3 外に出てはならない


 黒木は、校内に残る人間を探していた。まだ現状を知らない彼らに、今起こっている事を伝えなければならない。これ以上の犠牲者が出る前に、何としてでもだ。

 しかし、校内は人気が無かった。ほとんどの生徒は下校して、あの化け物になってしまったのだろう。自分も早く外に出ていたら、あのような姿になっていたのかもしれない。そう考えると、自分は運が強いのではないかと思う。

 三階に上がると、そこで初めて話し声が聞えた。その教室のドアを開くと、ひと組の男女が居た。一つの机に向かい合って、何か喋っていた様だ。突然の闖入者に二人は振り返り、唖然とする。

「あの……何ですか?」

 黒木がじっと見つめていたので、男子の方が怪訝に声を上げる。やはり、まだ外の事態に気づいていないらしい。

「ここは、君達のクラスか?」

 教室には二年A組と書かれている。そうです、と男子は言った。

 さて、何と言えばいのだろう。黒木は口を開いたが、言葉にならない。ありのままを伝えようとしても、信じてくれないだろう。馬鹿げた話だと一蹴されるに決まっている。結局の所、自分の目で見てもらうしかないのだろうか。

「外には出るな。死人が出たんだ」

「え……」男子は絶句する。

「誰か自殺したの?」

 聞いてきたのは女子の方だった。黒木は迷ったが、こう答えた。

 ゾンビが居る、と。

 

 ※

 

 村田は、新聞部の部室へと向かっていた。

 ――部長。

 安藤は怪我をしていた。噛まれたと言っていた。ならば、考えられる原因は一つしかない。

 ――あの化け物だ。

 安藤は霧の中で襲われたに違いない。だが彼は軽傷で済み、事の重大さに気付かなかった。校内に無事戻って来られたのは、幸いと言えるだろう。

 無事だろうか。いや、そうに決まっている。ただ腕を噛まれた、それだけだ。それだけで人間が死ぬはずが無い。そんな筈は……。

 勢いよくドアを開ける。

「うわっ!」

 声を上げたのは安藤だった。部屋にはヤニくさい臭いが充満している。彼の手には煙草があった。

「ば、馬鹿。脅かすなよ、先公かと思ったぜ」

「部長、無事だったんですね」

 安藤はきょとんとしている。顔色は悪く無い。

「というかお前、取材はどうした。もう終わったのか」

「良かった……」

 村田は安堵の溜息を漏らす。そうだ、死ぬ訳が無い。不安を募らせていた自分を自嘲する。そして、ゆっくりと顔を安藤に向けた。

「大変な事が起きているんです。これは凄いネタですよ」

 

 ※

 

 職員室の隣にある会議室。普段は教師達が集まり、成績不良者や態度に問題のある生徒につて、話し合いが行われる場だ。ちょうど教室ほどの大きさで、中央には長テーブルがあり、椅子が囲まれている。

 五時半を過ぎている。学校残っていた生徒たちが集結していた。

 犬神は席に着くと、同じように座る生徒達の顔を見渡す。自分も含めてその数は九人。知らない顔が新たに三つ増えていた。一組のカップルと思わしき男女。黒木が見つけて連れてきたらしい。他には金属バッドを持った男子。どちらも二年生だ。もちろん前に遠目で見た安藤も参加している。腕に湿布が貼られているが、特に具合が悪そうでは無い。

「みんな集まってくれたな」

 黒木がそう言って、窓の霧を睨んだ。

「見ての通り、霧が出ている。俺は三年間ここに通ってきているが、こんな濃い霧は初めてだ。――尋常じゃない。そして……」

「あの」

 話を遮ったのは、二年のカップルだった。男子は青田というらしい。その横に居る青田の彼女は、横井亜紀といった。

「なんで、こんな所で集まっているんですか? なぜ俺たちは帰れないんですか」

「そうよ。あたしたちは関係ないじゃない」

「だから今、順を追って説明する」

「霧が出ているから帰れないって? そんな馬鹿な」

「見てみろ、携帯は圏外が表示されている」

「そんなもの、電波の調子が悪いだけだ。問題じゃない」

 青田は嘲り笑う。黒木は息を吐いた。

「――それだけじゃないんだ」

「さっき教室で聞きましたよ。ああ、ゾンビでしたっけ。あいつらが、霧の中に居て俺たちを食おうとしていると?」

「そうだ」

「原因は何ですか。地獄の門でも開きましたか?」

「――わからない」

「馬鹿馬鹿しい」

 青田は一蹴する。

「付き合っていられない。皆さんもそう思うでしょう? それとも、この人の話を信じようっていうんですか?」

 誰も居ない劇場に向かって叫んだように、青田の声は浮いて消えた。誰も反論しない。出来ないのでは無く、それは黒木の主張の肯定を意味するのだ。意図をくみ取ったのか青田は、苦笑いを浮かべる。

「……冗談だろ。俺達は帰らせて貰いますよ」

「好きにすればいい」

 低い声が部屋中に響いた。全員がその声の主に振り向いた。犬神は最初安藤かと思ったが違った。金属バッドを持った男子のものだった。彼は注がれる視線の多さに気付いて、慌てたようにおどけた顔をした。

「いや、すみません。つい本音が」

「君は、名前は何て言ったかな」

 黒木が質問すると、彼は爽やかな笑顔を見せる。

「あ、いや、はは。草野といいます。よろしく」

「小泉から聞いたよ。襲われていた所を、助けたんだって?」

 本人の小泉は俯いている。草野は照れ臭そうに頭を掻いた。

「そうです。佐藤美香さんと言いましたか。彼女、甦っていましたから」

 カップルが顔が不審気に見合わせる。バッドは血濡れていた。佐藤の血だろう、と犬神は鳥肌が立った。それは鮮やか過ぎた。しかし、腑に落ちない事を見つけ、口を開く。

「甦った? 佐藤さんは……殺されて死んだ筈じゃ」

「ゾンビに噛まれた者はゾンビになる。これはホラー映画じゃ常識です」

 草野はそう言って、安藤を見やる。安藤は、湿布の貼られた左腕をすぐに隠した。

「彼女はゾンビに噛まれて死んだ。だから感染するようにゾンビになったんですよ。いや、それだけじゃない。例え傷は浅くても、一度噛まれたらもう助かる事は無いんです、絶対に。必ずゾンビになって人を襲う。友人でも家族でも、関係無くね。彼らには既に理性だとか知能だとか記憶は一切無いんです」

 安藤の喉仏がゆっくりと上下する。

「……映画の見過ぎだぜ」

「そうですね。よく言われます」草野は笑って、青田の方を見た。「信じられないなら、俺が始末した死体を見せてやる。一階の女子トイレに置いてあるからな」

「……いや、遠慮しておく」

 蚊の鳴く様な声で、青田は返す。

「あん、何だって?」

「もう沢山だ!」

 テーブルが強く叩かれる。青田は席を立った。部屋の中は冷たいのに、彼は汗をかいていた。

「知らない……知ったことじゃ無いよ……。そっちの問題だろ、そっちで解決すればいい。俺には関係ない。俺は、家に帰るんだ……」

 その声はうわずっている。今まで生きてきた日常が崩壊していく。それに耐えられず、意地でも信じようとしない。目を向けようとしない。犬神には、その気持ちが少しわかる気がした。

「亜紀、もう出よう。時間の無駄だ」

 しかし横井は振り向かない。顔を下に向け、無言を決め込んでいる。

「おい……まさか、お前も」

 彼女の肩に手を置く。

「信用しているのか? ただのホラ話だ! こいつら全員グルになっているんだよ。俺達を騙そうとしているんだ。そうに決まっている」

 彼女は青田の手を払った。青田は、顔を歪めて震わせていてが、諦観したように呟いた。自棄になっている声色だった。

「そうか、そうだよな。ついさっき縁を切ったばかりだしな。もう関係ないよな」

 犬神は、耐えられず口を開いた。

「考え直せよ。いま外に出るなんて、正気の沙汰じゃないぞ」

「よせ、無駄だよ」

 隣の黒木が首を振る。

「あいつは考えを改めない」

 青田は鞄を掲げて部屋を後にする。犬神はそれでも引き留めようと、席を立つ。だが、驚いた事に立ち上がったのは全員だった。すぐに、彼を止める訳ではないという事に気付いた。皆は見たいのだ。外に出るとどうなるのか。危険とは承知しつつも、まだその実体を上手く把握出来ていない。

 青田と一緒に廊下を進み、昇降口に出た。草野が、持っていたバッドを彼に渡した。

「何のつもりだ?」

「餞別だ。くれてやる」

「いるか、そんなもん」

「いいから」草野は苦笑して、それを押し付ける。「持っておけって」

 青田はしばらく逡巡する素振りを見せたが、やがて渋々と受け取った。

 安藤が率先して鍵を開き、ドアを開けた。冷たい空気が入り込んで来る。青田はそれを感じ取ったのか、一瞬身を竦ませた。が、決心したような顔付きになると、バッドを構えて前に踏み出す。

 犬神は茫然とその光景を眺めていた。はっきり見えていた彼の背中は、やがて霞んでいく。まるで映画でも見ている様だ。やがて霧は完全に彼の姿を覆い尽くし、白一色に埋没していった。

 しばしの沈黙。

「何も……起こらないな」

 安藤が呟いた瞬間だった。

 消えていった奥から、張り裂ける様な悲鳴が聞こえた。一同は顔を見合わせる。川本だけが、不愉快そうに宙を睨んでいる。

 やがて、渇いた音が響き渡った。何かがこちらに転がって来る――バッドだった。先程とは比べ物にならないほど、べったりと血が付いていた。

 騒然とする一同に、草野が語りかける。

「これではっきりと分かったでしょう。……外には出られない」

 

 ※

 

 安藤は、外を見詰めていた。霧は晴れる事無く、景色を白く染めている。

 ――本当だったのか。

 安藤は草野に言われた言葉を反芻する。自分は噛まれたに過ぎない。ただのおかしな奴が、喧嘩を売ってきた。そうとしか捉えていなかった。まさか、本当に霧の奥には化け物が潜んでいるとは。

 ――俺は、死ぬのか。

 左腕を見る。ちょっとした傷だ。こんなもので……。これが、己の体を蝕み、あの化け物へと変容していくのだろうか。

「部長」

 傍に村田が居た。

「あいつが言った事、本気にしているんですか?」

 あいつとは、草野の事だろう。安藤は、答えに窮した。その通りだったからだ。それを察したのか村田は、笑顔を作る。

「気にしない方がいいですよ。そりゃ、たしかにあの化け物はゾンビそっくりです。でもそれは、ホラー映画のクリーチャーとしての側面が、たまたま今の事態に合致しているに過ぎないんです。全てがフィクション通りになるなんて、それこそ荒唐無稽ですから」

「あ、ああ……」

 生返事しか出来なかった。分かっている。分かってはいるのだが、不安なのだ。見えない蛇に首を絞められている様な恐怖を感じる。

 ふいに、視界に女子が映った。不安を薙ぎ払う様に、安藤は話題を変える事にした。

「そういえば、あいつ誰だっけ」

「まさか、部長と同級生じゃないですか。知らないんですか、川本梓ですよ」

 その熱の篭った言い方に、安藤は「へぇ」としか言えなかった。流行りの有名人を説明されるような風情だった。

「結構モテるみたいですよ。ま、見てくれだけは良さそうですからね」

「ほぉ、お前、ああいうのが趣味なのか」

 いたずらっぽく返すと、村田は顔を赤らめた。

「いやっ、全然違いますよ! やだなあ、僕は女になんて興味無いですから! いやホントに!」

 安藤は笑って頷きながら、村田の肩を叩く。それはありふれた日常の光景だった。そうだ、こうやっていけば不安は取り除かれる。恐怖は遠のいていく。

「ねぇ」

 川本が声を上げた。村田はびくっとする。

「バリケードを作った方がいいんじゃない? このドア、そこまで耐久性があるとは思えないし」

 会話を聞かれているのかと思ったが、そうでは無かったようだ。

「それはそうだな」近くに居た黒木が賛成した。「ここと職員玄関は補強しておいた方がいいだろう」

「それはいいが、道具はどうするんだ?」

 編入生である犬神の質問に、黒木は笑う。

「ここは学校だぜ。机とイスが沢山ある。バリケードには持って来いだ」

 川本は頷く。

「じゃぁ、早速取り掛かりましょう。まずは机を運んで」

「あれ、草野くんと横井さんは?」

 気弱そうな女子が辺りを見回す。安藤も彼女は知っていた。小泉という女子だ。彼女は地域の未成年者喫煙防止の会に入っている。それを知って、ヘビースモーカーの彼は苦笑を漏らしたものだった。

「さぁな。お楽しみの最中じゃないのか?」

 黒木が侮蔑の入った声色で言うと、作業するため適当な教室に向かった。

「何だか、あの草野って二年。妙な雰囲気だったな」

 犬神が訝しげに呟く。

「手慣れているというか、熟知しているというか。それに、いくら化け物に変わったとはいえ、あんな容易に……」

 それは同意せざるを得ない。彼はどこか、水を得た魚ばりに活き活きとしている。

「気をつけた方がいいわね」

 川本が息を吐く。それが彼女なりの冗談かどうなのか、安藤は判断できなかった。

 彼は自分の左腕を覗く。

 何かが疼く様な気がした。

 

 ※

 

 横井は廊下を歩いていると、物音を聞いた。映像研究同好会と書かれた部屋からだった。恐る恐る近づいてドアを開くと、そこには草野が居た。彼は、部屋の中に埋め尽くされた荷物を漁っている。

「ドロボウ」

 言って、彼女は小さく笑う。

「何してるの?」

「見ての通りさ。御名答」

 草野は言ってから、目線を下に逸らす。

「……それで、落ち着いた? 青田とは付き合っていたんだろ」

「ああ、そのこと」横井は盛大な溜息をついた。

「もういいの。別れたし。今日残っていたのは、その話をしてたから」

 なるほど、と彼は頷く。

「だからアイツ、苛々してたんだ」

「ねぇ、本当に何してるの?」

 彼が持っているのはビデオカメラだった。他にも機材を揃えている。

「ホラー映画を作るんだ。ゾンビ映画を」

 横井は渇いた笑いを漏らした。こんな状況では冗談にならないからだ。

「オタクなんだ」と呆れた声を出す。

「愛好家と言ってほしい。割と健全な趣味なんだぜ?」草野は、カメラ用の三脚を掴む。「これを持ち出したりしたら、同好会の連中は怒るかな」

「死人に口なし」

「それじゃ、いただきだ」

 くすりと彼は笑う。

「近頃のゾンビ映画は腑抜け揃いでね。どうも納得行かないんだ。なぜゾンビが走る? 情緒のカケラも無いよ。だから、俺が作り直す。ロメロもフルチも真っ青の大傑作を作るのさ」

 ふうん、と横井は頷いただけだった。自分に関係の無い様に感じたのだ。けれど、彼からは妙な意気込みが感じられた。こんな事態だというのに、輝いて見えるからだ。

「君さ、女優をやってみない?」

「――あたしが?」

「そう。ぴったりだと思うんだけどなぁ」

 そんなこと、という言葉を彼女は呑み込んだ。悪い気はしない。

 校舎は正体不明の霧によって孤立している。それこそ不条理小説の世界に入り込んだようだ。それは退屈を意味している。だけれど、死人の怪物はちょっぴり刺激が強すぎる。

「ええ、いいわ……」

 草野はよろしく、と言って手を差し出した。

 

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