第10話 片道切符

 私は佐井くんに支えられて、エレベーターで地上へと降りた。

 ――そのあと、佐井くんと一緒に行った職員室で思いきり泣いてしまったり、話をしたり。先生たちは慌ただしく動いていた。例外的な措置として、私は追試験を受け、保健室登校と会議室での質問漬けと、学年主任の先生の家の寝泊まりという生活を少しの間続けた。

 難しいことはいつのまにか過ぎ去って、私はひとまず夏休みの間は施設で暮らすことになった。もらった夏休み課題と、持ってきた本で、慣れない生活を紛らわしていた。

 休みの間にはいろいろな手続きがされ、私は母方の親戚へ預けられることになった。慌ただしいながらも、学校の先生や、お世話になった職員さんにお礼を言って、わずかな荷物をまとめて引っ越しの準備をした。

 そして、あらかじめしていたお願いを、一つだけのわがままを叶えてもらうために、私は引っ越しの日をのばしていた。

 八月の移動図書館の巡回日。夏休みということもあって、柑橘広場は人でいっぱいだった。いつもより子供とその親が多くて、図書館の人も大わらわだ。遊んでいる小さな子達もいる。今から頑張れば、自由研究も読書感想文もなんとかなるだろう。

 私は何人か並んでいる返却カウンター列の最後尾について、きょろきょろと見回す。すぐにその必要がなくなった。

 人だかりから離れたところ。炎天下、佐井くんが、立っていた。

「…………」

 なんとも言えない表情を浮かべていた。目があってもそのまま近づいてくる。表情だけはいつもと違い、それ以外は自然な動作で隣にやってきた。

 微笑んでみても、前みたいに笑いかけてくれない。

「ごめんね。香月、行けないや」

 唇を引き結んで、佐井くんは黙っていた。 

私の転居先は市外だ。県内移動だけれど、距離があるので今の学区とは違う。佐井くんは私の転居先付近の高校を受験できないし、私も香月を受けることができない。一緒の高校に行くことは不可能だ。佐井くんもごたごたに関わってしまっているから、私が転校する程度のことは伝えられているはずだった。お互い現実の確認をするだけだ。

 順番がきて、借りていた本を返す。来月にはここにはいないから、もう借りることはできない。今月で期限が切れる貸し出しカードの更新も、しない。

返却手続きが終わり、脇にそれた。空っぽになってへにゃりとしたトートバッグをかけ直して、折り畳み式本棚の近くで、私たちは並んで立っている。伝え残しがないように、私はゆっくりと言葉を紡ぐことにした。

「……佐井くんと話してて、すごく楽しかった。物語に、救われた。あのときも、私を探してくれて、とめてくれて、話を聞いてくれて。……泣いてくれて、ありがとう」

 返事はなかった。かわりに、こちらを見ずに。右隣でごそごそと身動きをしている。

「…………これ」

 ぶっきらぼうに、四つ折りの紙と、小さなノートを渡される。受け取ると、力が抜けたように手が離れていった。

「あけても、いい?」

うなずきを見て、ゆっくりとくたびれたノートを開く。びっしりと字が書かれている。物語のようだ。畳まれた紙のほうを開くと、メールアドレスと電話番号、住所が書いてあった。

 佐井くんのほうに視線を移す。

「携帯、持ってないよね」

「……うん、持つ予定も、今のところない」

「じゃあ、住所わかったら、教えて。読みたいって思ったら、その続きを送るから」

「……ありがとう」

 折り目に沿って丁寧に、連絡先の書かれたメモを畳んだ。

 隣で息を吸う音がした。

「おすすめの本の話とか、引っ越した先の話とかも、よければ、教えて」

「わかった。手紙、書くね」

「……うん」

 言葉がみつからないのは二人とも同じだ。私は歩き出す。仏頂面の佐井くんに、どうしてもさよならを言いたくなかった。

 そのまま距離を取り、もう新学期から、来月から会えなくなるという事実から目をそらした。誤魔化した。

 さりげなく離れていく。いつの間にか名前を思い出せなくなる、そんな現象を期待している。手紙が途絶えて距離感に打ちのめされるくらいなら。思い出を永遠にしてしまえ。もしくはお互いに風化したらいい。

「…………羽瀬川さん」

 立ち止まる。

「僕はこれからも話がしたいから、手紙、待ってる。それと、書いた話を読んでくれて、本当に嬉しかった。羽瀬川さんも、これから書くなら、話、読ませて?楽しみにしてるから」

 振り返ると、真剣な表情があった。切れそうな糸を、メンテナンスし続けてくれるのだろうか。佐井くんの仕草からは、少なくとも向こうから関係性を絶ちはしないという決意が表れていた。

 ちゃんと、関係性を築けていた。形だけのお別れじゃなく、これからも、離れてもよろしくって言ってもらえるだけの。

「……うん、約束」

 固かった顔を柔らかくすると、相手も同じように、自然ではなかったけれど笑いかけてくれた。

 今度こそくるりと背を向けて駅のほうに歩いていく。広場の喧騒も遠くなる。

 振り返りたい衝動が沸き上がる。行動に移すのは抑えた。

 最後にみた笑顔を焼き付けて、徒歩五分の道のりをゆっくり確実に進んでいく。佐井くんとのこれまでを振り返っていたら、駅に着いた。右手に切符を握りしめ、左手にノートを持って、ホームで電車を待つ。目当ての電車はもうすぐだ。

 待ち時間にノートをぱらぱらとめくる。選択科目で書いたのとは、また別の話らしい。

 電車がやってきた。座席はまばらに開いていた。隅の席を陣取って続きを確認する。移動中の電車で、食い入るようにページをめくった。

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