第15話 君の問いかけは決定的なものだった。

何かにひびが入ったみたいだ。ひとまずひびに応急処置をする。なにも視界にいれず、聴かず、中に入ったものを消化する。あるいは吐き出して。

 幸いトイレには誰もこなかった。一人でいることで多少なりとも冷静さを取り戻せたらしい。しばらく女子トイレで呼吸を整えて、出る。

のろのろと会場に戻る前に、ふと、立ち読みスペースを覗いた。

 販売スペースとはまた別で、立ち読みを大っぴらにできるコーナーが設けられている。サークル参加者が見本の同人誌を提出し、運営さんがそれらをとりまとめる。購入をメインに行う参加者が立ち読みスペースでどんなものかを吟味し、購入に役立ててもらおうという趣旨だ。また、会場が狭いので、じっくり検討したい人は立ち読みスペースであたりをつけてから販売先に向かう場合も多い。

 ほんの少しの興味だった。ある場所にひとだかりができていた。

 気になって、近寄って見てしまう。

 多くの人が囲んでいるのは見覚えのある表紙。

「モノクロランプ」だ。

 隣の私の単独誌は、かえりみられないまま。

 まるで、現実の佐井くんと私みたいだった。

 佐井くんに見出されたからといって、私の価値があがったわけではないのに。

 ただ、人に認められた気がして。人気のある人だったから、そんな人にポジティブなことを言ってもらったから。自分もいていいんだって思って。そんな安堵感。

 なんてバカみたいだったんだろう。

 ふらふらと会場へと戻る。入り口に佐井くんが、心配そうに立っていた。

 手にはペットボトルを二本持っていた。

「羽瀬川さん、よかったら、水……」

 自動販売機から買ってくれたのだと思う。ただ、その優しさが、ちくちくする。

小さく手と首を振った。

「ごめんね、今は、あまりなにも入れたくなくて」

 ふらりとバランスを崩しそうになる。

 暑い。冷えているのに、体の中が燃えている。感覚も熱い。

 さりげなく身体を支えられた。

「そっか……とりあえず座りなよ、会場は暑いし」

 確かに、空調だけじゃなく、熱気があって、外気温よりも高かった。私はすすめられるまま、自動販売機前のベンチに座り込む。

 顔を見られないように、私は自分の膝小僧を見据えていた。

 それを、しんどいゆえにしゃべれないからだと誤解される。

「ごめんね、片道三時間も、無理させて」

「ううん」

「やっぱり、早退しよう。途中まで送るよ。羽瀬川さん、早く帰ったほうが」

「いいよ。それよりさっきの編集の人とちゃんと話さなきゃ。こんなチャンス滅多にないんだし」

「でも」

「そうだ。佐井くん、進路決まったって言ってたよね。おめでとう。どこにいくの?」

 顔を上げて、戸惑う佐井くんの話を遮る。我ながら強引な話の展開だと思う。ただ、心配する言葉を耳に入れたくなかった。佐井くんは、一瞬沈黙しながらも、進学予定先を口にしてくれた。

 私の志望していた、国公立大学、文学部。

 私がとても行きたかったところ。

「本当に、おめでとう」

 喉がからからになりながらも、祝福の言葉を伝えた。

 すごく、努力した結果だと思う。バレー部のエースで、図書委員長をしていて、そして校内で一人の推薦をとれるくらいの勉強を続けてきたのだ。もちろん物語も書きながら。

ある種の才能。

「……羽瀬川、さんは?」

「私?女子大だよ」

 顔の筋肉を動かして、私はある女子大の名前を口にした。名門私立の位置づけだけれど、偏差値は国公立よりも一段階は落ちる。

「ここなら推薦とれたんだ。佐井くんが受かったところはね、推薦もらうの無理だった。一般入試でがんばるか、今そこそこの女子大に推薦で行くか、考えて、女子大をとった」

 誰に責められるいわれもない。 テクニックとしては自然なこと。佐井くんだってわかるはずだ。

「そっか」

「うん」

 だからか返ってくる反応は言葉少なだ。

「おめでとう」

 それは本当に、おめでとうなのだろうか。

「ありがとう」

 ささくれた心には無視をした。たぶん声は固かった。

 場は再び無言。どちらが口を開いても、危ういバランスは崩れてしまう。

「あれ、君たち……」

 お手洗いに立ったのだろう。佐井くんに名刺を渡した編集者がこちらにやってくる。

「すみません僕たちもう帰るので……」

 先手を打った、オブラート的な拒絶。

「え?」

 それは私の気持ちを代弁した言葉でもあった。

「ねえ、じゃあ作品の話、日を改めてでもいいから話をしたくて……」

「それなら、僕よりも適任がいるのでちょっと。例えば彼女の、書いている話。面白いですよ。モノクロランプにある、ランプのほうの話で」

「佐井くん」

 続きを声に出せないように。私は強い調子で名前を呼んだ。

 もう、いい。もういいから。

「ごめん、私、先に帰らせてもらうね」

 有無を言わせぬ調子だったので、佐井くんは反応できなかったらしい。

「あの、この人の書く話は、読んだ人を優しい気持ちにさせてくれると思います。だから、いい方向になることを願っています。……よろしくお願いします」

 糸を切ってはいけない。チャンスを潰してはいけない。佐井くんのフォローとばかりに沖原さんに頭を下げて、私はその場を離れた。できるだけ早く駆け足。

 階段を駆け下りた。息が苦しい。おなかが痛い。頭が痛い。喉が痛い。頬が熱い。

 勢いあまって転びそうになって、手すりをぎゅっとつかみ、息を整える。

 なんで腕は動いたんだろう。もういっそのこと、落ちて頭を打って、記憶をなくすことができたらいいのに。

「羽瀬川さん!」

 階段の上から叫んだのは、佐井くんだった。

 振り返らなくてもわかる。

 私は肩で息をしながら、その声から離れた。握りこぶしをつくって、手のひらに爪をたて、感情が溢れないよう壁をつくる。

「待って!」

 待たない。止まらない。逃げる。逃げる。

 そこだっけ。案内表示、元来た道を探り探りたどる。足がもつれる。そのたびに自分を叱咤。

 けれど逃げられなかった。

 当然か。万年文化部の私と、中高バレー部だった佐井くん。体力差なんて歴然としているのに。

「……っ」

 背後から腕をつかまれた。強い力で、無理に動けば関節が外れてしまいそうだ。

 逃げないとわかったからなのか、佐井くんは私を捕まえる力を緩めた。息が上がっている私に対し、元運動部の人は荒い呼吸をする気配はない。

「忘れ物、だよ」

 空いている私の左手に、リュックを持たせてくれる。

 そういえば、貴重品しか持って行ってなかったんだった。どじだ。

「……羽瀬川さんのやつ、売り切るから、置いて行ってね」

 ああ、まだ残っていた。見出されなかったほうの作品。

 二人で並んで販売していたのが、遠い過去の話みたい。

「いいよ別に」

「……あのさ、羽瀬川さん、僕」

「編集さんとの話、ぶっちするとかは言わないでね」

 唇を噛みしめる音が聞こえた気がした。

 なんとなく、だけれども。

 気を使ってほしくない。過度な謙遜はいらない。

「佐井くんの話は、本当に、人の心にぐっとくるから。多くの人に読まれるべきだと思う」

「それは羽瀬川さんの本心なの?」

 なんでそんなことを聞くんだ。

 ぐさっときた。これは私の本心だ。

 あんなの書けっこない。心に響いて、読み手の感情を揺さぶるのだ。

 同じくらい、私は悔しい。どうして私じゃないんだと。どうして見出されたのが佐井くんなんだと。

 それがとても、悔しくて、憎たらしくて、こんな自分を、見られたくなくて。

 なのになんで私の気持ちの揺らぎを、こんなにも簡単に感じ取ってしまうんだ。

「…………」

「僕は、羽瀬川さんのやつが読まれるべきだと思うのに」

 渾身の力で佐井くんの腕を振り払う。

 彼は心が揺らいでいることを感じ取っても、何を思っているかは、きっとわかっていないんだ。

「気休めはやめて」

「気休めなんかじゃ」

「佐井くんに、そういうこと言ってもらえて嬉しい。けど」

 言葉がすんでのところで止まる。

 佐井くんは黙って待っている。

「……だけど、それ、気休めにしか聞こえないよ」

 オブラートに包むことなく本心をぶつけた。

 だってそうだ。成功者の上からの慰めにしか聞こえない。こんなときに、うまくいかなかったほうがうまくいったほうに慰められて、言われたほうがどんな気持ちになるか、あなたはわからないでしょう。

「……それは、僕が編集さんに声をかけられたから?」

「そうだね」

 私はみっともなく嫉妬していることを認めた。

 向こうはあきれているのかもしれない。ただ、止めることができない。

 しばらくの間、息遣いだけがコミュニケーションになっていた。

「――もし、もし僕が」

 震えていたように聞こえたから、私の心は跳ねた。傷つけたかもしれないから。傷つけたと認めたくなかったから。

 声の調子からは、不安定に、あの佐井くんが不安定に思えたから。

「もし僕が、続きを書かなければ、羽瀬川さんは、そばにいてくれる?」

 振り返る。真っ向から見据えると、眉を下げて、視線が落ちた。

 私への問いかけだった。

 この人は、たくさんの物を持って、たくさんのものを得ようとしているのに。

 これ以上なにを欲しがっているのだろう。


「……ごめんね」


 うまく笑えただろうか。


 聞こえてきた自分の声は、驚くほど無機質だった。


「できない」


 立ち尽くしている佐井くんは、いつもみたいな笑顔でも、いつかみたいな仏頂面でもなかった。ただ、なにかが抜け落ちた感じがしていた。

「かばん、ありがとう」

 私はかばんを背負い、背を向けて、その場から去った。

 すごく、惨めだった。

 あんな人がそばにいたら、私は、自分の出来映えを嫌でも知ってしまう。

 私は私にしかなれない。私は佐井くんになれない。

 私は今のところ、どんどん進んでいく佐井くんの隣で肩を並べることはできないし、だからといって、笑顔で近くにいることなんかも、できない。

 予定よりも早く乗った電車は比較的空いていた。暖房も効いている。喉が乾いた。鞄を開き、家のお茶をいれてきたペットボトルを出そうと思った。

 見慣れないビニール袋がある。

 袋の中は、真新しい水のペットボトルだった。

 優しさが。重かった。五百ミリでは足りないくらい。


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