第19話 『未完の原稿』



『未完の原稿』佐井たすく

『私が続きを書かなければ、あなたは生きてくれますか』

 このフレーズが頭の中に浮かんだのは、あなたが死にたいと言ったときだった。

「落としましたよ」

 私が黒い財布を手にそう声をかけると、猫背気味の落とし主がびくりと振り返る。オーバーじゃないかなと思うくらいに。けれど、態度には出さずにおいた。できることなら、無用な厄介ごとは呼び込みたくない。

「ありがとうございます……」

 財布を受けとると、消え入りそうな声でお礼を言われた。振り返った人は、全体的に毛髪量が多い。長さは顎までのショートカット。前髪も長いが、声の調子からすると男の子とみて間違いない。ぺこりと頭を下げて、渡した財布を握りしめ、歩いていく。

背格好から察するに、多分、同い年くらいなんじゃないだろうか。

 このあたりに住んでいるのだったら、同じ中学のはずだ。けれど見覚えはない。もしかしたら、相手は私立に通っているのかもしれない。はたまた、近くにある祖父母の家に帰省してきた孫だとか、ただの通りすがりとか。ここは駅にほど近い道路だから、住民ではない可能性もなくはない。

 私はそんなことを考えながら、移動図書館をあとにした。春先のことだ。

「ただいまー」

 家に帰ってみると、玄関先に洗剤のギフトボックスが置いてある。自分用に買う代物じゃない。

「お歳暮?お中元?新聞の景品?」

「季節も違うし景品は違うよ。お隣さんが越してきた挨拶」

「へえ」

長いこと空き家だったところにそのまま引っ越してきたらしい。

「あなたと同じくらいの子がいたわよ」

「ふーん」

 豆情報に生返事をした。

 洗剤よりもジュースのほうがよかったな、と心のなかでケチをつけることのほうが大事だったのだ。

 それに、隣の家の子供のことをそこまで重要視していなかった。大人が言う「同じくらい」は、誤差がある。予想と現実が二~三歳くらい違うのはざらだ。もしかしたらその人は大人びた小学生かもしれないし、童顔の高校生かもしれない。

 そうなると、実質関わらず、関係なんてない可能性が高い。だから母親の話を聞き流していた。

 頭の片隅に情報をやりながら、二階に上がる。自室に入るやいなや、本をどさりと床に置き、伸びをする。南向きで日当たりのいい部屋に埃が舞った。静かな環境で読書としゃれこもうとしても、どたばたと隣から音が聞こえてくる。引っ越しのあれこれで荷物を動かしているのだろう。

家は角地にたっている。私の部屋は道路側ではなく隣家に面していた。

 自分の部屋の窓から、隣の家の様子を見る。いや、見えない。曇らせている加工があることをすっかり忘れていた。これがなかなか優秀で、外の明るさくらいしかわからない。相手側からも、カーテンの色や人影くらいしか見えないはずだった。

 出窓というのだろうか。建物自体は密着していないのだけれど、窓と窓の距離は近い。家庭用の脚立は向こう側にかけられるくらい。頑張れば不法侵入もできなくはないほどだった。これは換気で窓を開けるのは注意しないといけないか。

 でも、今様子を伺うには開けてみるしかない。

 どんな人が来たのか。ただの好奇心だった。

 ……そろりと窓を開く。思わぬ人と再会した。

 ああ、さっきの人だ。窓を開けはなして、積みあがったダンボール箱もそのままに、床に腰を下ろして一心不乱に本を読んでいた。引っ越し準備はどうした!とか、優先順位はそれか!という突っ込みは、向こうの家族が見つけたらしてくれるだろう。私はするつもりはない。

 本を読んでいるその人は、とても幸せそうだった。つまらない小言で壊すことはできない。

 ただ一つだけ、荷解きをした形跡がある。部屋の壁には学ランがかかっていた。……うちの母親情報と目利きは、信頼性が高いということを覚えておこう。案外関係なくないことはなさそうだ。かかっていた学ランは、ぱっと見では私が通う中学の男子制服なのだから。


 隣の家に越してきた一家は表札をかけていなかった。母親情報では、稲垣というらしい。

そこの一人息子は、新学期、進級と同時に私の通う中学に転入した。しかも同じクラスだ。私は向こうを覚えていたが、あちらは私が財布を拾ったことを覚えていないらしい。きっと目を伏せて、こちらの顔を見ていなったからだ。

 まあ、それはいい。家が隣でクラスも同じなんて、なんのフラグ。少なくとも、まわりから茶化される面倒な部類の情報は漏れないに限る。幸いこのことを知っているのは、住所を見ることができる先生を除けば、生徒では私一人だろうから。

 私はクラスの力関係を吟味しながら、誰にでも分け隔てなく接していった。一方、稲垣はせっかくキリのいい時期の転入だというのに、活かしきれていない。

 正直な話、稲垣はクラスにあまりなじめていないようだった。決してクラスメイトに恵まれなかったわけじゃない。人付き合いの方法がうまくないというか。いつもびくびくしている。警戒感が半端ない。人と話すのもつっかえつっかえ。受け答えはこれでいいのだろうかという風に、常に迷っている。先輩に対してならわかるけど、同級生に対してもこれだから。まあ、浮いていた。

 周囲はいぶかしんでいた。そしてそれとなく距離を置き始めた。

 こっちが気を使わなければならないのはかなり疲れるから、というのが理由だろう。疲れる人間関係は、築いてもいつか破綻する。だったら、最初から作らないほうがいいと、そういう計算が働いたのだろう。まあ、疎まれながらも表だって仲間には入れない感じの、微妙なところ。根は悪くないので、暴力的ないじめに発展することはないかなと思う。

 はてさて、稲垣の性格があんななのは……、なんとなくわかった。

 隣の家からは、毎日のように怒声が聞こえる。

「死んでまえー」とか「くそばばあ」とか、「おまえの育て方がわるいんじゃー」とか。他にもいろいろある。家庭環境はよろしくないらしい。いや、非常によろしくない。隣近所のヒソヒソによると、父親はほぼ無職で、看護師の母親が家計を支えているらしい。ただ、家に妻がいないことが古い考えの旦那は気に入らず、夜勤帰りには妻を殴り、はたまた罵り、というところらしい。突き抜けた亭主関白、みたいな。磯野波平のいい部分をすべて引っこ抜いて、残った部分を強化した感じ。

 我が家でも両親の間でちょっとした問題になっていたらしく、私はノイズキャンセリング機能のついたウォークマンを買ってもらったほどだ。誕生日でもクリスマスでもないプレゼント。ラッキー、なのかもしれない。よっぽど耳に入れたくないやりとりなのか。一応名目はあったけど、無理やりつけたような感じだった。

 かくいう私は携帯音楽プレーヤーを手に入れて以降、隣家でなにかが始めると、すぐに音楽を聞いて紛らわすことが習慣になった。もしくは、特に夜はあまり音の響いてこないリビングで過ごした。すぐ近くの同級生のことは、見ないふり。

 稲垣の家は、町内会でも問題になっているようだ。あれだけ派手にしていたらそうだろう。学校でも、先生方の話のタネになっている節がある。まあ、隣の家だから、いろいろな音は聞こえてくるわけで。それが何かを蹴とばすようなものだったり、食器らしきものが割れる音であったりするのもよくあることだ。稲垣自体は決して悪い人ではないけれど。先生たちが家庭訪問を何度も行っているのは見た。たまに顔にアザを作っていたから、家庭内暴力?とか。十分ありえる。

 自分がそうでなくても注目されていたり、性格に起因してよく弾かれていたり。だからか、人と関わることが苦手なようだった。それはそうだ。詳しくはわからないけれど、家でぼろくそに否定され、ずっとネガティブな感情をぶつけられていたら、引っ込み思案にはなるだろう。人を信じられなくはなるだろうなとは誰だって考える。考えるけど。

 きっと本当の意味ではわからない。想像、あるいは推測するだけしか。

 家だけでなく、稲垣は、見る限りいつも本を読んで過ごしていた。学校では基本的に一人だった。それでも本を読んでいるときは、幸せそうだった。一人でいることを誤魔化すために本を読むのではない。純粋に楽しんでいるみたいだった。その証拠に、真剣な目でページをめくり、たまに表情を和ませる。人と話しているときにおどおどしているのに。本の世界に入っているときは、感情豊かだった。休み時間は人と群れていなくても楽しめるということの体現者。

 私は学校が終わった後、友達と遊びに行くか、そうじゃない日はまっすぐ帰る。一方稲垣は、放課後は図書室で時間をつぶしている。広く知られていないけれど、放課後の図書室は生徒が自由に使っていい。あまり人のいない空間で、リラックスして、心ゆくまで本を読んでいるのだと思う。

 けれど次第に学校を休みがちになって、夏休み前には不登校になっていた。

 学校ではずっと一人でいるわけにはいかない。班単位の掃除や、授業でのグループワーク。あとはいろいろな行事。どうやったって、一人で完結できないものはある。そのあたりが無理になったのかもしれない。

 ばたばたと朝支度をするときに、窓はお互い閉じたままだ。換気のために少しだけ開けて、様子をうかがってもやっぱり窓は閉まっている。人の気配は隣の家の子供部屋からは感じない。いるのかいないのか。

席は置いているから、まだあの家に住んでいて、生きてはいるだろうけど。

 部活に入っていない私は、夏休み中は暇をもて余していた。もっぱら部屋にいて、パソコンを触っている。だから気づいた。午後からは、稲垣の部屋の窓が開いていることが多い。部屋主の姿もしっかりと確認できる。午後から開くのは単純に暑いからだ、きっと。クーラーがあるなら別だけど、夏場の二階は窓を締め切って過ごすことはできない。私の部屋がそうなのだから。

 でもまあ、さすがにこっちも全開、とはいかない。着替えとかいろいろ問題がある。見られて困るシチュエーションは、異性だからこそ一定程度あるのだ。

 着替えたあとで、ほんの数センチ開ける。

 換気と涼を求めるためというのは言い訳だ。本当は部屋で一人本を読んでいるところを、私は自分の部屋からこっそりと見ていた。

 稲垣は本を読んでは眉間にシワをよせたり、ほのかに笑っていたりしてくるくると表情を変えていた。

 黒っぽいハードカバー。稲垣が持っているのは、いつも同じ本であるように見える。

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