第20話 窓越しのカウンター
「ねえ」
二学期も始まってしばらくたった、ある土曜日の夕方だった。お互いの両親が外に出ているタイミングを見計らって、私は声をかけた。
稲垣はトイレと風呂以外はずっと部屋にこもっているらしい。そして勉強するか本を読むかしている。たまに腹筋やスクワットをして、ごくごくたまにぼーっと座り、虚空を見つめている。観察を続け、行動予定はなんとなく把握した。計算ずくの行動だ。
あちらはいきなりの声にびくりとして、きょろきょろとしている。主に背後を。
違う違う。
「いや、幽霊じゃないから。こっちこっち」
突っ込みを入れる私の声に、やっと気づいた。虚ろな表情でこちらをみて、稲垣はふらつきながらも立ち上がった。むしろそっちが幽霊に近いと思う。じっさい幽霊クラスメイトと言えなくもない。
体勢を崩しながらも、なんとか窓際までやってくる。それはそうだ。そんなに同じ姿勢を維持していきなり動いたら、体がびっくりするわ。もしくは、運動不足による体力の低下か。
「水瀬、さん?」
確認するかのように名前を呼ばれた。よれたシャツとジャージ姿で、髪の毛がぼさぼさだった。目の下には薄いクマ。見てくれは悪いけれど不潔ではない。中学生にして、稲垣は、世捨て人のようにも見えた。
「あ、名前覚えててくれた、うれしい!」
「……そりゃ、隣の家の、人だから……」
「そっか、表札かかってるもんね」
私のボケにも、稲垣はのらない。
ただ、窓は開いたままだった。人嫌い、というわけではなさそうだ。
去りどきを逃しただけ、なんてマイナス思考は放り投げておく。
「っていうか、私がここに住んでるの知ってた?」
「……なんと、なくは」
「だよね、名字がそうだしさ」
私の言葉に黙ってうなずく。
「もしかして、放課後図書室にいたりした?」
「う、うん」
「そっかー、私帰宅部だけど、一回も帰り、一緒にならなかったもんね」
私の予想は当たっていたらしい。そりゃあ、家にいるよりかは学校にいるほうが気が休まるのかもしれない。できたら一人で。
「ねえ、本好きなの?」
「あ、うん」
聞いたことには応えてくれる。会話の方法が下手なだけ。人と話す方法を習得するのが遅れてしまっただけだ。簡単なのは、相手に話してもらうこと。どんどん相手に話をふればいいのだ。質問とか。
「けっこういっつもおんなじ本読んでない?」
「え?」
警戒した白目が私を見る。やばいと思ったときには遅かった。
そうだ、いつそんなのを見るというんだ。稲垣はもう不登校になっている。本を見ていると知るのは家しかないじゃないか。自分の部屋からのぞき見していたと自白したのも当然だ。
「水瀬さんって、変態……」
「違う違う違う」
「え、のぞき、え?」
「違う、いや違わないけど違う」
稲垣は多少引きながらも、会話を打ち切りはしなかった。許されるかはわからなかったけれど。正直に話すことにした。
音をたてて手を合わせる。
パンっという音が反響した。
「……ごめんね!ここの窓近いじゃん。だから、換気してるときとか、けっこうそっちの様子見れるんだ。それでさ、いつも本読んでるなって。それで、見間違いじゃなかったら、同じ本、繰り返して読んでるんじゃないかなって」
「確かに、そうだね。ここの窓、近いよね。つい見えちゃったりとか……」
納得してくれたことにほっとする。ただ、すぐにぷいと顔を背けられてしまった。
「……ごめん、部屋干ししてるやつ、どこかによけてくれると助かる」
くるりと部屋を見渡すと。部屋に干していた下着が目に入る。私は窓だけでなく、カーテンも開け放していた。これでは部屋の様子がばっちり相手の窓から確認できてしまう。
「わわわわわ!」
私は慌ててそれにタオルケットをかけて見えないようにした。
そそそとみると、相手の耳が赤くなっている。
それは、きっと、年相応だから、たぶん。きっと自然なことだ。稲垣のセリフいわく『つい見えちゃったり』したのだ。相手に悪気はない。私みたいに意図的に見ていた方がたちが悪い。
「あの、ごめん」
がばりと頭を下げられた。
まあ、見られたのは、あれだけど。
「う、ううん、たぶん不可抗力だし、気にしないで」
下着だったので、セーフだと思いたい。これが着替えだったらきついけど。ああ、置き換えてたら私は大概なことをしてたんだなあと反省した。
まあ、だからこの一件は、これから気を付けろというなにかからの警告なのかもしれない。
「ただ、ごめん。できたら見えちゃったこと、忘れてもらえると、助かる」
「わかった」
忘れる努力をすればするほど忘れられなくなるということを耳にした気もするけれど、まあいい。
「それで、話の続き!同じ本、読んでない?」
大げさに切り替えて、聞きたかったことをぶつける。稲垣は咳払いした。
「……うん、大体同じ本読んでるけど。気に入ってるから」
しっかりとした返答に、新たな羞恥が混じる。
たくさんの本を読むより、気に入った作家の本を繰り返し読むタイプか、と気づいたから。人が何を読むかはその人の自由だ。
「そっか……お節介しちゃって、ごめん!」
「ううん」
キリもいい。それじゃ、と言いかけようとしたときだった。
「あの」
呼び止められた。みるからに寡黙な稲垣に。
素直に驚き。自分から話しかけるタイプじゃないと思っていたから。
「水瀬さんって。本、好きなの?」
「うん、好きだよ」
即答した。降りる沈黙。
「……」
話が終わりかな、と思ったら違った。
「……意外。運動できて明るくて、おしゃれで。読書とは縁がないと思ってた」
心から思っていたらしい。口をぽかんと開けている。
運動は好きだし、人と話すことにも抵抗はない。服装はそれなりに気を使う。それでも一人で本を読むことは好きだ。世の中の、運動できる人がバカ傾向というキャラ付けは控えてほしいと真剣に思う。
「うわー偏見だー」
「うん、偏見だね、ごめん」
私のちゃらけたクレームにも、真摯に謝ってくれた。
どんなことにも素直でまじめ。やっぱり悪い人じゃない。
そんな稲垣は、手に本を持ったままだった。
黒っぽい装丁で、あまり見たことがないものだったから純粋に気になった。
「今は何読んでるの?」
「コーネル・ウールリッチ短編集。推理小説で、面白いよ。だいぶん昔のだけど、トリックが色褪せないからこれから先も読めると思う。これとは別に、 長編もあるんだけど、マンハッタン・ラブソングは、今の僕にはよく分からなかったな」
人と話していなかったからか。かすれかけていた声は、ややハリを取り戻している。しかも饒舌だ。
さらに稲垣は表紙を私に見せてくれた。黒っぽいしっかりとしたカバーには、白人男性と思われる写真が写っている。
「へえ、はじめて聞いた」
素直につぶやくと、向かいの同級生は仕方ないというような笑みを浮かべた。
「やっぱり、コナン・ドイル、アガサ・クリスティ、モーリス・ルブランがメジャーなのかもね」
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