な記憶がフラッシュバックするのかも。
「……驚かせてごめん。じゃ、私、本適当に見るから、そっちもどうぞ」
私は安心させるように伝えて、そっと離れていく。肩の荷が下りたように、稲垣はほっとしていた。
私も怖がられる側にいるのか。そう思うと、少し苦しい。早々に借りる本を決めて、家に早く帰った。
部屋に戻って本を手にしても、文字を頭にいれることができなかった。
自分のなかで動揺している。
私に向けられていた表情も無理をしていたのだろうか。だとしたら、どれだけ苦しめてきたのだろう。
全開にしている窓からは、締め切っている窓が視界に入ってきた。
不意に門扉の開く音が耳に入る。身を乗り出してみると、稲垣が帰ってきたようだ。
頭の中は早くフラットにしたい。
私は隣の家の玄関扉が開いたのを確認して、携帯電話をプッシュした。
通話ボタンを押し終わって数秒。隣の家で固定電話がけたたましく鳴る。私が通話をキャンセルすると、隣のベルも鳴りやんだ。
待つこと数十秒。
向かいの窓が恐る恐る開いた。
「………水瀬さん、呼んだ?」
「呼んだ」
ずい、と進み出る。相手は半歩引く。
「え、あの、借りっぱなしにしてる本、あったっけ。えっと」
「ない。ちゃんと全部返してもらってる」
「あ、じゃあ、なにか借りたい本がある、とか」
「違う」
唇を引き結んで、息を吸った。
「私と話すの、嫌?」
「…………」
「私と話すの、怖い?今まで無理して話してたりとかした?」
私がドキドキしている間、向こうはうつむいたままだった。
それが答えだと思うと、悲しかった。
「………」
「………ごめんね」
謝ると、弾かれたように顔をあげる。
「そんなこと、思ってない……!」
閉めようとした手が止まった。
「あの。僕と話して、そういうところ見られたら、水瀬さんに迷惑がかかると、思って。あのとき、他に誰かが、見てたらって思うと。怖くて」
「じゃあ、避けてたのは、話すのが嫌だったんじゃないってこと?」
稲垣はうなずいた。
「……そっか。よかった」
心からほっとした。嫌われていたんじゃないと知るのがこんなにも嬉しいなんて。
「え?」
「本の話、稲垣としていたの、楽しかったから。それが無理矢理話をあわせてくれたとかじゃなくて、よかった」
「僕も、楽しかったよ。本の話するの」
言いようがないくらい満たされた気持ちになる。
願望は自然に音になっていた。
「これからも、本の話、してもいい?」
「そんなの、こっちからお願いしないと!」
稲垣の気持ちを知ることができた。
それだけでよかった。
それだけで、さっきまでの気分は跡形もなく消えてしまった。
稲垣は最初はびくびくしていたけど、移動図書館で話しかけるうちに外に慣れてきてくれた。大丈夫、あなたのことをみて笑う人はここにいない。ちょっとおとなしくて本好きな、普通の男子中学生だ。
窓越しに話したのは、嘘じゃなかった。つまり、本来は話すことは普通に楽しんでいるっていうこと。
だんだんと移動図書館で待ち合わせて話すことも増えた。
「今流行っている本ってどんなやつ?」
そう聞かれれば、一緒になって本を選んだ。
相手は私の知らない話をたくさん読んでいて、それは素直に羨ましかったし、勉強になった。
会うたびに稲垣との話を楽しんでいた。
こう話していると、弾かれる要素なんてない。稲垣は普通の人だった。
ただ、自分のなかで問いかけることも増えた。
私がこうして稲垣と話しているところを学校の人に見られたときに、私はどういう反応をするのだろう。
私はどんな本を読んでいるのか、稲垣が登校していたときから気になっていた。そして、目で追いかけた。
けれど、学校では一度も話しかけることはしなかった。
それが答えなんじゃないだろうか?
話しているのは、楽しいのに。
それは嘘じゃないのに。
どうして相手に気を使わせているのだろう。
私は何を恐れているのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます