第9話 いずこかへの階段をのぼる
エレベーターでぎゅいいんとのぼるのは、天に行くときと同じ感覚だろうか。意識を集中したら、今床に着いている足は、離れるのかもしれない。
佐井くんが住むのは、ファミリー向けの三十四階建て分譲マンションだった。このあたりでは憧れの的で、かつ一番高さがある建築物だ。そこのエレベーターで、一人上へ上へと昇っている。乗り込んでくる人は誰もいない。
到着のチャイムが鳴る。私は三十四階へと降り立った。エレベーターエントランスの窓を開けて、下を見る。
さすが最上階。柑橘広場にいる人が豆粒のようだ。吹き抜けてきた風が頬にあたる。私は非常階段の表示を探し、案内に従って足を進めた。
非常階段には全く人気がなく、人為的なごみもない。強いて言えば、枯れ葉がいくつかあって、やや埃っぽいくらい。光はあたらず、どことなく空気も冷たかった。
息があがる。久しぶりの外出で疲れてしまった。ずるずると座り込んで、独りぼっちだと確認する。ぺたんとついたお尻や背中はひんやりとして気持ちいい。目に見える世界には私しかいない。誰もこない場所。細く長く息を吐く。一息ついた。三時頃だった。
体力を回復したので、壁面の隙間からひょっこり顔を出してみる。マンション敷地の公園で、小さな子供たちが遊んでいるのが見えた。若干少ないかな、という印象を持つ。家で三時のおやつを食べている子供がいるのかもしれない。視線を下から上へと移した。
見渡す限り、世界は晴れていた。太陽の光が眩しかった。眩しくて、暑くて。いくら非常階段が日陰だといっても、これ以上はたぶん駄目だ。
私は勢いよく立ち上がる。つけていたマスク、被っていたキャップ、よれよれのパーカーを脱ぎ捨て、息を吸って、吐く。風が気持ちいい。
非常階段の壁に、手をついて、弾みをつけたときだった。
慌ただしい音が近づいてくる。なんだか騒々しくて、動きを止めてしまった。
さらにはこちらに近づいてきているみたい。……それはきっと気のせいだ。多分幻聴。気を取り直して続きをしよう。
「羽瀬川さん!」
なのに。まろぶように現れたのは、佐井くんだった。学生服はところどころ汗で透けている。手には私が返したノート。動きを止めた私を直視して、一瞬すくんだかにみえた。けれどすぐに近づいてきて、引き剥がされた。
私は佐井くんを巻き込むようにして背中から倒れる。佐井くんの体は火照っていて熱かった。
体から佐井くんの手が、腕が、離れていく。
「……なに、やってる、の」
私から離れた佐井くんは、私を起こしたあと、開口一番、私をみてつぶやいた。
答えられない。
「……なんで、なんで」
それだけしか言えない。
なんでここに佐井くんがいるの。私の問いに答えるように、くしゃりとしわになったプリントを目の前に突きつけられる。今日、佐井くんに返したノートに挟んだ紙。
「『佐井くんの話は、とても優しい世界だった。読んでいて楽しかった。ありがとう』。……家行っても様子がおかしくて、こんなの書かれてて、それで、なにもしないやつっている?」
「…………」
こんなに早く見つけられるつもりはなかった。
遺書がわりの最後になるはずだった手紙も、私自身も。
「…………心配、したんだよ。だから、家行ったんだよ。ちらっと、それが見えて、でもそこまでひどいとは、思わなくて」
私は口角をあげてみた。唇の端は切れていた。腕にはあざがいくつか。ノートを返したときに、気づかれたのかもしれない。あのときは普通に半袖のTシャツを着ていたから。
「私、失敗した?」
隠し続けることに。今の状況を変えることに。
そして、伝えたいことを正直に書いたことに。
佐井くんは、答えなかった。
「あのね、中間で若干順位下がったの。それで結構怒られた。それで、このまえね、模試あったじゃない。それで、ちょっと順位下がってね、高専のね、合格判定が下がったの。香月のもちょっと下がっちゃったんだ」
「…………羽瀬川さん、成績いいじゃん。いつも、学年十位以内でしょ」
それは嘘ではないから、あえて否定はしなかった。
けれど。
「なんかさ、いらないって。おまえみたいなできないやつはいらないって。よっぽどできるんじゃなきゃ女の子なんか中卒でいいんだって。十番以内なんか地域の公立なら入って当たり前だって。二十番になったら、ボロカス言われた」
通っている公立中学は、市内でも飛びぬけて偏差値が低かった。不名誉な評判は県内でも有名なほどらしい。確かに成績が足りず、公立高校に進学できない人が全八クラス中、三クラス分ほどはいる。だから進学を視野に入れ、お金に余裕がある家では中学受験をすることが当たり前だった。私は周囲から中学受験を期待されていたけれど家の経済状態からできず、公立に進んだ。
「大体高専って、志望校、香月の普通科じゃなかった?香月は文系のトップで、高専は工業系のトップだよね」
方向性が、だいぶ違う。暗にそう言いたかったのかもしれない。しかも、市内トップの香月はともかくとして、高専は県内でも有数の偏差値を誇る。うちの中学では学年トップでも落ちるかもしれないというところだ。
「そうだよ。高専は親が言ってる。五年行ったら大卒程度の資格が取れるし、専門的だから就職には困らないだろうし、学費も安く済むしね。高校三年、大学四年より二年少なくてすむから」
それはとても魅力的だと思った。頭では。
「高専も、アリだとは思ってる。私、ロボコン見るの好きだし、そういうのできたらいいなって思う。第一志望じゃないけど。……でも高専このままだといけそうにないし、手先が不器用なおまえは、どうせ美容師や看護士にはなれないから、もう中卒でいいんだって。手に職つけられなければとっとと働けって」
私の得意科目は文系に偏っている。もっというと、理系科目はやや苦手目で、手先も不器用だ。これは将来理系に進んだ時に致命的になるかもしれない。実際に模試でも足を引っ張ったのは数学だった。
ただそれ以上に問題がある。私の夢は技術者や美容師や看護師じゃない。理数系科目と手先の不器用の底上げは必須だし、細かい作業が現時点で務まるとは思えない。ただ、それ以上にどうしてもやりたいという志が持てないのだ。変に入学すると、本気で目指している人に対して失礼だ。才能と夢を持つ人にも、夢を持って苦手な分野を今から克服しようと努力する人にも。
「……そんなの、変だよ」
それには答えない。なにが変でなにが普通なのかもうよくわからなくなってしまった。
「私ね、勉強、結構好きだよ。やったらやっただけ、結果が出るから。でもね、そうでもしなきゃ、認められないから、私は認められないから。存在意義がなくなるから。結果を出して当たり前だし、出せないと、殴られるし、家の中ギスギスするし」
「…………」
「……今日、家きたからわかるよね?貧乏なの。お金ないの。早く働いてほしいんだって。なんか、できないやつにかけるお金はないんだって」
「羽瀬川さん」
「どうせ勉強しても将来使わないんなら意味ないし、家のことやれって言われるし、身体中こんなで夏服着れないし、なんか、なんかわかんなくて」
「もういい、もういいから」
「…………だから、ね、死にたくなった」
顔をあげると、佐井くんは泣いていた。この人は、どうして泣いているんだろう。
私が泣けない分、泣くのだろうか。
ぼんやりとしていると、そっと息を吸って、佐井くんが口を開く素振りを示した。
「…………死ぬのは、よくないよ」
当たり前のことを当たり前のように言われた。空虚な言葉だった。
それは、死にたくなるほど辛い人に言われたからではないから。
心配してくれているとは、感じられるのだけれど。留まるには弱すぎる。
「……どうして?」
「続きが、読めなくなるよ」
私が知る限り、初めて聞く理由だった。
「………続き?」
時間をかけても咀嚼できず、真意を聞いた。この人は、わからないことを聞いても優しく答えてくれるから。だから私は安心してわからないと言うことができる。
「羽瀬川さんが楽しみにしてる『タラ・ダンカン』シリーズ、連続刊行予定だけど、完結まであと十年くらいっていわれてるよね。それ、読めなくなるよ」
「……」
「読みたかった本、全部読んだ?続きが気になってるもの、ない?全部悔いなく、やり残したこととかも、全然ない?」
「…………」
思い返したのは、柑橘広場だった。
予約を入れて、取りにいく手筈の本。
先月借りて、返していない十五冊の本。
毎月の楽しみだった、柑橘広場の佐井くんとの会話。指折り数えて待った、移動図書館の巡回日。しんどいことをすべて吹き飛ばしてくれた、週に一回の選択科目。
「死んだら、できなく、なるよ」
紛れもなく、伝わってくるのは本心で。それなら私を引き留めたのは、佐井くんの言葉。
「………………それは、困る、な」
佐井くんが息をのむ。
泣けなかった私が泣いたからだろうか。
「佐井くんの書いてた話、まだ、完結してないよね。きりのいいところで終わってる。でもあれ、続きがあるでしょう?」
私の問いに、佐井くんは勢いよくうなずく。
「それを、読まないと。続きを書いてもらって、読まないと、幽霊になって、成仏、できないかも……」
本当に。続きが気になって、でも諦めたふりをしていた。
向こうは涙をぬぐう。
「……書くから、生きて、くれる?」
静かな調子で、さらりと大きな交換条件を言われた気がした。自然と口角が上がっていく。改めてはかり直せば、天秤はどんなふうに動くだろう。
「書いてくれるなら、頑張る」
まだ好きなものは残っているから。気になることがある限り、私はまだここにいようとするかもしれない。
私のおおよそ前向きな言葉に、佐井くんは鼻をすすった。
「書く。読んでくれて、それを楽しみにしてくれるならいくらでも書く……。でも…頑張らなくても、いいから」
ガンバラナクテモイイ、というのは、なんだろう。
期待しないから、という意味合い?それにしては、冷たさを感じない。
「助けてって、まわりに言って。死にたくなったら、助けてって言って。一人でいなくなる前に。生きてて、ほしい」
死ねと言われたことはある。生きてと言われたのははじめて。
「……誰かに相談したら、高校、行けなくなるかもって、思った」
例えば離婚。母子家庭で生活はきつく、勉強の暇なくバイト漬け。
例えば心中。プライドの高い父親が醜聞を恐れて家族みんなで。
もしくは施設。あるいは就職。普通の高校生に、なれないかもと思うと、我慢したほうが得じゃないかと、そんなふうに考えていた。
「……死んじゃったら、高校どころじゃ、ないよ。高校、行けるよ!そりゃ僕は、話を聞くしかできないかもしれないけど、先生とか、警察とか、助けてくれるよ……!」
ただの中学生なのに、同い年なのに、このときどうしてだか、とても説得力があると感じた。
「いい、の?」
「……え?」
「つらい、しんどいって、いって、いいの?」
心からの疑問に、また佐井くんは、目元をこすった。
「助けてって、いうのは、悪いことじゃないよ。困ってるときに助けてもらうのも、そうだよ」
「そう……」
佐井くんの言うことが本当なら、なんて暖かい世界なんだろう。
私の中で広がる世界。
「僕は、本の話をもっとしたいから、羽瀬川さんに、生きててもらわないと、困る」
ただ存在していてもいいんだと許される。
「……じゃあ、生きなきゃ、ね」
誰かに必要とされていることが、こんなにも尊いと知る。
生きてみたい理由になる。
「ね。……香月、一緒に行こうよ」
誰かと一緒に何かを目指すって、私はそれを望んでもいいのだろうか。差し出された手をとってもいいだろうか。
私の疑問に答えるように。涙のあとを残して、同級生の男の子は笑った。
「……がんばる」
私も同じように、真似をして、笑いかけた。
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