2 遭遇
新聞部の村田が血相を変えてやってきたのは、黒木達が一階に降りた直後だった。辺りに生徒や教師は居なくて、その場に居たのは黒木と犬神だけだった。
「霧の中に何かが居る!」
村田は、黒木を見つけるなり叫び声を上げた。かなり興奮している。気色ばんだ顔色からは、それが冗談ではない事を充分に証明していた。最初、村田を見つけた時に犬神に紹介でもしようと思っていたのだが、そんなことができる雰囲気ではないと悟った。
「どうしたんだ」
どうしたんだ、と聞きながら黒木は異様な雰囲気を感じていた。彼は身を震わせながらの黒木の前で止まる。肩で息をしながら、再び口を開く。
「おれ、見たんです。外に何か居る」
「要領を得ないな」
隣の犬神が呟いた。
「ここの学校は、いつもこんな調子なのか」
「何を見たんだ?」
犬神の軽口を無視して、村田に尋ねる。村田が何かを言おうとすると、特別教棟の渡り廊下から女子が歩いてきた。下校するつもりだろう。クラスは違うが同級生なので知っている。川本という女子だ。
「何の騒ぎ?」
冷たい声だった。サーモグラフィで観たら真っ青なのではないかと、黒木は思う。
「大変なんです。学校の外に出ちゃいけない。き、霧が――」
犬神が眉をひそめる。
「落ち着けよ。どうしたんだ」
村田が頷き、息を整える。すると、今度は二人の女子の同級生が同じようにやってきた。小泉と佐藤だ。まるで、村田の話を聞きにやってきたかのようだ。
「黒木さんの所に、取材に行くつもりだったんです。体育館に向かっていて、それで外に出たら……。霧が、その奥に、みんながいて」
「みんな?」黒木は首をひねる。「俺達は、ここに居るが」
「そうじゃくなくて……その。深陽の生徒が居たんです、沢山。でも様子が、変で」
川本が踵を返して昇降口に向かう。これ以上付き合っていられないという意味だろう。細い足が床を蹴っていく。
「あ……」
小泉は、それを不安気に見ていたが、やがて追いかけていった。
「黒木さん、信じてください。本当なんです」
村田の目は真剣そのものだった。まだそれほど長い付き合いでもない。だが、その瞳は冗談の類ではないことを充分に物語っている。
「わかった。お前の話は信じる」
とは言ったものの、黒木には荒唐無稽な話に感じた。
「あの二人はどうするんだ? 行っちゃったけど」
犬神が、不安気に二人の後を眺める。
「放っておけないだろ。ちょっと行ってくる」
黒木がそう言って追いかけようとした時だった。成り行きを見ていた佐藤が、口を開いた。
「あんた達も川本さんに構うわけ? あの人も大層な御身分ね」
佐藤は顔を歪ませる。
「陽菜も皆も、おだて過ぎなのよ。あの人、ちょっと顔が良いからって図に乗ってるんだから。世間が右往左往して世話してくれるって、勘違いしてるんだわ」
黒木はそれを聞き流して、二人の後を追う。彼女達の間柄については詳しく知らないが、あまり仲は良くないらしい。
黒木は走った。二人は丁度、昇降口の下駄箱に居た。小泉が彼女を説得している。だが、効果は無いようだ。
「川本さん、やっぱり危ないよ」
川本が上履きを脱いで外靴に履き替える。昇降口の扉は、幾つものドアが並んでいて、どこからでも出られるようになっている。何ヶ所からは既に開かれていた。
「危ないって何が?」
「だって、さっきの話、聞いたでしょう?」
くすり、と川本は笑う。相手にしていられないという意味が、言外に含まれている。
彼女は頬に冷笑を貼りつけ、外に出ていこうとする。その肩を掴んだのは、黒木でも、小泉でも無かった。外から入ってきた男子生徒が、彼女に掴みかかっていた。川本はそれをいなして、数歩下がった。
その顔はとても動揺している。
「おいおい」
見かねた黒木が、男子に近づく。
「気持ちは分かるが少年。そういうのは、然るべき順序を踏んでからで……」
男子の肩を掴み、振り返らせる。黒木はその顔を見て、絶句した。
――人間じゃない。
感情を根こそぎ奪ったような顔は、紫色に視覚できるほどまで青白い。だらしなく開いた口の隅からは、粘性の高そうな唾液が垂れさがっている。何より驚かされるのは、重度の白内障を思わせる、白く濁りきった双眸だ。
そのインパクトに、黒木は茫然とする。
ぎしり、と両肩に激痛が走った。いつの間にか、肩を強く掴まれていた。見た目からも想像のつかない強い力だ。
「このっ……」
反射的に折り畳んだ右腕で肘鉄を作り、相手の側頭部に叩き込んでいた。奇妙な手ごたえと共に、彼の首はもげるように傾いた。
――く、首の骨折っちまった?
そんなに力を入れたつもりは無かった。何より、そこまで自分の腕力があるとも思えない。しかし彼は表情を変えず、こちらに視線を外す事は無い。
痛みを感じていないのか。得体の知れない恐怖に慄き、黒木は退く。
男は大きく口を開いた。殺意を整列させたような歯が並び、その奥に毒みたいに鮮やかな赤が覗いている。
――な、何を。
「川本さん!」
小泉の声で我に返る。川本が男子めがけて消火器を振り上げていた。振り下ろされたそれは男子の頭にぶつかり、彼は倒れた。
「何なの、ねぇ!」
小泉が悲鳴を上げる。
「おい、馬鹿、何してんだよ」
そこまですることないだろ、と黒木は言ったが、川本は答えない。
彼は起き上がらない。置物の様にピクリともしない。
「大丈夫なの、その人……」
「わからない」
黒木は思った事をそのまま述べた。自分が殴った時、彼の首は完全に明後日の方向に向いていた。
――殺しちまったのか、まさか。
身体が震えた。そんなつもりなど無かったのに。ただ、黒木は怖かったのだ。あの下水溝を思わせる暗い眼が。
川本が片膝をついて男の身体に触れる。
「脈が無い」そう言って鼻の上に手をかざす。「呼吸も……」
「嘘でしょう……」
小泉はその場にへたりこんだ。
――自己防衛だよな。いや待てよ、俺は人殺しか?
仕方がなかった、と言おうとしたが、黒木は噤んだ。
「その人、死んでるの?」
「たぶん」
そう言った川本の声は低い。そこから動揺は感じ取れないが、何を考えているかもよくわからなかった。
「ねぇ、救急車呼んだ方がいいんじゃないの」
「……いや」
川本は自分の消火器を見やった。血が付いている。
本当に死んだのだろうか。黒木は不思議に感じた。こんな簡単に人間がこと切れたりするだろうか。或いは、生きていてほしいという希望的観測がそうさせているのか。黒木は自分で生死を確認したかったが、怖くて彼に近寄れなかった。
「……本当だったのかもしれない」
川本の言葉に、黒木は疑問符を浮かべる。
「どういう意味だ?」
「さっきの男子の話」
――霧の中に、何か居る。
「触ってみて」
川本は、男子の手首を掴み、こちらに向ける。一度は躊躇したが、黒木はその青白い肌に触れてみた。とても冷たい。もう人間ではなく、人間だったものの抜け殻などだと分かった。
「どう?」
「どうって……」
「もうこんなに冷たくなってる」
「そりゃぁ……死んでいるからだろ」
「死んでからすぐに、こんなに早く体温が冷めるはずが無いでしょ」
「それは」
黒木は言い淀む。そういう事は自分は門外漢だ。特別な知識がある訳ではない。だが、言われてみるとそんな気もする。さっき死んだとしたら、この氷の様に冷たい皮膚はいくらなんでも異常だ。
「でも、だから何だって言うんだ? まさか、最初から――」
その先の言葉が続かない。馬鹿げている。最初から、死んでいたなどと。彼は殴り倒されるまでは動いていたのだから。
「この人……知ってる」
震えた声で、小泉が言った。
「一年の生徒でしょ……私、風紀委員で一緒だったらから。会合の時、少し話したことがあるの。でも」そこで言葉を区切り、彼女は身を震わせる。「全然、違う。まるで、今じゃ別人みたい……まるで、化け物みたい」
化け物、という台詞が背筋を走る。その言葉は彼の禍々しさを明瞭に浮かび上がらせていたのだ。
※
佐藤は、村田とかいう一年生の話を信じてはいなかった。当たり前だ、そんな馬鹿げた話、信じられる訳が無い。
――本当に、どうかしてるわ。
それは小泉に向けられた言葉でもある。彼女は川本に憧れているのだ。だからあれだけ付き纏う。
――川本さんは、あたしみたいな、とろくさいの嫌いだよね。
――ねぇ、名字じゃあれだから、名前で呼んでもいい?
それを本人はたぶん自覚していない。飼犬みたいにへらへらしては、いつも彼女のご機嫌を伺う。そうやって水を向けている。
あんな女のどこがいいのだろう。川本は密かに男子に人気がある。見た目もそうだが、何でも適度にこなす所や、あの歯牙にもかけない、つっけんどんな感じが、男達の下碑た関心を高めているに違いない。
佐藤は下唇を噛んだ。
――あいつが陽菜を奪っていったんだ。
「遅い……な」
同じくその場で留まっていた男子が、口を開く。確か犬神とかいう名前の筈だ。ついこのあいだ編入してきたばかりの生徒である。
「何かあったのかな」
「だから、言ってるじゃないですかっ」
村田は、気色ばんだ顔で訴える。
「外には、何かが居るんです。だから学校を出ちゃいけない」
「いい加減にしてよ!」
耐えられなくなった佐藤は啖呵をきる。
「くだらない…………。あんたも信じてるわけ?」
犬神に詰め寄ると、彼は首を振った。
「い、いや。僕にはよくわからない」
「付き合ってらんない。もう帰る」
彼女が昇降口に向こうと、足を踏み出した時だった。小泉たち三人が戻ってきた。その事に、佐藤は違和感を覚える。小泉ならまだしも、なぜあの川本まで戻ってきたのだろうか?
「ちょっと、来てくれないか」
黒木という男子が、沈んだ声で言う。その仰々しい物言いに不安を覚えた。
「どうしたんだ?」
「いや……」
犬神に聞かれても、彼の歯切れは悪い。青ざめた表情で佐藤や村田を見渡す。
「とりあえず来てくれ。見せたいものがある」
六人は昇降口に向かった。佐藤も不承不承、後に着いていく。どちらにせよ、下駄箱に行かなければ帰れない。
「で、何があるっていうの?」
下駄箱のロッカーが並んでいた。傍には履き替え用の、すのこが敷かれている。それだけだった。置き残したジュースのブリックパックや、プリントの切れはしの様なものはあるが、異変と呼べるものは無い。
「嘘だ……」
黒木が呻いた。
「こんな筈じゃない。ここに――――」
「死体があったの」
川本が言い足して、犬神が顔をしかめる。
「ここに倒れていた、本当は」
「馬鹿言わないでよ」
佐藤は笑う。信じられなかったが、信じたくも無かった。全員で真剣になってこんな事を喋るなんてありえなかった。
「川本さんさぁ。あんたまで、こんなくだらない事に付き合ってるわけ」
とん、と後ろから手が置かれる。無意識に、佐藤はその手を払う。
「私は帰るわ。これ以上、こんな事に構っていられるもんですか」
「……美香」
小泉が、こちらに怯えた視線を送っている。――おかしい。異変に気付いた。ここには川本も、男子三人の姿が視界に映っている。肩を触ったのは……。
首筋に、痺れるような感触が伝わった。冷たくて固い何かが、皮膚を破り肉に押し込まれた。
「畜生!」
誰かの叫び声が聞こえる。それはどこか、薄い膜で隔てられたかのように、ぼんやりとしていた。
身体はしっかりと、背後から抑えつけられていた。強い力で抗う事が出来ない。熱い何かが溢れだしている。意識は外の霧と同じように、白く染まっていった。
――熱いよ、陽菜。
再び、冷たい何かが首筋を伝う。それは歯だと分かる。――食べられている。他人事のように、佐藤はぼんやりと思った。本当だったのだ。霧の中には何かが居る。外に出てはいけない。それでも信じたくないという自分が居た。
彼女は、ゆっくりと床に倒れた。ここも不愉快な程冷たい。四肢はほとんど動かない。糸を切られたマリオネットの様だ。
「くそ! この化け物が!」
赤い何かが過ぎる。消火器だった。筒状のそれは、彼女を蹂躙していた者を薙ぎ払っていた。だが、身体は既に動かなくなっている。意識が次第に遠のいていく中で、小泉の声を聞いた。
「美香! しっかりして!」
――ああ、陽菜ったら、すぐ泣きべそかくんだから。そんなだから舐められるのよ。
自分が死ぬ、という事がわかった。まるで眠るようだ。何もかも唐突すぎる。
「美香、目を開けてよ! 美香!」
ここを卒業することも出来なかった。まだまだ色々とやりたい事があったのに。
周囲を取り巻くあらゆるものがざわめき立ち、やがて途切れた。
※
犬神は、血溜まりが上履きを汚しているのに気付き、悲鳴を上げた。そこには、二つの死体が並んでいた。佐藤と名前も知らない男子の亡骸だ。目の前の惨劇に犬神は呻いた。
「なんて酷いことを……」
黒木は、持っていた消火器を床に落とした。渇いた音が響き渡る。
「仕方無かった」
黒木は呻く。
「こいつは、化け物だ。さっきまで、死んでいた筈だったんだ。なのに――」
「仮死状態、という事は無かったのか。ほら、テレビでよくあるだろ。本当は死んでいなかったのに、そのまま埋葬してしまった、とか……」
犬神は、何とか修正しようとしていた。普段の日常に戻ろうとする修正だ。それを行わなければ、自分は取り返しのつかない事になる、そう思った。
「お前も見たろ。こいつが……佐藤に喰い付くのを」
黒木は言って、男子を指した。
「こいつは外からやってきた。霧の中から……。さっきも襲ってきたんだ。俺たちが、殺した筈なのに」
血の匂いを嗅ぎつけたのか、無数の蛆虫が二人にたかり始める。耳触りなその音は、完全に二人が死者だということを自覚させる。
「美香が……」
小泉が放心したように呟く。頬には涙の跡が残っている。
犬神は目の前の光景に眩暈を感じた。とても受け入れられるような光景では無かった。
「電話は……無理か」
犬神は舌打ちして携帯電話を閉じる。救急車に連絡しようと思ったが、誰の電話も通話は不可能だった。全員圏外だったのだ。
「また、起き上がるって事は、無いんですかね」
おろおろしていた村田が言い出した。
「黒木さんの話じゃ、この男子は始めから死んでいた。それなのに起き上がって、もう一度襲ってきた。とすると……」
「何度殺しても、甦ってくる?」
川本の言葉に、一同は口を噤む。死体が動く気配は今のところ無い。だが、その可能性は考えられる。しかし、どうすればいいのだろう。また殺すしか無いのだろうか。そんな事が簡単に出来る筈が無い。自分なら、とても無理だろうと犬神は思った。
川本が、昇降口のドアを閉めて、鍵をかけた。
「外を塞ぎましょう。あいつらが入ってくる」
村田が頷く。
「そうです。外には、死んでから起き上がった奴らがうようよ居るんだ。絶対、入って来させちゃ駄目だ」
それは下校していた筈の生徒だ。なのに、霧の向こうで化け物へと変わってしまった。もう既にいくつか中に入って来ているかもしれない。
「僕は、職員室に行って先生を呼んでくるよ。この時間なら、先生は残っている筈だ」
言いながら、犬神は滑稽に感じていた。一体、先生を呼んだからといって何が出来るのだろうか。しかし、今までに染みついた習慣を簡単に捨てる事など出来はしない。普段は馬鹿にしたりしていても、彼らは自分達の庇護者なのだ。
「俺は、まだ学校に残っている奴らに呼び掛けてくる」黒木が言った。そして、その場にへたり込んでいる小泉を見やった。彼女は憔悴しきっている。
「しばらく……そっとしておいた方がいいな」
彼女は茫然と佐藤の亡骸に寄り添っていた。
「でも、ここに一人にしておくのは危険じゃないのか?」
犬神が言うと、彼女はこちらを向いた。
「大丈夫」掠れた声だ。「私は大丈夫だから……しばらく一人にさせて」
黒木は小さく頷くと、村田と一緒に、教室のある二階に駆け上がっていった。
犬神も職員室に向かおうとすると、川本も着いてきた。自分も行く、という意味だろう。さすがに犬神も職員室の場所は知っていた。二人は歩き始めた。
「ついこの間、編入してきたばかりなんだ」
歩きながら、犬神は喋り出した。何か話していないと落ち着かない。どうにかなりそうだった。
「まさか、こっちに引っ越してすぐに、こんな目に遭うなんて。夢にも思っていなかったよ」
彼女は返事どころかリアクションも返してこない。それでも、犬神は口を動かし続ける。
「塔青高校って知ってるかな。前はそこに居たんだ。スポーツが盛んな学校で、僕はバドミントンをやっていた。聞いたこと無いかな。手前味噌になるけど、スポーツに関しちゃ結構有名なんだ、そこは」
彼女は押し黙っている。ようやく、犬神は俯いた。
「……いや、何でもない。ごめん」
職員室に辿り着く。川本が扉を開けた。
無人だった。普段なら慌ただしく教師達がそこに居る筈なのに。山積みにされたプリント、生徒が触る事さえ許されない数々のファイル、色んなもので溢れるペン皿。そういったものたちが、部屋の中で静寂に佇んでいる。
――なんで、一人も居ないんだ?
まさか、と嫌な予感な頭を過ぎる。先生達もまた……。
川本は置いてあるテレビの電源を着けた。どのチャンネルを回しても砂嵐だった。やはり、何かの回線が遮断されているのかもしれない。
――霧のせいなのか?
「どうしよう……これから」
彼女は言葉を返さない。犬神の声は静まり返った職員室に浮かんで消える。本当に外に出る事が出来ないのだろうか。あの霧は晴れる事は無いのだろうか?
※
小泉は女子トイレの個室で泣いていた。
「美香……どうして死んじゃったの?」
嗚咽と共に、後悔の念が残っていた。もっと自分がしっかりしていれば。あの時、彼女を助けられていたかもしれないのに。
「ずっと友達だったのに……」
どん、と外からドアが叩かれた。ノックにしては大きいその音に、小泉は身を竦める。
「あ、あの……入ってます」
嗚咽でつっかえないように気をつけながら、小泉は言う。だが、叩かれる音は止まない。いや、叩かれているのでは無く、ぶつかっているのだ。――誰かが身体をぶつけてきている。ふいに彼女は、図書室で勉強していた時のことを思い出した。窓にぶつかる人影――。
「――だれ?」
するとドアの揺れは収まった。不意に、肉の腐ったような嫌な臭いが鼻腔をかすめた。
「あの、だれなの?」
不審を覚え、指が鍵に向かう。開けていいのだろうか。あの化け物は退治された。だから、もう心配は無い筈だ。学校の外にさえ出なければ……。
ドアはゆっくりと開いた。
「…………なんで」
そこに立っている人物に、茫然とする。
「無事だったの…………美香?」
佐藤の瞳は光を失っていた。彼女の首筋は、赤く染まっている。そこに、白い粒のようなものがびっしりと埋まっていた。それが、ぽろぽろとタイルに落ちている。最初ライスクリスピーみたいだと思ったが、蛆虫の死骸や抜け殻だった。
――生き返ったんだ。
自分に会うために。
佐藤は手を突き出してきた。青白いその両腕は小泉の首を捉える。冷たい指は首筋に食い込んだ。その余りにも強い力に、呼吸が出来なくなった。
――どう、して……。
声に出そうとしたが、言葉にならない空気が漏れただけだった。呼吸に喘ぐ淡水魚の様に、彼女は口を天に向けた。意識が霞む。自分も死ぬのだろうか。
目尻に溜まっていた涙が頬を伝う。
佐藤はゆっくりと口を開けた。その中は地獄の入口を思わせた。これは罰だと思う。清算するのだ。親友を見殺しにした罰を。彼女は怒っているのだから。
黄金色の残像が走る。鈍い音が聞こえ、小泉は解放された。そのまま尻餅をつき、溜まった息を吐き出す。何が起きたのかわからなかった。
「女子トイレに入るのは、ちょっと躊躇しちゃいますね。助けるためとはいえ」
軽やかな男の声が聞える。佐藤は床に倒れていた。目をつむり、頭から血が流れている。
「大丈夫ですか?」
男子が金属バッドを持って立っていた。校章の色を見る限り二年生だ。どこか落ち着いた雰囲気を纏っている。
「あ、あの……」
息を整えて、何か言おうとしたが、何も言葉が出てこない。
「噛まれていないですか?」
意図がわからない質問だったが、正直に頷く。
「え、ええ」
「それは良かった」
男子は微笑み、視線を佐藤にやる。
「彼女とは知り合いでしたか?」
ふいに、胸の奥で込み上げるものがあった。――美香。
「と、友達だったんです。親友だったんです」
「そうでしたか」
「あの、美香は……彼女はどうなったんですか?」
「死にました」淡々と男子は告げる。「もう蘇生する事は無い」
「そんな……」
「彼女はあなたを殺そうとしたんですよ。いや、違うな。食べようとしたんです。だから助けたんです」
小泉は彼女を見詰めた。もう動いていない。もう生き返る事は無い。
「もう此処を出た方がいい。酷い臭いだ」
男子は鼻をつまむポーズをする。小泉は首に手をあてた。あの冷たい指の感触は消えようとしている。
「ひとつアドバイスをしましょう」
そう言って、男子は笑う。
「こいつらの弱点は頭だ。頭を潰せば死ぬ」
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