龍宮寺 姫の見た世界
始め、それが誰なのかわからなかった。綺麗な金髪が乱れるのも構わず、眼帯がずれているのも気付いた様子もなく、ただただ堀田さんは、グラウンドを血走った目で見つめながら模写を続けている。
大野先輩に連れられてきたのは学園内の、なだらかな斜面。昼食時は賑わいそうだが、今は当然授業中のため、人はいない。それでもこの場所に堀田さんが来たのは、この位置ならグラウンドが一望できるからだろう。
「……どうして? どうして、あの人なら、描けるの?」
目にクマを作った堀田さんは、ブツブツとそう言いながら、一心不乱にキャンパスノートへある人物をデッサンしていた。堀田さんは、自分たちが近づいてきた事にすら気づいていない。ノートを覗き込むと、そこには他の男子生徒と一緒に走る、先輩の姿があった。
「――トニー」
「……え?」
大野先輩が声をかけると、堀田さんは焦点の合っていない目で、こちらを見つめた。そして、自分たちに今描いている絵を見られていると気付いた瞬間、堀田さんの顔が、熟れたトマトの様に真っ赤に染まる。
「……お、大野、先輩! こ、これは、あの、ち、ちが、違くって!」
「――いいの、いいのよ、トニー! 隠さなくっても! 大丈夫、大丈夫だからっ!」
悪気なく花瓶を割ってしまった現場を見つけられた子供の様に震えている堀田さんを、大野先輩が優しく、そして力強く抱きしめた。
「――ごめんなさい。こんな風になるまで放っておいて。トニー、あなたら、私と同じ目的でこの場所にたどり着いたあなたなら、ひょっとしたら一人で乗り越えられるんじゃないかと思っていたの。でも、私が間違っていたわ!」
「……せ、先輩?」
「ど、どういう、事?」
大野先輩の言葉に、堀田さんは困惑顔になる。自分も、戸惑っていた。
……お、大野先輩も、堀田さんと同じ目的でここに来ていたの?
「――トニー。あなたは、瑞々しいタッチで今まで見事な絵を描いていたわ。でも、ある時を境に、男性の裸体しか描けなくなってしまった」
「……ち、違います!」
「――「羊飼いパリス」に、「メルクリウス」と「イバラの冠を戴いたキリスト」。あなたが以前模写したものよ。龍宮寺さん。これらの作品の特徴、『魔王』のあなたなら言えるわよね?」
突然話を振られて戸惑うも、自分は何とか頭の中で単語を繋ぎ合わせて、言葉を作る。
「え、えっと、どどどどれも、美しい作品だと、思います。う、生まれたままの姿に近い、だだだ男性の肉体美が、と、特に美しい作品だと、思います」
「……そ、それは――」
その先の言葉を、堀田さんは続ける事が出来なかった。
目は口ほどに物を言う。
いや、この場合、表情は口ほどに物を言う、が正しいだろうか?
顔面蒼白になったその表情が、大野先輩の言葉が正しいという事を、言葉に出さなくても告げている。
堀田さんはその美しい両目に一杯の涙をたたえながら、懺悔するかのように大野先輩の前へと跪いた。
「……先輩、私、呪われてしまったんです。美術館に行った時から、寝ても覚めても、だ、男性と、男性を結び付けて考えてしまって。そんな、いけない事だってわかってるんです! 汚らわしい! 頭ではわかってる! でも、やめられないんです! 止められないんです! この眼帯を付けた時から、付けてから、いい絵が描けるようになって、自分以外の力に頼ってしまったからっ!」
「そ、それは、ただの中二病なんじゃない?」
「……あの時だって、そうなんです!」
自分の言葉は堀田さんに届かず、彼女の慟哭は続いていく。
「……助けて、貰ったのに。転びそうになったところを。何の、私、あの人の事で、頭がいっぱいで」
……え、え? あれ? それって、ももももしかして、先輩と最初にあった、あの日?
「……あの人に、狼谷先輩に支えられた時の力強さが、肉感が、頭から離れないんです! もう狼谷先輩と別の男性の絵しか、私、描けなくて、だから、ここに来ては描いて、描いて、私、狼谷先輩の肉体美しか描けませんっ!」
「え、えええええええっ!」
……そ、それ、もうスランプの原因、殆どせせせ先輩のせいじゃーんっ!
最初は美術館に行き、男性の肉体美に取り憑かれてしまったのかもしれないが、今の現状を作り出した最後の一手は先輩のような気がする。
酷いマッチポンプに頭がフラフラしてきたが、そんな自分をよそに、大野先輩は力強く堀田さんの手を取った。
「――超わかるわ、それっ!」
「……先輩?」
「――いいの。私はあなたの全てを肯定するわ、トニー」
そう言って大野先輩は、美術室から持ってきたタブレットを起動。自分にも見せた、あの画像を表示させる。
「――さぁ、見なさい、トニー。これは、私が描いたものよ」
「……大野、先輩が描いた?」
そう言って堀田さんは、興味深そうにタブレットを覗き込む、が、直ぐに悲鳴を上げ、両手で顔を覆った。
「……な、なんてものを私に見せるんですか、大野先輩! こんなの、狼谷先輩に申し訳ないです! いけない事なんですよ」
「――まだまだあるわよ。ほら、狼谷×喜李心くんよ」
「……きゃーっ! ダメ! ダメです、大野先輩! 汚らわしいっ!」
「――こっちがリバの、喜李心くん×狼谷」
「……きゃーっ! ダメです! 私、こっちの方が好きですーっ!」
「み、見えてるの?」
思わず突っ込んでしまったが、悲鳴を上げる堀田さんをよく見ると、顔を覆った手の指と指の間は二センチほど離れており、つまりは大野先輩の描いた絵をガン見していたのであった。
暫く騒いで体裁を保っていた堀田さんだったが、やがて観念したのか、大野先輩からタブレットを受け取り、血走った目で全力で画像をスライド表示させている。
……み、見るスピード、ははは早すぎるよーぅ!
そんな堀田さんに擦り寄るように、暗い笑みを浮かべた大野先輩が、そっと耳打ちをする。
「――聞いて、トニー。日本が男性と男性の恋愛に触れたのは、遥か昔の、唐の時代とも一説には言われているわ」
「……と、いう事は、まさか空海が日本に持ち込んだ? そ、そうか! 女人禁制だったからっ!」
「――そう。やがてその文化は貴族、そして武家社会にも大きな影響を与えていったの」
「……つ、つまり、大野先輩はこう言いたいのですか? 日本の歴史は、男色の歴史である、と」
「――ええ、その通りよ、トニー」
「だ、断言したっ!」
一部は間違っていないかもしれないが、一部は間違っていそうなその物言いに、堀田さんは詐欺師に心を開いていく被害者の様な表情を浮かべている。堀田さんの名前と容姿からわかる通り、純粋な日本人ではない。ヨーロッパ系のクオーターだと聞いているが、今間違った日本文化が海外に伝わりそうな現場を、自分は今目撃しているのかもしれない。
「――近年、このジャンルはBLと呼ばれ、今では日本市場は数百億円を超える超巨大なマーケットに進化したわ」
「……世界の経済市場を、BLが支えてるんですね、大野先輩!」
「――BL、やおい。いい方は色々あれど、私はかつて同人作家たちの間で称そうとした名称を、美しく感じるわ」
「……そ、その名称とは?」
「――『お耽美』よ、トニー」
「……お、お耽、美」
大野先輩の言葉を聞いた瞬間、堀田さんの表情が、まるで憑き物が取れたかのように明るくなる。それは天使ガブリエルから、イエス・キリストの誕生を告げられた、マリアが浮かべていた時の表情なのかもしれない。しれないが、何故この会話の流れでそんな純粋で透明な涙を堀田さんが流せるのか、自分にはさっぱり理解できなかった。
「――いい? トニー。内に秘めるだけではだめなの。自分が邪だと思っている感情すら受け入れ、そしてそれを吐き出すのよ!」
「……わかりました、大野先輩」
「――声が小さい! もっと表現して!」
「……わ、わかりました!」
「――もっと欲張って! 一緒に行きましょう! 新世界へっ!」
「……わかりました、大野先輩っ!」
「た、助けてー! 先ぱ、もが-っ!」
会話が異次元過ぎて、自分はたまらずグラウンドを走っている先輩に助けを求めた。だが、その言葉が届く前に、大野先輩と堀田さんに取り押さえられる。何故?
「――何をしているの? 龍宮寺さん。あれは眺めて尊ぶべき存在なのよ?」
「……そうです。尊い、いえ、むしろ尊過ぎて儚い存在なんですよ? 呼ぶときは私たちの準備が整ってからにしてください」
「な、何であ、あたしが悪いみたいな扱いになってるんですかーっ!」
堀田さんは内に抱えた悩みをBLに爆発させることでどうにか解消出来そうになった、つまり『決戦』は無事取り下げられそうになっているのだが、自分のこの扱いだけは正直納得が出来なかった。
……だ、大体先輩、今回ほぼサポートしてないじゃないですか! 後で文句言ってやるぅ!
そう思っていると、背後から声を投げかけられた。
「ひ、姫ちゃん? こんなところで、何やってるの?」
呼ばれた方に振り向けば、そこには元気印なお団子ヘアーの少女が立っていた。
「め、めぐみちゃん! たたた助けて! この人たち、怖いですぅ!」
「この人たち、って、あら? トニーちゃん、またここにいたの?」
「ほ、ほぇ? また来てた? めめめめぐみちゃん、堀田さんがここに良く来てたの、知ってたんですか?」
「へ? うん。テニスコートからも、ここは良く見えるからね!」
その言葉に、怖気が走った。
……せ、先輩は、それで帰り際、めぐみちゃんとあ、あたしに仲良くしておけって言ったの?
堀田さんは、BLに出会った事で悩みが解消された。
では、もし大野先輩がBLに興味がない、もしくは堀田さんが何処にいるのか知らなかった場合、堀田さんの悩みは解消しただろうか?
……し、しない。だって、堀田さんは自分が先輩の絵を描いているのを目撃されて、ななな悩みを打ち明けられたんだから。
自分も堀田さんがキャンパスノートを落とした時、何が模写されていたのかは知っていた。何せ、その場にいたのだから。そして、それがどんな特徴なのかも、自分は知っていた。
……つ、つまり、堀田さんとあ、あたしがこの斜面で出会うための条件を、先輩は整えていた、って事?
大野先輩経由でこの場にたどり着かなくても、めぐみちゃんと仲良くしていれば、必ずこの場所にたどり着ける。
……お、おあつらえ向きに、めめめめぐみちゃんも、最近BLに興味が出てきたって言ってたし。あ、あたしが堀田さんの悩みに気づける土壌は、すすす既に揃ってたんだ。
あの先輩は、一体どこまで見通した発言をしているのだろうか?
それとも、『魔王』を務め切り、隠居生活を送る頃には、自分もその領域に到達しているのだろうか?
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