第24話 滅びの呪文
『私が続きを書かなければ、あなたはそばにいてくれますか』
考えなしに伝えて、私は後悔している。なぜならあなたを傷つけたから。
稲垣はあれから持ち直した。あいかわらず家からはあまり出られないみたいだけれど、大検をとったらしい。たぶんお父さんが塀の中にいて、家の中が穏やかになっているのも関係していると思う。
そして、大きく変わったことがある。在宅でのアルバイトをするかたわら、執筆活動をはじめたのだ。
「香月花音のような作家になりたい」と彼は言った。
「自分も誰かの心の支えになれるような作家になる」と。
大学生になった私は、適当にサークルやバイトに入っていたけれど、基本的には家にいた。自然と二人で話すことも増えた。
稲垣の知らない世界のことを私は話す。反対に稲垣は哲学や未翻訳の小説の話をしてくれる。この時間は、大学の時間とはまた違った意味で新鮮で、大事な時間だった。
時折、稲垣の話を読ませてもらうこともあった。まじめでまっすぐで、どことなく不器用な生き方の主人公。何事も正面から突破しようとして、嘲笑されながらもまた歩いていく物語。書き手の性質が反映されたみたいだ。
「水瀬、またダメだった」
稲垣が振ってきたのは、先日応募していた新人賞の話だ。 何度か応募していて、さっぱりな結果に落ち込んでいるらしい。
「大丈夫だよ」
私は本心から、そう慰めた。殺風景だった部屋には少しずつ生活感が出てきていた。型落ちのノートパソコン、透明な衣装ケース、増えてきた文庫本。生きることをやめないでいてくれている。
稲垣の書く話はとても綺麗だ。純粋で、今に壊れそうなほど繊細にできている。言葉を大切にしていて、話の組み立てかたもうまい。
きっと審査員のみる目がないのだ。
そう元気付けると、少しだけ稲垣は笑った。
そして私は暗くならないうちに帰る。もう窓越しに移動したりはしない。ちゃんと家を出て玄関から入って、玄関から帰る。やましいことは何もない。健全なやりとりだ。
お互いに彼氏彼女はいない。稲垣は出会いがないという。私はいい人がいないという。
月1で稲垣の部屋で会い、2時間くらい本の話をしたり、雑談をする。関係性は異性の友達。
最初こそ不審がられたけれど、今では家族も理解している。
稲垣は顔を強張らせて私の家にやってきたのは、その翌日だった。
こんなことは今までなかったから驚いてしまう。驚きつつも、私は自分の部屋に招いた。
ドアをぱたんとしめた。
「いらっしゃい。まあ、座りなよ」
座椅子をすすめたものの、相手は無言でジーパンのポケットに手を入れている。
「忘れ物」
座らずに立ったまま。ぶっきらぼうに差し出されたのは、仕事用の携帯電話だ。
思わず息をのんでしまう。
「部屋に来るの、水瀬くらいだからこれ、水瀬のでいいよね?」
震える手で、無言で受けとる。稲垣は黙ってそれを握らせる。
着信ありを告げるランプが等間隔で点滅していた。
「香月花音がこんな近くにいたなんて、思わなかった」
背中からぶん殴られたような感じだった。そのあと腹パン、頭から水をかけられたような衝撃。
折り返しをしなかった私に対し、担当編集者がメッセージを送り、ポップアップで表示された内容を稲垣が見ても不思議じゃない。
香月花音は、私のペンネームだった。12歳でとある新人賞を受賞し、そこから編集者に目をかけられて、コンスタントに作品を出してきた。何を言われてても2年に1度休んだのは、受験勉強のためだ。顔出し取材やサイン会をしなかったのは、普通の学校生活を送りたかったため。
「それは」
稲垣に、それを言わなかったのは。言えなかったのは。
変わってしまう気がしたからだ。水瀬音羽個人ではなく、作家の香月花音として見られるんじゃないかと。
「楽しかった?俺の書いたレベルの低い応募原稿を読んで、慰めて」
稲垣の顔がゆがむ。
今までの関係性が壊れていく。対等でいたかっただけだ。
不登校だとか前科がついたとか関係ない。だから私も。
「違う」
けれどどうしようもなく壊れてしまう気がした。
ただの、本好きの人としてそばにいたかった。それだけだったのに。
泣きそうになる。
私はどこで間違えた?
「……俺が死のうとした年の秋、新刊出したのは、俺が香月花音のファンだったから?」
「……それは」
「無理して原稿書いて、志望校のランク落として、そこまでして人助けをしたかったって、なにそれ、自己犠牲の精神?人のために尽くすっていうやつ?」
確かに無理をした。学生とはいえ原稿を仕上げるのは仕事だから。妥協は許されない。それに私から書きたいと言い出したのだ。だから、きっちりとした作品を仕上げる責任があった。大学は当初よりランクを下げた。それと引き換えに、新刊を出した。
それは動かぬ事実だ。後悔はしていない。
「書きたかったから、書いただけだよ」
「なんで。なんで書いたの」
追撃の手は緩まない。はぐらかせると思っていたのが間違いだった。
「稲垣の、ために」
はっ、という捨て鉢なため息が見えた。
「そういうの、やめてくれない?」
声はどこまでも冷たい。
「俺のためとか。そういうふうに他人を理由にするやつの行動ほど、他人のためになってない」
「っ……」
「大体、なんで俺のためなの。そうまでして自殺をとめたかったの」
「そうだよ」
私は相手をまっすぐに見据えた。あふれ出てくる感情を、少しでも受け止めたかった。
「なんで」
「どうしても、死んでほしくなかったから」
「……」
戸惑いの色。意味が分からないとでも言いたげだ。
「死んでほしく、なかったから。私は、稲垣のことが、あのころから、好きだったから」
いつかみたいに、押し倒す。
今度は私を、稲垣が。体格差は歴然だ。私のほうが、もう小さくなってしまった。
天井と一緒に稲垣を見つめる。
「冗談は、やめて」
「冗談じゃ、ないよ」
「じゃあ本気を示して」
「目を見て伝えてるよ」
「それ以外にも」
肩にかかっている手が小刻みに震えている。人を、信じられないのかもしれない。
唇を引き結んで、稲垣を見上げた。
「どうせ、同情して、そんなこと言ってるんだろ」
「違う!!」
腹からの声に、少しすくんだようだった。その瞬間を逃しはしない。
「私は、本を書くことが好き。でも、稲垣のことが、それ以上に好き」
肩にかかる力が減り、右腕が自由に動かせるようになった。
私は右腕を上げて、稲垣の頬に触れる。
悲しむところや苦しむところをみたくない。ましてや原因が自分なら。
「私が続きを書かなければ、あなたはそばにいてくれますか」
他人の声のように、震えた言葉が耳に響いた。
呆けたような顔。いたってまじめに告げた私。理解できないというように首を振って。少しうつむいた後、稲垣は笑った。
痛いくらいの微笑みで。
「ごめん」といった。
稲垣が離れていく。
「それは水瀬の自己満足だ」
私は動けないまま、稲垣は部屋を出る。階段を降りていく音、玄関のドアが開いて閉まる音。すべてを孤独に聞いていた。
私は稲垣を傷つけた。
プライドをずたずたにして。
だから泣く資格なんてない、泣く資格なんてないのに。
涙がとまってくれない。
ただそばにいたかったんだ。わがままを通したくて、余計に相手を傷つけた。
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