第16話

≪太陽暦:三〇五六年 十一月三十日 二四:〇五 廃殻¨大羿¨開発区≫


 飛び上がるように、ではなく、ゆっくり目覚めは訪れた。硫黄ガスを口から頭まで吹き込まれたかのような、最悪の気分。

 寝台から起き上がれば、宿舎の窓から見える空は未だ夜色だ。喧しく星が瞬き、月が素知らぬ顔でこちらを俯瞰している。

 その光景にすら苛立ちを感じて――頭を振って、立ち上がる。

 自室を出て、洗面所を目指す。古傷の疼きを忘れるために。


 炉那は月都の廃殻治安維持部隊に滅ぼされた村の出身だ。今でこそ融和政策が取られ、廃殻民も多少ながら自由が保障されているが――10年前は、廃殻は月都の植民地に外ならず、廃殻民は奴隷以外の何物でもなかった。

 父はきっとそんな状況が許せず、せめてもの足掻きとして禁じられた蒸留装置の製造に手を出したのだろう。少しでもこの生活を、変えるために。

 だけど父は殺された。月都の者に――いや、廃殻の、従属を受け入れた者たちに、とも言えるのだろう。密告した隣人や、父を助けなかった村人たちのような、先の無い現状を仕方ない、と断じたものたちの、深い深い諦念に。

 結局村は潰され、そして記録からも消された。人々は初めこそ憤り、あるいは恐れ、騒いでいたが、すぐに忘れてしまった。

 父の行動は何も変えられなかった。この世に傷跡を残すことさえ、できやしなかった。


 自分の右腕を見る。包帯を剥ぐと、鋼で設えた義手が露になる。

 これは村の“大老君”を祀る祭壇にあった義手だ。前文明は畏敬の象徴であり、辺境ではその遺構や逸脱機は信仰すら集める。これもその一つ。“タイヨウ”すら作って見せた伝説の技術者大老君ヶイブキの残した逸脱機の一つ、だという。

 炉那が右腕をあの真っ暗な瞳の男に斬り落とされながらも生き残れたのは、これを蛮風によって腕に接がれたためだ。炉那の命が燃えつける間際、村跡に現れた蛮風は、遺跡荒らしの知識を持ってこれを義手として断面に接続した。

 そこから10年、彼との旅が始まった――蛮風は抜け殻のような炉那に、様々なことを教えてくれた。

 遺跡荒らしとしての技術。廃殻にある都市の全て。“タイヨウ”とその歴史。逸脱機の知識。月都の政治体系。遺跡で拾ったものの売り捌き方。詰まらないジョーク。“タイヨウ”によって分断された廃殻以外の大陸のこと。前文明の時代の景色。法螺話。

 それは炉那にとって刺激的であったし、そして蛮風という人間自体が炉那に大きな影響を与えた。飄然と、あるいは茫洋と振舞い、前文明や月都へ畏れもせず「そう逸脱機など、大したもんじゃねえんだぞ」と謳って見せる、何処から来たかもわからぬ風来坊。時に顔も見たくないほど嫌いになった。その生き方に憧れたこともあった。全て、疲弊し絶望し、空っぽになったあの時のままじゃできないことだ。

 だからきっと炉那が強くなれたのも、あの男のお陰なのだろう。だが――――。


 気づけば洗面所はとっくに過ぎていた。心中を覗いている内に、前が見えないまま歩き続けてしまったらしい。

 ここは何処だと見渡してみれば――すぐそこに、隙間から光が零れる扉があった。



「……こんな時間まで何やってる」

 びくっと小動物のように体を震わせて、アルナがこちらを向いた。申し訳なさそうながら、口元は綻んでいるのだから憎たらしい。

 アルナはまだ明るい執務室の中で、ビニールシートの書類や対太陽風加工をした電子端末に埋もれていた。確実に仕事の類だろう。こんな時間まで続けているとは、驚きではなく呆れて何も言えない。

「あはは……。今日中に企業連との締約を纏めておきたくて」

「そんなこと明日でもできるだろ。わざわざ仕事を伸ばして、馬鹿じゃないのか?」

「ううっ。か、返す言葉もございません……」

 叱られた子供のように、アルナの頭が下がる。

「……心配かけてごめんね」

「心配してない。何一つ、だ」

 若干、食い気味の返答だった。そのことすら炉那は何故か恥ずかしく思えてきて、ばつが悪くなって執務室のソファに腰を落ち着ける。

 アルナはきょとんと眼を丸くした後、心底嬉しそうに微笑むと、「すぐに終わらせます」といって再び電子端末に向き直った。


 打鍵音だけが、断続的に奏でられていた。

 窓の向こうでは空に月。それに重なるように、停止した“タイヨウ”の黒い円。

「……北辰」

「はい?」

 ソファに身を預けながら、炉那は夢うつつのごとき心情で言葉を零す。

「……“タイヨウ”を落としたら、その後は、どうするんだ?」

 打鍵音が止まった。そののちに、人差し指が唇に触れ、少しだけ迷うような時間が生じる。

「そう、ですね……大規模な環境の変化が考えられます。太陽官としてそれを放置することはできませんから、まずはそのための補償を各地へ。そのための委員会も既に作り始めています」

「そうか」

「前にもお話したように、私の目的は廃殻の発展と月都との接続なので、そのまま両者の経済活動をさらに促進させます。企業連の廃殻開発支援は決まりましたから、あとはこれをどう廃殻全体に浸透させるか」

「そうか」

 アルナが黙し、視線を上げる。その白金が困惑したようにこちらを見るのを、炉那は見つめ続けた。

「……その、炉那さん、どうかしましたか?」

 ああ、自分を心配してくれているのだな、と炉那にはわかった。わかった上で、彼にはそれが受け入れられなかった。鉄の腕がソファから離れる。

「……わかんないよ、あんたのこと」

 不安そうに自身を見上げる少女の前に、炉那は立ち、その細く白い体躯に向かい合った。月光を少しだけ浴びて、より一層儚さを見せるその容姿の内を、見通そうとするかのように、炉那は眉間にしわを寄せる。

「どうしてそんなに馬鹿正直に進めるんだ?どうしてそんなに、自分の力で何もかも変えられると信じ切れるんだ?」

「……私一人の力では、ありません。多くの方が私についてきてくれるから、私もやっとのことで、ここまで」

「いいや」

 一歩、進み炉那はアルナの机の前に立ち、彼女を見下ろす。炉那の影がアルナを覆う。

「それはあんたが“タイヨウ”を落とせると信じて疑わないからだ。あんたに誰も彼も惹きつけられているから……あんたの、目的への迷いない前進に誰もがな」

「ろ、炉那さん?」

「お前は“この世界を好きになるために”戦ってるっていったけど、それだけじゃやっぱり説明がつかない」

 炉那はたった今己の心中で認めた。目の前の少女に最も惹きつけられていたの自身だったことを。今見下ろしている少女は、竦んでいるけれど、だけど知っている。彼女はここに来るまで殺されかけた。裏切られた。死にかけた。失望された。それなのに、現在を変えるための計画を一向にやめる気配はない。それこそ日が何度でも昇るように――なんどでも立ち上がって見せる。

 あの“大羿”の大伽藍で受けた彼女の言葉に、はっきり言って炉那は打ちのめされた。何故そこまで未来に期待できるのか、知りたくなった。

だけど今はむしろ、彼女が怖い。幾重濁流めいた悪意に苛まれようと、何度だって希望を語って見せるその強かさが、何によって形作られているのかわからない。

「なんでだ……」炉那の鉄腕が伸び、アルナの肩を掴む。困ったように見上げる彼女は、彼のその顔を見、ついに表情を無くした。

 少年は、烈火に炙られ苦悶するかのような表情だった。

「なんで、こんな世界を肯定しようとするんだ?」


 だって、それは炉那ができなかったこと。

 隣人に裏切られ、父を殺され、世界に捨てられた彼にはできないこと。この世界が変わるなんて、語れば人々が動くだなんて、裏切られても間違っても再起できるなんて、彼には信じ続けられなかった。だって世界は非情で巨大、抗うものはその歯車で押しつぶし、一握りの希望を抱いたものすら、運命から拷問にかけられる。それに無残にも轢きつぶされ、衰えたものは背を丸め、地を這い、嘯くしかない。“こんな世界はもう要らない”と。

 そんな世界の只中で、毅然と熱風の前に立ちはだかり、「こんな世界なら変えてやる」と宣言する彼女が――己のできないことをする彼女が、自分の遠い遠いところにいるようで、とても怖く、寂しいのだ。



 アルナの繊手が、距離感を掴みかねるように宙で揺れた後、炉那の鉄腕に触れる。そして、何かを呟こうとしたとき、

 宿舎が震え、爆炎が瞬いた。

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