第五章 孤軍奮闘

第15話

≪太陽暦:三〇四五年 〇八月十三日 一二:四五 廃殻 集落名:記録消失≫


 炉那の小さな手が、きゅうとその人の掌を握る。

 それに気づいた父親は、強張っていた顔に優しい微笑を浮かべ、その手を握り返す。

「大丈夫だよ」

 そのただ一言を聞けば、炉那は満足そうに歯を見せて笑った。いまだ五つにもならない息子の無垢さに、父親は幸福を噛みしめ、その頭を撫でる。

 炉那は父親の掌が好きだった。村の首長として誰かと握手を交わす掌。たこができるまで鍬を握り続けた掌。村の生命線である蒸留装置を日に一度は整備し、とがった歯車を撫でる掌。故にその皮は厚く、いまだ青年であるのに深い皺が刻まれている。だがだからこそ、握り返されると、世界の全てから守ってもらえている、そんな気がする掌。

「……おとうさん」

「何だい?」

「ぼくの手、真っ白で細い」

 炉那は右の掌を悔しそうに見つめていた。母親似の彼の指は細く、皮もまだ柔らかく薄い。それを口惜し気に言う彼に、父親はかがんで視線を合わせる。

「大丈夫だよ。炉那。だいじょーぶ。お前も大人になるうちに、大きくて逞しい手を持つようになる」

「ほんと!」

「ああ……お前がお母さんや友達のために、その手で働き続ければ……」

 そこで父親は少しだけ黙した。何かを逡巡するように。

「いや、それじゃあ駄目だんだろうな。ほかならぬお前が、お前の望みのためにその手を自由に使える世の中じゃなかったら、駄目なんだろうな……」

 その言葉は難しく、独白めいていた未だ炉那には理解し得ない。眉をひそめ首を傾げた少年に、父親は困ったように掌を握って見せた。

 その、何かを悟ったような瞳。


 父親は村の中心、普段なら交換や議会が開かれる広場へと歩いて行った。普段なら十から十五人程度がたむろしているその場所には、今日に限って村人のほとんどが居て、その視線に隔意を孕ませている。

 視線の先、その群衆の中へと進み出る父親に。

 そして広場の中心、土着信仰の祠の下には、炉那からすれば見慣れぬ格好の男たちがいた。砂埃に塗れた衣ではなく、硬質セラミックの防弾装備に身を包み、炉那の背丈にも並ぶような機銃を持つ物々しい男たち。彼らが月都軍の廃殻治安維持部隊と知るのは、ずっとずっと後のこと。

 彼らは歩み出た村長に銃口を向ける。両手を上げた父親は、そのまま息子を群衆の中に潜ませた。父の親類の女性が、炉那を抱える。

「……一体なにが目的で来たのですか。村人を怯えさせるのはやめてください」

「我らは月都司政議会並びに“千年宗家”の認可を受けて動いている。不条理な行動は一切無い」

 威圧的に言い放つ鎧の男たちの向こうでは、場違いな、群青に染め抜いたローブ姿の男が一人、村の祭壇をのぞき込んでいた。大老君ヶ“イブキ”様という、前文明にいた神様を祀る、燃える火焔のような渦模様の装飾がついた箱。

「それに触れないでください。村の守り神です」

「我らがここに来たのは―――」

 ローブの隙間から垣間見える、男の瞳が斜めに父を見る。その、今にも零れだしそうな真黒を、炉那は今でも忘れない。

「月都管下に認可無く、蒸留装置を製造しようという輩が、ここに潜伏していると告発を受けたからだ」

「―――――ッ!」

 毅然とふるまっていた父の顔に、焦燥の色が浮かぶ。

 当時、蒸留装置の製造すらも廃殻民は月都への許可が必要だった。そうやって生命線を握ることで、月都は強固な体制を保ち続けていた。十年後、未だ幼い少女の政治家が現れその厳密さが少しずつ改められるまで、廃殻民はそれに甘んじているしかなかった。

 そしてとっさに振り返り、背後、群衆の中にいる青年に目を向ける。炉那の家の隣人であり、父とは竹馬の中のその男は、父を疎まし気に見返す。

「あれを知ってたのはお前だけだ。なんで……なんで密告を」

「わ、悪いかよ……悪いかよ!仕方ねえだろ!遅かれ早かれこうなるんだ!月都様の目を掻い潜ることはできねえよ!」

「……だからって」

 父親の声に怒気が滲むのを悟った武装隊が、即座に父親に肉薄し、押さえつける。炉那は幼心ながらに父親が危険と悟った。駆け出し、その手を伸ばす。だが、村人たちによって押し止められてしまう。

「だからって、飢え続けるしかないのか?乾き続けるしかないのか?俺らは」

「……仕方ねえって、言ってんだろ。それが廃殻に生まれた俺らの」

「此処が廃殻だからか!?月都じゃないからか!?なら、少しは足掻いたっていいじゃないか!乾き続ける生活から……」

 焼けた砂に額を押し付けられても、尚も父親は叫び続ける。

「ここは廃殻だから、ただ見ていろと言うのか?空になっていく穀物庫を、蒸留装置が錆の混じった水しか吐かないのを、喰いあぶれた友が村を去るのを……熱病にうなされる妻に、一杯の水もやれない自分を、ただ、見ていろというのか!?」

 密告した男の顔に、悲愴な気色が滲む。村人の誰もが父親の言葉に沈痛を押さえつけるような苦々しい顔になる。父親は、それでも目前のローブ姿の男を睨みつける。その先に浮かぶ“タイヨウ”から、目を逸らさずに。

「俺は――そんなために、この世に生を受けたんじゃない」


 ずたん。物体が切り開かれ、折れ、そして地に落ちる音がした。村人も、そして武装隊すらも呆気にとられた様子で見る。

 頭を上げていた父親の姿が、ばたんと地に伏した。熱砂の上に、生命の赫が滲みしみこんでいく。

 炉那は呆然とそれを見ていた。そしてそれが“死”ということだと知覚するのに長い長い時間を要し、そして理解すると同時に――肺が裂け喉は割れんばかりに叫んでいた。

 村人の手を振り切って駆け出す。右の手を伸ばして、父に触れようとする。この手を握ってもらうために。

 だけどいつのまにか、その手が視界から消えた。右腕の肘から先がぽんと飛んで、地に落ちる。余りにも綺麗に断たれたため、炉那は初め痛みすら感じなかった。

 だけど神経に電撃が走り、少年の目から涙が溢れ出す。


「お、おい!密告すれば他の村人には手を出さねえっつってたじゃねえか!」

「そうよ!まして子どもなんかに……!」

 激痛。苦悶。喪失。崩れていく意識の中で、村人たちの声が反響して頭を打つ。その中でさえ、冷淡でありながら玲瓏なる声音が炉那の耳には確かに聞こえた。

「いいや不可能だ。この共同体内では逆行因子が生まれた。たとえその一つを潰そうが、情報遺伝子ミームは共有する。共同体内に叛意が伝播して、やがて廃殻全体に至る」

 その意図は少しもわからなかった。だが、その酷薄な主が、こちらへ一切の感情を抱いてないのだけは、強く強く伝わってきた。それこそこちらが虫けらや塵芥のように。

「だから切除する。切除しなければ現在の安定した環境ビオトープが崩れてしまう。文明の安寧のために、均衡を保たねばならない。故にこそ」

 破裂音。それは祭壇が砕ける音。そして、村人たちの何人かが銃弾に穿たれる音。

「この共同体には無かったことになってもらう」

 銃声。悲鳴。叫喚。断末魔。銃声。破裂。悲鳴。断末魔。断末魔。断末魔―――――。


 音がしなくなるまで一瞬のようだったし、永遠のようにも感じた。だけど立っている村人は一人も無く、住居には弾痕が残り、父の造った蒸留装置も村の祭壇も粉々に砕かれた。

 どういう方法で切られたかわからないが、炉那の右腕の断面からは血が出ていなかった。だが腕は自分の身より彼方に転がっていて、そのそばには物言わぬ父が、こちらに背を向けている。

 いつかは父のようになれると思っていた腕は、今や薄く柔いまま、“もの”になっていた。

 悔しくて、でもそれでも涙は出ない。天上に瞬く“タイヨウ”の、強い日射に焦がされたかのように、その瞳も喉も乾いてしまった。

 ただ――もう全てが嫌で、空も地も人も物も星もタイヨウも、自分も見ているのが嫌で、静かに彼は目を閉じる。


 足音がした。次に、跪くような音も。

 何かが自分の頬に触れた。父親に似た、皮が厚く拳骨が浮き出た掌。

「……俺は」

 微かに開いた瞼から見えた、髭面で痩せた男は、何故か顔をぐしゃぐしゃに歪めながら――何かを、言っていた。

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