4 籠城の準備


 犬神は、額に溜まった汗を拭った。職員玄関を机で埋める作業に没頭していて、気付くと、外はすっかり夜霧が立ち込めている。

「終わりましたか」

 振り向くと、村田が皮張りの大きなソファーを押していた。おそらく応接室にあったものだろう。

「それも使うの?」

「あ、いやこれは違います」

 村田は照れ臭そうな顔を浮かべる。

「これを寝具にするんですよ」

 そうか、と犬神は気付いた。学校から出られない以上、ここに泊まるしかないのだ。

村田からは、僅かに高揚感のようなものを感じた。それこそ合宿や修学旅行を楽しむ様な。わからないでもなかった。

「部長、今は元気そうですけど、万が一って事もありますから。今はきちんと養生して貰わなきゃ」

 優しいな、と思わず感嘆を漏らす。

「いえ、部長には世話になってますから」

「そうか……」

 犬神は頷く。こちらも一通り終えたので、昇降口の方に向かった。

 昇降口のドアは、ロッカーが横倒しになって出口を塞いでいる。その後ろには机や積み上げられており、入る事も出る事も不可能になっていた。黒木は傍にある階段に腰を掛けている。

「あれなら外の様子も見れるし、便利だろう」

 黒木は言って、立ち上がる。犬神も現状を報告した。

 廊下の向こうから、ビデオカメラを肩に担いだ草野がやってきた。レンズを昇降口や犬神たちに向けている。何のつもりだと黒木が問うと、撮影ですと草野は答えた。

「POVスタイルって知ってますか。こうやって個人が撮影しているビデオカメラが、実際の映画の視点になるんです。擬似ドキュメンタリーというやつですね。といっても、これはノンフィクションな訳ですが」

「それは何かの記録のつもりか?」

「正確には映画です。俺は監督であり、脚本であり、カメラマンなんです」

 草野は微笑を浮かべると、何か喋って貰えますかと言った。黒木は呆れた表情をしてから、カメラを覗き込む。

「俺なんか映すよりも、外に出た方が面白いものが撮れるんじゃないのかい?」

 言外に、余所に言ってくれという意図を犬神は掴んだ。知ってか知らずか、草野は笑顔を湛えている。

「いずれは外に出るつもりですよ。ただ、今は登場人物を紹介しなきゃいけないじゃないですか。いわば触りです。日常のシーンをしっかりと描いておくのも、ホラーの定石ですから」

「前から気になっていたんだが」

 黒木は苦笑を浮かべる。

「あの手の映画は、最後の方までカメラマンが残るだろう。あれは展開が読めちゃうんじゃないのか?」

「そうしなければ、映画が終わってしまいますからね。視点の終わりとはすなわち、その幕引きを意味します」

「しかし、これはお前の好きなホラー映画じゃない。現実で起きている事だ」

 草野は含みのある笑いを浮かべ、去っていった。

「気味の悪い奴だ」と黒木は吐き捨てる。

 犬神は喉が渇いていた。傍にある自動販売機に歩み寄り、財布を取り出す。こんな状況になっても、飲み物を買うために小銭を入れているのが滑稽だと思う。黒木の分までジュースを購入し、一本を彼に渡した。

「いいね。自由の味だ」

「自由というよりは、囚われている気がする」

 犬神は呻いて、タブを開けた。

 ――そう、囚われているんだ、僕達は。

 

 全員、二階で眠る事になっている。一階で眠るのは危険だと判断したためだ。男女で二つの教室に分かれる。

 村田が運んできたソファ―は二つしかない。年功序列ということで、黒木と安藤が薦められたが、黒木は断った。

「俺は外の見張りをしておきたい。あいつらが中に入って来るかもわからない」

「俺も手伝いますよ」

 機材を部屋に運んでいた草野も手を挙げた。「それに」

「安藤先輩がいつ変容するかわかりません。寝首をかかれる可能性はありますから」

「あ、あんた……」

 村田が気色ばんだ顔で言いだそうとしたが、安藤が抑えた。

「いいんだ、気にするな。こんな事態なんだ、疑心暗鬼になるのは仕方ないだろ」

「でも――」

「俺はくたばらない。あの化け物にもならない。もしそうなるのがゾンビ映画のセオリーってんなら」そう言って安藤は微笑む。「俺が破ってやるさ」

「そうだ。その意気が大切だ」と黒木。

「痛まないのか?」

「いいや、全然。ピンピンしてる」

 安藤は見せびらかす様に、左腕を出す。その瞬間、彼は大きく咳き込んだ。草野はお手上げ、というポーズをとる。

「だ、大丈夫ですか?」

 村田が蒼白な顔色で駆け寄る。安藤の目は充血し、涙が溜まっていた。

「いや……平気だ。煙草の吸い過ぎだな、こりゃ」

 苦笑を浮かべる彼に、草野以外の全員が安堵のため息を吐く。

「僕も、床で寝る」犬神が口を挟む。「というか、眠れないと思うし」

 結局ソファーは安藤と村田が使う事にした。

「悪いけど、もう俺は眠らせて貰うよ」

 安藤はそう言って目を瞑る。村田も疲れたのか、ソファーの上で横になる。

「では、俺達は武器調達といきますか」

 草野が仰々しく言う。黒木は渋々頷いた。

「そうだな……。出来れば奴らと事を構えるのは避けたいが、用意しておく事に越したことはない」

 校内は、まだ通電しているらしい。電気を点けると、洞窟の様に薄暗かった廊下に明かりが灯る。人工的な光は壁を白く濡らした。

「部室棟に寄るだけなら、外に出る事はありません。渡り廊下を使うだけですから」

「よし、まずは部室棟に行こう」

 草野に案内されるようにして、三人は部室棟に向かう。その二階。運動部系の部室がずらりと並んでいた。

「武器になりそうなものを探すんだ」

「家庭科室とかにも、良い物は揃ってそうですがね」草野が意見を出す。「特別教棟にありますから。これが終わったら、後で寄ってみますか」

「なるほど、良いかもしれない」

「……包丁みたいな刃物は、まずいんじゃないかな」

 やりとりを眺めていた犬神が、口を出す。

「取り扱いが危険だし、怪我をするかもしれない。それに、これが一番重要だと思うんだけど……。いくらゾンビだからといって、人の体に刃物を刺すのは、どうだろうか」

「確かに……躊躇するな」

 黒木は呻く。

「ゾンビと戦う事にしろ、撃退が目的であって、殲滅じゃない。それは肝に銘じてほしいんだ」

 犬神はそれだけは譲れなかった。嬉々として積極的に彼らを殺す事は、それは正当防衛の名を借りた人殺しだ。彼らは、同じ年代であり、共に学業を共にしてきた筈だ。例え、自分自身が編入してきたばかりだとしても。

「まぁ、確かに刃物は不適当ですかね」

 草野は顎に手をやる。

「ゾンビの急所は頭ですからね。刃物で心臓を刺したところで、何にもなりませんし。素人の俺らじゃ、首を切断するのも難しいですしね。潰すだけなら、バッドで事足りる。包丁の場合、刺しても抜けないという可能性もある」

 どうやら、違う面で納得してくれた様だ。

「やれやれ」と黒木は苦笑する。

「こりゃ本当に映画みたくなってきたな」

 野球部の部室に入る。鍵は既に草野が職員室から入手していた。開けると、埃っぽい臭いが鼻先をかすめる。くしゃみを誘う様な調子だった。

 部屋の中は強盗が入ったように散らかっていた。草野が荒らしたせいだろう。犬神はバッドを握った。握ると、少しばかり緊張がほぐれた。安心感が出たのだとわかった。

草野は虫除けスプレーを持っている。何に使うのかと聞くと、彼はライターを取り出した。火を点けるとスプレーのノズルに持っていき、ガスを噴出する。緋色のエネルギーが宙を焼き、犬神の頬を一瞬熱くさせた。

「インスタント火炎放射機です」

 今度は黒木が陸上部の方から、砲丸と鉄アレイを持ち出してきた。中身の詰まった段ボールを床に下ろす。

「上々だな」

 

 やがて深夜になった。

隣に眠っている村田を見やる。安らかな寝顔でいびき声まで出している。あれだけの事が起きたというのに、こういう時だけは緊張感がまるで無い様だ。そこが可笑しくもある。安藤は左腕を摩っていたり咳き込んでいたが、今では舟を漕ぎだしている。

「ただいま」

 ドアが開き、バッドを握った黒木が顔を出す。廊下の光が漏れ出して、犬神は目を細める。携帯電話で時間を確認すると二時を過ぎている。見張り交代の時間だ。

「なんだお前、寝てなかったのかよ。起こしてやったのに」

「眠れないよ、普通は」

「まぁ、そうかもな」

 黒木は息を吐く。

「一緒に居た草野はどうしたの?」

「さぁな。撮影とやらじゃないのか。戻る頃には消えてた。別に、一人にしてもあいつなら平気だろう」

 犬神はバッドを受け取り、黒木と入れ替わるようにして廊下に出る。蛍光灯の光が眩しかった。

「じゃぁ三十分後に」

「ああ、気をつけろよ」

 別れて、犬神は一階に下りる。当たり前だが、学校は静まり返っていた。此処に居るのは、死者ばかりなのだ。

 今頃家族はどうしているのだろう。暢気な両親も心配しているに違いない。自分より出来の良い妹はどうだろうか。こんな時間まで家に帰って来なかった事は無いし、無断外泊だって経験が無かった。警察に連絡しているだろうか。学校は霧によって孤立している。出る事は出来ない。とてもじゃないが、警察や何やらがこの場所まで来てくれるとは思えなかった。来れるとすれば、とっくに来ている筈だからだ。何かの大いなる力が働いているのかもしれない。

 窓の施錠を確認し、昇降口に向かう。どこも異常は無い。霧は闇を吸って暗色に変わっていた。死者の姿は見えない。

 ――あいつらも寝るのかな。

 そんな言葉が脳裏をよぎった。今度は職員玄関に足を運ぶ。ガラスケースの奥に、トロフィーが幾つも仕舞われていた。前の学校では、バドミントン部の表彰盾が幾つも飾られていた。ここには一つも見当たらない。

 犬神はふと思い立ち、部室棟に向かった。場所はもう覚えている。バドミントン部の部室を開けて、ラケットを取り出した。備品であるため、ラケット自体は安物で性能も低い。だが、今は何でもよかった。廊下に出て適当なスペースを確保すると、素振りを始める。眠れなかったりすると、犬神はすぐに練習を始める癖があった。もう辞めたにせよ、手放す事の出来ない習慣なのだ。

 誰かの視線を感じて、動きを止める。見ると、幽霊の様に川本が立っていた。黒く澄んだ髪が揺れている。弓道部の部室から出てきたようだ。左手で弓を持っているのだが、右手は手袋のようなものが填められている。弓を引く時に必要なものかも知れない。

「何で止めるの?」

 彼女の口から予想だしもしない事を言われて、戸惑った。

「いや……もう辞めたんだ、これは」

 言って、ラケットを立てかける。イタズラが見つかった子供のような気分だ。何故か恥ずかしくなってしまう。

「ここに編入してからはもうやらないつもりだったんだ。別に、未練が残っている訳じゃなかったのに」

 川本は目をしばたたかせる。長い睫毛がゆっくりと上下した。

「どうして転校してきたの?」

「え?」

「転校の理由」

「父親の……仕事の都合で」

「月並み」

 犬神は苦笑いを浮かべた。

「ああ……でも、本当の事なんだよ」

「ホントは、嫌になって逃げ出してきちゃったりして」

 川本はそう言って、微笑む。彼女の笑顔を、初めてみた気がした。

「いや、ベタ過ぎかな」

 そして踵を返し、階段を下りていく。辻斬りにあった気分だった。

 不意に、あの時の光景が脳裏に広がった。遅れるな、落ちこぼれるな、とまるで洗脳のようにラケットを振っていた日々。コートに入る度に震える手足。そして、自分を嘲笑うかのように射る冷たい視線。

「そうだね…………さすがにそれは、有り触れている」

 ――でも、本当の事なんだよ。

 

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