真っ直ぐ
ゆうり
真っ直ぐ
「前髪、何本か長いのあるよ」
相変わらず空気が読めない男だと心の底から思った。約15分ほど前に別れ話をしたばかりだ。もう既に別れていて"元彼女"である私の家から出ようとしている時に、ドアノブに手をかけながらこちらに目線を向けて彼は笑った。なんだその笑顔は、と頬を引っ張ってやろうと思ったがやめた。彼は、最後までずっとずっと私の好きな彼のままだったから。
「…じゃあ切ってよ」
彼が何を思ってどんな返答を求めてそう言ったのかは分からない。彼のことだから何も考えずにただ思ったことを言っただけかもしれない。でも、その彼の言葉のお陰で言いたいことを全然言えずにいた私は遠回しにだけどもう少し側にいて、と本音を伝えられた気がした。
彼は驚くくらいの馬鹿正直で、空気が読めない。口に合わない料理は店員の前でも不味いと言うし、貰った誕生日プレゼントを友達の前で開けて笑いもせずに「同じもの持ってる」と言って相手をガッカリさせたこともある。でもそんなもの全てに彼に悪気なんてない。思ったことを上手く伝えられない私は彼のそんなところに惹かれた。そんなにハッキリ言わなくても、と思ったことはないと言ったら嘘になるが、いつも真っ直ぐに素直に愛を伝えてくれる彼が愛おしてくてたまらなかったのだ。最後に愛は勝つ、とはまさにこういうことだと私はいつも心を弾ませていた
でも彼は今日、私の心の弾みを止めた。夕食を食べながら彼は「あのさぁ、」と声を発した。「何?」箸で漬物を掴んでいた私は自分の手元を見たまま返事を返したが、すぐに彼に視線を合わせた。
「職場に可愛い子がいてさ、その子と話すと何か…ドキドキするっていうか…」
なんて呟いたからだ。少し頬を赤く染めた彼に動揺して、漬物がスルリと箸から落ちて真っ白な皿の上に静かに落ちる。
「…どういう、こと」
「きっと恋だと思う」
ハッキリと、確信だと言わんばかりの目で彼はそう言った。恋心を秘めている青年のような顔つきをした彼に思わず息を呑んだ。
「だから、別れてほしい」
そして、静かにそう付け足した。馬鹿正直にも程がある。彼の素直なところをこんなにも嫌に感じたことはない瞬間だった。いい歳して恋だと思う、なんてアホか。そう思いながらも彼に恋された相手に嫉妬心を感じていた。
「待って、また、後で…話そう」
上手く言葉が出なかった。途切れ途切れにそう言うのが精一杯だった。その子はどんな子?いつからそう思ったの?私のことはもう好きじゃないの?聞きたいことなど山ほどあった。彼の馬鹿正直なところを半分分けて欲しいと思った。
先程テーブルに落としてしまった漬物をもういちど箸で掴んで、口に運んだ。いつもと同じくらいの時間で漬け込んだはずなのに、いつもよりも酸味が強く感じた。シャキ、シャキ…と漬物を噛む音だけが家の中にきまり悪そうに響いた。
食べ終わった食器を下げた後、ソファに隣同士に並んで座り、彼が恋する女の子の話をし始めた。ショートヘアーが似合うとか好きなバンドが同じだとか決して聞きたくない彼の話に私は耳を向けていた。嫌なら話をするのをやめて、と言えばいいのに。でも、彼が恋した女の子のことが気になって仕方がなかったのだ。
「話していてすごく落ち着くし、笑顔が素敵で…そういうところが好きなんだよね」
私と話していても落ち着かないのか。私の笑顔は素敵じゃないのか。そう聞いたら彼は「そういう訳じゃないよ」と否定するのだろう。どこが好きとかここが好きとか、彼にとって大した重要なことではないだろう。好きになった理由を述べて、自分の恋心を私に認めて欲しいのだろう。
私は彼の方を見ようとはしなかった。私以外の女の子のことを思い浮かべてる彼と、ちゃんと目を合わせられる自信などなかった。鼻の奥がツンと痛む。彼の口から私以外の女の子への、好きだという言葉が出てきてるのが何とも不愉快だった。でも彼にも、彼が恋する女の子にも、怒りが湧いてこなかったのは私が恋をする気持ちを十分に分かっているからだろう。私だって、彼に相当酷く恋しているのだから。
「……うん、別れよっか」
彼の話の途中で私は下を向いたまま、そう言った。きっと彼は私の方を見ている。どんな顔で私を見ているのか気になったが、視線を合わせることなどできなかった。
「…ありがとう」
こんなにも涙が出そうになるお礼を聞いたのは初めてだ。本当に馬鹿正直だ。ありがとうなんて、言わないでよ。せめて謝ってよ。ねぇ、私があなたにどれほど恋しているのか知らないでしょ?知らなくていいけど、でも、少しだけ知って欲しかった。なんて理不尽なことを今言ったら彼はどんな顔をするだろう。眉を八の字にして困った顔をする彼が頭に浮かんで、私は唇を噛んだ。
「じゃあ…荷物まとめるね」
彼は立ち上がって自分の荷物をまとめ始めた。決めたら、彼に迷いはなくすぐに行動し出す。良いところだろうけど、今はそれがとても悪いところに感じてしまう。嘘でももう少し未練ある態度をとって欲しかった。でも同時に、未練ある態度を見せられたら私は彼に抱きついてしまうかもしれないとも思った。元々多くない荷物をまとめるのにあまり時間はかからなかった。じゃあねと言われても私は無視してやろう、最後の唯一の私の彼への仕返しを考えて私は玄関まで彼について行った。なんて小さく、惨めな仕返しだろうか。ドアノブに手をかけた彼は私の方に体を向けてじゃあね、とは言わずに「前髪、何本か長いのあるよ」なんて言ったのだ。昨日、少し傷んだ毛先を切ってもらいに美容室に行った際、ついでに前髪も切ってもらった。前髪を切ってから、一日経つと長い毛が何本か見えてくるのはいつものこと。そういえば朝、鏡を見て少しガタガタだなと感じていた。
だからって、今言うべきこと?未練があるのは、私だけなのだろうか。私がもっとたくさん素直に愛を伝えていれば、何かが違っただろうか。何て今更悔やんでももう手遅れだろう。これ以上傍にいてはダメだと思いつつも、あと少しだけど傍にいて欲しいと思ってしまった私は彼にハサミを渡した。
荷物を玄関に置いてゴミ箱を握りしめた私の前に彼は座る。ひんやりしたハサミが少し熱くなっている閉じたまぶたに当たる。ハサミを持っていない方の手が私の頭に触れて、そこだけがじんわりと暖かい気がした。
しばらくして、ゆっくりと動いていたハサミをテーブルに置く音が聞こえた。
「よし、目開けてこっち見て?」
そう言われて私は目を開ける。彼と、目と目がしっかりと合った。生まれて間もない赤ん坊のような頼りない表情をした彼が私の目に映る。彼の目に映るのも、今は私だけだ。これからもずっと私だけを見ていて欲しかった。他の女の子の可愛い部分なんて見つけないで欲しかった。私は咄嗟に目を伏せた。好きだ、彼が。今日、初めてしっかりと彼の顔を見た気がした。
「しっかり揃ったよ」
彼はにこやかに、でも下手くそに、口角を上げながら私の頬についた毛を手で払った。もっと前髪がガタガタだったら良かったのに。なんて思うのは彼が私の前からいなくなるのを拒んでいるから。彼の触れる私の頬は少しずつ熱くなる。そのことに気づいて欲しくなくて、私は彼の手を振り払った。
「ありがとう、いいよ。もう、行っていいよ」
「うん、じゃあね」
何の惜しみもなく、彼は立ち上がった。私は少しだけ顔を上げた。少しだけ彼の瞳が潤んでいる気がしたのは、私の視界がぼやけているせいだ。どんな表情をしているのかなんて見えなかった。彼のことだからきっと申し訳ないような気持ちとか、でも私に別れをきちんと告げることができた安心感とかが入り交じって何とも言えない表情をしているんでしょ?
「…じゃあね」
じゃあねと言われても無視してやろうという仕返しのことなど忘れていた。私は、無理矢理に口角を上げて笑ってみせた。きっと笑顔の仮面を貼り付けたような酷い顔をしているだろう。それでも、涙に濡れている顔を見せるよりもずっとマシだと思った。ゴミ箱を握りしめたまま私は彼の背を黙って見つめていた。バタン、とドアが閉まると私は思い切り鼻水をすすった。
前髪どんな感じだろう。気を紛らわすためにそう思いながら洗面台に向かった。でも、逆効果だった。二本並んだ歯ブラシが一本になっていた。二つ並んでいたコップが一つになっていた。体の中から何かが落下していくのを感じた。そして鏡に目を向けて、きちんと揃った前髪を見て次から次へと涙が頬を伝った。彼に別れを告げられてからもう何時間が経っただろう。初めて私は泣いた。初めてこんなにも心が痛くなっていることに気づいた。
ガタガタだった私の前髪は彼が真っ直ぐに揃えた。まるで、彼の心のように。
真っ直ぐ ゆうり @yuuri0619
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