独鬼傷談

橘 泉弥

独鬼傷談

「早く死ね!」

 初めてそう言われた時、僕は救われた気がした。

 この地獄から抜け出すなんて、簡単な事じゃないか。死ねばいい。死ねばこの苦しみから解放される。

 森を駆け抜け山を走り、この辺りで一番高い崖の上に立つ。曇天を見上げ深呼吸を一つして、飛び降りた。

 耳をかする風音と共に木々が迫る。身体中に次々と衝撃が来たと思ったら地面に叩きつけられ、気を失った。

 冷たい風に目を覚まして、全身の痛みに思わず呻く。やっぱり死ねなかったのか、と落胆した。

 それから半刻の間に折れた骨は元に戻り、痣は全て消えて痛みも治まった。

 その時になって清々しさと解放感に気付く。飛び降りる前に身体を支配していた自己嫌悪や絶望、巨大な不安と苦しさは、跡形も無く消え去っていた。

 だから僕は、辛い時には自分を傷つければいいと学んだ。あれから十年以上経った今でもそうしているし、これから先も止める気はない。



 里を出て一人で暮らし始めてからどのくらい経つだろう。めぐる季節を数える事はしていないし、自分の成長速度も人間と違うからよく分からない。

 しかしまあ、自然にはそもそも人間の創った時間の単位など関係ないのだから、重視する必要もないか。

 山菜を摘みながらそんな事を考える。春の山はのどかで落ち着いている。僕の一番好きな季節だ。

 蕨を採っていると、突然近くの茂みが揺れた。仔熊だろうかと警戒する。近くに親がいたら厄介だ。いくらすぐに治るとはいえ、痛いのは嫌いだ。

 茂みから出てきたのは少女だった。僕を見て目を丸くした後、大声で泣き出す。

 仕方がないので、僕は少女が泣き止むのを待ちながら彼女を観察した。

 四、五歳くらいだろうか。何故か晴れ着に下駄を履き、風呂敷包みを抱えている。山に一人でいるなんて不自然だ。そもそも、この山に人が入ってくる事自体珍しいのに。

 少女はしばらくして泣き止んだ。

「どうしたの?」

 僕はしゃくりあげる少女に声を掛ける。人間と話すのは久しぶりだ。

「お名前は?」

「……智那ちな

 少女は高い声で言った。

「智那、こんな所で何をしているの?」

 智那は答えない。赤い眼で僕を見上げた。

「鬼さん、智那のこと食べちゃう?」

「食べないよ」

 僕はなるべく優しく言った。

 確かに僕の頭には角が生えていて髪も白い。怪我も異様に早く治るし、口の中には牙もある。しかし食生活は人間とそんなに変わらない。

「良かったぁ」

 智那は安心したように息をついた。

「ここで何してるの?」

 僕はもう一度訊く。

「おばあちゃんち行くの」

 智那は堂々と答える。

「あのね、山の向こうのおばあちゃんに、おいにり届けるの」

「おいにり?」

「うん!」

 智那が風呂敷をめくると、そこには白米の握り飯が三つあった。

「いいでしょ、白い御ご飯だよ。お腹が空いたら食べてもいいって」

「……そっか」

 この山の向こうに人は住んでいない。ただ黛青の山々が広がっているだけだ。

 この子は捨てられたのだろう。晴れ着と白米は、せめてもの罪滅ぼしか。

 さてどうしたものか。このままでは、少女は狼か熊に襲われて命を落としてしまうだろう。となると、選択肢は一つしかなかった。

「智那、僕の家においでよ」

「えー、おばあちゃんち行くー」

 それは危ないし、きっと「おばあちゃんち」は存在しない。見殺しにするくらいなら、多少強引でも連れ帰った方がいいだろう。

「おばあちゃんちはすごく遠いんだ。きっと疲れちゃうから、僕の家で少し休んでいったらいいよ」

「そっか!」

 智那はぺこりと頭を下げる。

「お世話になります」

「うん、行こうか」

 少女に左手を差し出され戸惑った。どうしろというのか。

「お手てつなご」

「ああ、そうだね」

 少女の小さな手をそっと握る。とても柔らかくて驚いた。

 獣道を歩き、ねぐらにしている小さな洞窟に帰る。

「鬼さん、こんな所にすんでるの?」

「そうだよ。鬼さんだからね」

「ふうん」

 何とか家には連れてこられたが、これからどうしようか。きちんと引き留めなければ、少女は変わらずおばあちゃんちへ行こうとするだろう。

 案の定、水を飲んで握り飯を一つ食べた少女は、残りのおにぎりを包んで立ち上がった。

「お休みしたから、そろそろおばあちゃんち行くね。ありがとうございました」

 僕は急いで少女の柔らかな手を掴む。

「もうすぐ夜になるから危ないよ。おばあちゃんちに行くのは明日にしよう」

「え、でも……」

「夜に山を歩いたら、怖い熊や狼に食べられちゃうよ?」

「やだ!」

「じゃあ、今日はここに泊まろう」

「……分かった」

 これで一晩はかせげた。ひとまず胸を撫で下ろす。

 夜は智那に布団を貸した。それに包まり、少女は父母を呼んですすり泣いていた。心細かったのだろう。

 翌朝になると、智那はまた握り飯の包みを持った。

「泊めてくれてありがとうございました。おばあちゃんち行くね」

 僕は急いで洞窟の入り口に立ちふさがる。

「実はね、おばあちゃんちはとっても遠くて、今の智那ではとても歩いて行けないんだ」

「そうなの?」

「うん。だから、智那がもう少し大きくなってからにしよう」

 ちょっと無理があるだろうか。どう返ってくるか緊張していたが、智那は素直に頷いた。

「分かった。もう少し大きくなってからにする」

 それから、僕と智那の二人暮らしが始まった。

 二人分の食料を集めるのは大変だったけれど、智那のためだと思うとなぜか頑張れた。

 最初は山での生活に戸惑っていた智那も時が経つにつれて段々慣れてきた。

「智那、もう大きくなった?」

 と僕に訊ねて祖母の家へ行こうとする回数も、三日に一度から十日に一度になり、月に一度になり、あっという間に二年が過ぎた。

「ねえ鬼さん、今まで気にしてなかったけど、鬼さんのお名前は何ていうの?」

 自称六歳の智那に訊かれ、僕は困った。

「教えてよ。いつまでも『鬼さん』じゃ困るでしょ」

「名前は……無いんだ」

「そうなの?」

「……」

 人に名前を呼ばれた覚えなんて無かったし、親も僕の事をお前とかこいつとか呼んでいた。里を出てからはそれで困った事も無かったから、自分に名前があるのかすら分からない。

 正直にそう伝えると、智那は少し困惑してから、にこっと笑った。

「じゃあ、あたしが名前つけてあげるね」

「いいよ今更。無くても困らないし」

「でも、名前はあった方がいいよ。あたし、鬼さんの名前呼んでみたい」

「そっか」

 智那は数日考えて、「鬼吒おにた」という名を僕にくれた。

「じゃあ、鬼さんはこれから鬼吒さんね」

「うん、分かった」

 それから智那は、僕の事をそう呼ぶようになった。名前なんていらないと思っていたけれど、そう呼ばれるたび嬉しくなる。名前があるのはいい事だ。呼んでくれる人がいるのはもっといい事だ。こんな自分と話してくれる人がいると思うだけで、何だか嬉しくなる。僕は「鬼吒」だ。

 智那は本当に優しくて、一緒にいると嫌な感覚を忘れられる。

 ただ、その酷い自己嫌悪や息ができない程の苦痛は不定期に僕の胸を支配する。でも、そういう時は左前腕を尖った岩にぶつけたり、自分の頭を拳で殴ったりすればすぐに楽になるから大丈夫だ。

 この事を智那に知られたくないとは何となく思ったから、いつも彼女の目につかない所でこっそり自分を傷つけている。痣も瘤も四半刻もせず治るから、気付かれる事はない。

 僕の暗い一面など知らず、智那はすくすく成長して十歳になった。

「はい、新しい服だよ」

「ありがとう」

 着物を受け取った智那は、その恰好のまま何やら考え込んだ。

「どうしたの?」

「ねえ、この服ってどこから持って来たの? お布団とかお鍋とかもだけど、山には無いよね?」

「ああ」

 僕は、山に無い日用品は麓の里から盗んできている事を智那に伝える。

「駄目だよそんなの!」

 智那は眉をしかめた。

「泥棒は悪い事だよ。鬼吒さんたらいけないんだ」

「でも……そうしないと生活に困るから……」

 里から物を盗ってくるのが悪い事だなんて知らなかった。

「これから里に謝りに行きなさい」

「え……」

 今は昼間だから、里の人間はきっと起きている。

「嫌だよ。見つかったら大変な事になる」

「でも、悪い事したら謝らないといけないんだよ、ごめんなさいって」

「だって……」

「あたしも一緒に行ってあげるから」

「……」

 結局智那を説得する事ができず、里へ行く事になった。

 不安を感じながら山道を下る。青空の下に家々の屋根が見えてくると、嫌な思い出がよみがえってきた。

「やっぱりやめよう。また機会があったら謝ればいいよ」

「駄目。謝るのは早い方がいいの」

 とうとう里の外れについた。

「着物はどの家から盗んだの?」

「もっと向こうの家だよ。でも、ここから謝ればいいと思うんだけど……」

「ちゃんとしなきゃ駄目でしょ。ほら行くよ」

 智那は里の中へ歩いていく。離れる訳にもいかないので、仕方なく歩を進めた。

 どこからか視線を感じて下を向く。智那を追って進むほどに視線は増え、里の中央辺りについた時には四方八方から刺さっていた。

 智那も異様な雰囲気に気づいたのだろう。僕の足にしがみついてきた。

 どうしよう。どうしたらいい?

 考えている内に、どこからか石が飛んできた。それは僕の頭に当たって地面に落ちる。

 それを皮切りに、次々とつぶてが襲ってきた。急いで智那に覆いかぶさる。身体中に痛みを感じながら彼女を抱き上げ、小石の飛んでくる中を走った。

 里を出て山道に入り歩を緩める。

 智那は声をあげて泣いていた。

「怪我は無い?」

 返事はなかった。あんな事になるとは思っていなかったのだろう。混乱しているのか、少女は大声で泣きじゃくる。

 家に帰って布団に降ろすと、落ち着いてきたのか智那は少し静かになった。

「なんで? 謝ろうとしただけなのに、なんでみんな石投げるの?」

 真っ赤な顔でしゃくりあげ、とめどなく涙を流す。

「……ごめんね」

 僕は謝るしかなかった。

 落ち着かせようと思って撫でていたら、智那は泣き疲れて眠ってしまった。

 里に行ったのは間違いだった。怒ってでも智那を止めるべきだった。後悔しても遅い。

 そして、暗い衝動がのしかかってきた。

 僕はやっぱり存在してはいけないんだ。生きている価値なんか欠片も無くて、死んだ方がいい生き物なんだ。息が苦しい。涙が出そうになったから、いつも通りお前に泣く資格は無いよと言い聞かせた。胸が痛い。そうだ、お前なんかいなくなればいいんだ。お前なんか要らない。早く消えろ。腕をぶつけても、頭を殴っても、痛みは感じない。辛くて、苦しくて、助けて欲しくて。違う、誰も助けてはくれないのだから、そんな事考えちゃいけない。

 徐々に痛みが感覚を支配してくると、気持ちは落ち着く。もう大丈夫だ。

「……」

 こんな事、智那に知られる訳にはいかない。きっと気持ち悪がるだろう。

 眠る少女の頬の涙をそっと拭く。僕も、今日はもう寝よう。

 それから、智那は二度と里へ行こうなんて言わなくなった。僕が麓へ下りる時は心配し、くれぐれも気を付けてと何度も言う。僕は彼女を悲しませないよう、人間に見つからないようにより用心するようになった。お陰でここ数年は石を投げられていない。

 季節がめぐり、智那は段々大きくなる。背丈は僕の肩くらいになったし、体力も度胸も大分ついた。

「猪狩って来たよー」

 初めて言われた時は驚いたが、今ではもう、牡丹鍋は夕食の定番だ。

「お帰り」

「ただいま。あー重かった」

 智那は猪をどさっと床に降ろして、自由になった肩をぐるぐる回す。我が子ながら逞しく育ったものだ。

 夕食を食べながら、智那がふと首を傾げた。

「鬼吒さん、その痣どうしたの?」

「え?」

「ほら、左腕のところ」

 持っていた器を置いて左腕を見、僕は驚いた。昨晩岩の角にぶつけた痣が、まだくっきりと残っていた。

「……ちょっと、ぶつけちゃって」

 嘘はついていない。深く訊かれたらどうしようと緊張したが、智那は突っ込んでこなかった。

「そう。気を付けなきゃ駄目だよ」

「うん」

 普通はわざとぶつけたなんて思わないだろう。助かった。

 でも、どうして消えなかったのだろう? 強くぶつけすぎたか? 体調が悪かったのかもしれない。

 しかし、痣や瘤は段々消えなくなっていった。全身打撲だって半刻もせず治っていたのに、今は痣一つ消えるにも二、三日かかる。赤や紫に膨れた左腕を隠すため、僕は長袖の服を着ている事が多くなった。

 北風が吹き始めたある日、智那が数年ぶりにあの質問をした。

「ねえ鬼吒さん、あたし、もうおばあちゃんち行けるくらい大きくなったかな?」

「まだだよ」

 僕はいつも通りに答える。

「おばあちゃんちはとっても遠いからね。今の智那じゃまだ無理だ」

 でも、少女の反応はいつもと違った。

「……もういいよ」

 そう言われ、僕は薪割の手を止める。

「もういいって、何が?」

「あたしね、本当は分かってるの。おばあちゃんちなんて、どこにも無いんでしょ?」

「それは……」

 すぐに否定できなかった。

 智那の両眼に涙が溜まる。

「あたし、お父さんとお母さんに捨てられたんだよね……」

 涙は柔らかな頬を伝う。僕は立ちつくした。

「本当は前から分かってたんだ。おばあちゃんちなんか無いって。厄介払いされただけなんだって」

 大粒の雫はぽろぽろと智那の眼からこぼれてくる。

「何が悪かったんだろう。どうしてあたし、捨てられたのかな……」

「……寒くなってきたから家に入ろう。あったかいお茶を煎れるから」

 火を焚いて傍に智那を座らせ、僕もその隣に座る。お湯が沸けるまで、智那はじっと炎を見ていた。

「……お父さんとお母さん、あたしが邪魔だったのかもしれない」

 湯呑の中で揺れる液体を見ながら、智那はぼそっと言った。

 僕は掛けるべき言葉が分からなくて黙り込む。

「どうして、なんでってたくさん考えたけど、分からなかった。里にいた頃の記憶、寒い中家の外に立ってて、中から聞こえてくる笑い声が羨ましかった事一つだけで……」

 智那の両眼で水が揺れる。

「あたし、悪い子だったのかな。だから捨てられたのかな……」

「そんな事無いよ」

 僕の口はやっと動いた。

「そんな事ない。智那はずっといい子だし、智那がいてくれて僕は嬉しいよ」

 自分で言いながら、こんな言葉は意味がないと気付く。本人がそう思っている以上、周りが何を言ったって心には響かない。疑い深くなり、人に頼れなくなるだけだ。

「あたしなんて、いない方が良かったのかな……」

 それを聞いた途端、僕はぞっとした。

(駄目だ。それは思っちゃいけない)

 出会った頃よりずっと大きくなった身体を引き寄せ、強く抱き締める。

「鬼吒さん?」

「生まれてきてくれてありがとう。そのままの君を愛してる。どんな君だって大切な存在だし、かけがえのない僕の一部だ」

「……」

「だから、辛い時は辛いって言っていいし、いつでも助けてって頼っていい。お願いだから、独りで泣かないで」

 耳元で泣き声が聞こえる。僕は益々強く智那を抱きしめた。

 半刻程して泣き声が落ち着いてきたから、ゆっくり智那を離す。

「落ち着いた?」

「うん。ありがとう」

 涙を拭って顔を上げ、智那は微苦笑する。

「どうして鬼吒さんまで泣いてるの」

「え……?」

 頬に触り、僕は初めて自分が泣いている事に気付いた。

「どうしてだろう……?」

 僕に泣く資格なんてない。泣いちゃいけない。そう自分に言い聞かせても、涙はどんどん溢れてくる。

(ああ、そうか……)

 僕が泣いているのは、智那に言ったあの言葉が、僕がずっと欲しがっていたものだったからだ。僕は誰かに愛されたい。辛い時に辛いって言って、助けてって頼りたい。独りで泣きたくない。

「……何でもないよ」

 僕は無理やり笑って見せた。

「夕飯にしよう。茸汁でいい?」

「うん」

 とにかく、智那が元気になったなら良かった。腹が満たされれば安心もするだろうし、早く作ろう。

 智那が布団に入った後、僕は家の外に出た。冷たい風を感じながら、木々の向こうの星空を見あげる。

 夜空はいい。深く広く世界を包み込んで、罪悪感や嫌悪感を優しく許してくれる。

 神羅万象は美しいものだ。動物たちは懸命に生き、植物は自由で山は堂々と佇んでいる。この世界の欠点はただ一つ、僕が生きている事だけだ。

 もし僕が頼りにしてもいい人がいるとすれば、誰だろう。智那だろうか。でも迷惑をかけるのは嫌だ。そもそも誰かを頼っていいのか分からないし、人に頼る方法なんて知らない。僕は独りだ。

 十四歳で智那が辛い事実に気付いてしまってからしばらく気を付けて見ていたけれど、大きく変わったところは無かった。

 長い冬が過ぎて蕗の薹が雪の下から顔を出す頃、事件が起きた。着替えているところをうっかり智那に見られたのだ。

「何それ……」

 僕の左腕にくっきり浮かんだいくつもの痣に、智那は尻込みする。思い切り岩にぶつけた痕は、消えるのに十日以上かかるようになっていた。

「この前沢で転んだ時に、岩にぶつけて」

「だったら痣は一つの筈でしょ。そんな何個もできるはずない」

「い、岩場だったからかな」

「じゃあ何で他の所にはできてないの? まるで前腕だけ何度もぶつけたみたい……」

 そこまで言って、智那は息を吞んだ。

「まさか……わざとやったの?」

「……」

 僕は返事ができず黙り込む。知られてしまった。もう隠し通せないだろう。

「どうして?」

「……意味は無いよ。何となく、そんな気分だっただけ……」

「そんな気分てどんな気分なの。分からないよ」

 僕だって分からない。どう説明したら智那が納得するのか。落ち着くから、なんて言ったら気味悪がられてしまうだろう。自分を傷つけている時の気持ちも、うまく説明する事はできない。

「止めてよ」

 智那は震える声で言う。

「もう二度とそんなことしないで。見てて痛いよ」

 そうだよな、と納得した。誰だって、家族が怪我をしているのは嫌だろう。

「分かった。智那の前ではもうしない。痣もずっと隠してるよ」

「そうじゃないよ!」

 怒られてしまった。でも何故なのか分からない。目につかなければ嫌な思いもさせないだろうし、迷惑もかけないのに。

「違うの?」

「違う!」

 そう言われても困る。分からないものは分からない。 

「じゃあ、痕を残さないように頑張るよ」

「そうじゃないってば! もう、どうして分からないの!」

「……?」

 分からない。何か悪い事をしたのだろうか。

 僕が泣きそうな顔をしていたのかもしれない。智那は口調を和らげた。

「お願い、自分の事を傷つけないで。あたしが悲しいから」

「……分かった」

 智那に言われてからなるべく止めようとしてみたけれど、止められなかった。痣や瘤は増えていったし、僕は暗く大きなどうしようもない絶望を解消する術を、他に持っていなかった。

 智那もぼくの悪い癖が治っていない事は薄々感づいていただろう。でも、何も言わなかった。食事の時たまに気まずい空気が流れる事はあったが、わざと無視した。

 そうしている内に月日は経ち、智那は十六歳になった。背は伸びて幼さも顔から消え、もう立派な大人だ。自由に山を駆け回り、獲物も上手に狩る。

 今日の夕飯も、彼女の獲って来た鹿だ。

「そういえば今日、大杉の近くで男の人に会ったよ」

「人間がいたの?」

「うん」

「珍しいね」

 里の人間は、僕がこの山にいる事を知っているから登って来ない。新参者だろうか。

「どんな人間だった?」

「背が高くてがっしりしてて、優しかったよ」

「優しかった? 話をしたの?」

「うん」

 僕は顔をしかめるが、智那はどこか嬉しそうだ。

「最近里に越してきたらしくて、里の周りを探索してるって言ってた。この山は自然が豊かでいい所ですね、だって」

「そう……」

「一緒に里に来ないかって言われたから、あたしには鬼吒さんがいるからいいって断ったよ」

 僕は驚いて顔を上げた。

「僕の事を言ったの⁉」

「うん……駄目だった?」

「駄目じゃないけど……」

 できれば言って欲しくなかった。人間には、なるべく忘れられていたかった。

 嬉しそうに男性と話した事を語る智那を見て、僕はふと考えた事を口にした。

「智那は、里で暮らしたいと思った事はないの?」

 肉をもぐもぐと噛みながら、智那は斜め上を見る。

「うーん、石投げられた事しか覚えてないし、行きたくないな」

「でも、僕と一緒じゃなければ大丈夫だと思うよ」

「あたしは山の方がいいの。今更人間の社会に入るのも難しそうだしね」

「そっか」

 そう言われて少し安心した。彼女が自分の傍からいなくなるのは嫌だと思ったからだ。

「あたしはずっとここにいるよ。山は楽しいし、鬼吒さんと一緒がいいもん」

「ありがとう」

 話は平和に終わったので安心していたのだが、数日して大事になった。

 二人で朝食の支度をしていた時、突然人間が六人、家の中に入って来たのだ。驚いて何もできずにいると、彼らは僕と智那の前に立ちふさがった。

「お前が鬼だな。その女性をこちらに渡せ!」

 僕は智那を背中に隠す。鎌や鉈、棍棒を持った人間達の前に彼女を出すなんてするはずがない。

 この人達はいきり立っているようだから、まず落ち着かせなければと考えた。

「話があるなら、お茶を飲みながらにしようよ」

「うるさい!」

 最初に喋った男が怒鳴った。

「今まで見過ごしてきたが、もう我慢ならん! 今日こそお前を殺してやる!」

「どうして?」

 僕はぎょっとして聞き返した。物を盗み過ぎただろうか。でも今まではこんな事無かったのに。

「里の娘を誘拐した事、許されると思うか!」

「待ってよ!」

 僕を押しのけて智那が前に出る。

「あたしは誘拐なんかされてない。捨てられたのを鬼吒さんが拾ってくれたの!」

「かわいそうに、鬼にそう言われて信じてしまったのだな」

「違う!」

 一人の男がさっと智那を引き寄せた。

 慌てて前に出た途端、頭に衝撃が来た。立っていられなくて倒れると、次々に武器が降ってきた。

「鬼吒さん! 止めて! 放して!」

 悲鳴に近い智那の声が聞こえる。

 助けに行きたいのに、丸まって攻撃に耐えるのが精一杯だ。

 身体中に激痛を感じる。殴られ蹴られ切りつけられて、ああ、と妙に納得する。智那が優しいから忘れていたけれど、これが僕の受ける正しい仕打ちだ。僕は鬼なんだから。

 子どもの頃からそうだった。僕は人間の親から生まれた忌子で、里の災いだった。家でも外でも殴られ蹴られ罵倒されて、我慢できずに山へ逃げた。ずっと独りで生きてきた。

 痛みで感覚が麻痺してきた。頭がぼうっとする。身体から力が抜けていく。視界が暗くなってくる。

(一度でいいから、誰かに愛されてみたかったな……)







 目を開けると家の天井があった。

「鬼吒さん!」

 智那の声がした。起き上がろうとしたけれど、身体に力が入らない。目だけを動かして枕元の彼女を見た。

「良かった。目が覚めたんだね」

「……あの人達は……?」

「包丁振り回して追い返した。何人か怪我させておいたよ」

 そう言う智那の眼に涙が溢れる。

「良かった……本当に良かった……」

 心配してずっと傍にいたのか、智那は少し痩せていた。僕が目覚めて安心したらしく、声をあげて泣き出した。

「智那は本当に泣き虫だね」

「そんな事ないもん」

 智那はひとしきり泣いた後、息をついて涙を拭いた。

「あのね、あたし考えたの。どうして鬼吒さんが自分を傷つけるのか」

「……」

 僕が眠っている間に彼女は色々考えたらしい。どうしたら僕が自分を傷つけるのを止めるのか。

「でもね、答えは見つからなかった」

 そう言いつつ、智那はどこかすっきりした顔をしている。

「鬼吒さん、ずっと苦しかったんだよね。辛くて苦しくて光なんて欠片も無くて、どうしようもなくて自分を傷つけてたんでしょう?」

「……そうかもしれない」

 心を押しつぶすような不安と絶望から逃れる方法を、それしか知らなかった。心の痛みを身体の痛みに置き換える事でしか、苦痛に耐える事ができなかった。

「じゃあ仕方ないよ。鬼吒さんがそれで救われるなら、仕方ない」

 その言葉はすとんと胸に入って来た。安心したというか楽になったというか、視界が明るくなったようだった。

「あたしその度に手当てするから。辛い思いをしてたらいくらでも話を聞くし、抱きしめて愛してるって言うよ」

 智那は僕に言い聞かせるようにゆっくり言う。

「だからお願い、もう独りで泣かないで」

「……分かった」

 何故だろう。その時心から、もう自分を傷つけるのは止めようと思えた。何十年も心に閊えていた物が、すっとなくなったようだった。

「……ありがとう」

「うん」

 それから僕達は、僕が動けるようになるのを待って旅に出た。人間の報復が怖かったし、もう誰かに傷つけられたくなかった。

 僕の痣や瘤は段々消えていった。智那に心の内を相談する事も多くなってきたし、経過は順調だ。

 まだたまに不安で眠れない夜もあるし、耐えがたい絶望感に襲われる時もある。自分が鬼である事に変わりはないけれど、もう独りではないのだし、僕はまっすぐ生きていこうと思う。

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