優しい狼。

 

 このまま直行で帰るとシア君に心配掛けるから、と言って、リーバ君は先の酒場に戻り二階に部屋を取った。


 お互いなんとなく気まずくて、どちらも黙ったまま時間だけが流れてく。

 そうしている間に、どこかに消えてたリューンさんがリーバ君とあたしの服を持って来てくれたから、あたしも顔を洗って着替えをして、今はベッドに二人並んで座ったまま、やっぱりぼうっと黙りこくっている。


 あたしの方から、ごめんなさいって言わなきゃいけないのは解ってた。

 しんと止まった空気を動かすのが怖くて、耳とシッポの先にまで神経を張り詰めながらリーバ君の様子を覗ってるあたしは、やっぱり臆病者だ。


 きし、とベッドが軋む。

 リーバ君がほんの少し姿勢を変えて、あたしを見ていた。


「ごめんねリリ、嘘をついていて。……許してくれる?」


 言い訳も責める言葉もなく、ただまっすぐに謝られて、あたしの顔に熱が上る。


「ううん、違うの。あたしがゴメンナサイって言わなきゃなの。……約束、したのにあたし、いいつけ破って一人で飛び出して、……ホントに、ゴメンなさい」


 声は震えてしまったけど、泣かずにちゃんと言えて良かった。

 リーバ君は黙ってあたしの言葉を聞いて、何も言わずただ優しく笑ってくれて。

 だからもうそれで、終わりにしても良かったのだろうけど。


 あたしは、どうしても聞かずにはいられなかった。


「リーバ君、あたしもう大丈夫だから、どうしてリーバ君があたしに嘘ついてたのか、聞いてもいい?」


 なんとなく解ったような気はする。

 ザイツに聞かされて、リーバ君が〝特別な存在〟だと知ってしまったからかもしれない。


 リーバ君はあたしを見返し、それから静かに息を吐いて目を伏せた。


「今の自分がキライだから違う種族になりたいなんて……悲しすぎると、思ったんだ。願いごとを先延ばしにして一緒に旅をすれば、いろんなひとと出会ってくうちに、もしかしたらきみは自分を段々と好きになれるかもしれない、って」

「……うん」


 あたしも今なら、ちょっとだけリーバ君の言うことが解る。

 種族や外見が変わったって、あたしの中身がちゃんとリーバ君に釣り合うくらいに変われなきゃ、あたしは結局、あたし自身を好きにはなれないだろうから。


 あたしは自分を可哀想がることに夢中で、本当の彼を何も知らず、知ろうともしていなかった。もしも知っていたなら、街に出る前にリーバ君が話した言葉をもっと重く受け止めていただろうに。


 膝をきちんと揃え、姿勢を正して、あたしは隣に座るリーバ君を見上げる。

 大切な話はきちんと背中を伸ばして相手の目を見て聞きなさい、とじいちゃに教えられたことを、今さらになって思い出していた。


「リーバ君。……あたし、ちゃんと解りたいの。全部はムリかもしれないけど、あたしなりに理解して、気をつけるようにするから……、リーバ君のこと、教えてください」


 あたしを見た夜空色の瞳が、少しだけ細められる。

 リリは優しいから泣いちゃうよ、なんて呟いて、長くなるけどって前置きして、そうして彼は話してくれた。


 記憶にも残らない赤ちゃんの頃に、ジェマの女性にさらわれて本当の両親から引き離されたこと。

 彼を利用しようとした彼女をとどめ、実の家族みたいに育ててくれた親代わりの人が、自分をつけ狙う人によって殺されてしまったこと。

 今回みたいなことは初めてじゃなく、何度も何度もあって慣れてしまったこと。

 本当は聖地っていう閉鎖地域から出てはいけなかったのを、どうしてもシア君に逢いたくて、そこの偉い方に一生懸命頼み込んで、いろんな制約を付けられながらもようやく旅の許可をもらえたこと。


 リューンさんは死んでしまった育て親の親代わりだったひとで、だからリーバ君にとってはお祖父ちゃんみたいな存在なんだけど、それでも中位精霊という立場のせいで、彼が意識を奪われるか大ケガをした時以外は力を貸すことを許されてないんだって。

 できるのは防御と逃亡の手伝いだけで、たとえどんなに酷い相手でも、殺したり、魔法で何かしたりすれば、その時点でリューンさんはリーバ君の守護者の役目を解かれてしまう。

 それでも彼がいるお陰で、自分はまるっきりの天涯孤独にはならずに済んだのだと。彼との絆を遺してくれた育て親にも、リューンさん自身にも、本当に感謝しているのだと、リーバ君はせつなげに笑って話してくれた。


 話を聞きながら、リーバ君の境遇にあたしは絶句するばかり。

 ただ、特別な属性で生まれついただけなのに。普通のセイエスなら遭わなくていい酷い目に遭ったり、普通のセイエスなら当たり前に許されることが許されなかったり。


 リーバ君は、そんな自分を嫌になったりしなかったんだろうか。違う属性だったら良かったとか、思うことはなかったのかな。

 あたしはいつも、そればっかり考えてて、……だから、ウソつかれてたって解った時にはひどくリーバ君を責め立てちゃったのに。


 リーバ君の抱えているモノは、本当はあたしなんかと比べものにならかったんだ。


 あたし、何も知らなかった。


 知らない癖に、ひどい言葉を投げつけて、痛い思いさせて、甘えて傷つけて……。


「あたし、最低だね」


 堪えきれず呟いたら、ぽつんと滴が落ちて膝を濡らした。

 この涙は、誰のための涙なんだろう。あたしはこんな時にまで、自分を哀れがって泣いてるんだろうか。


「どうして?」


 リーバ君があたしに聞く。


 自分のことすらちゃんと説明できない癖に、身勝手で甘えんぼなあたしが、これ以上リーバ君を振り回す資格なんてない、――ってちゃんと言わなきゃダメなのに。


「……ふぇっ、……う、ぅぅ……」


 涙、止まれ止まれ止まれっ。


 そうやってまた彼を心配させて困らせて、そんなことしかできないあたしなんか、消えてしまったらいいのに。

 もう誰にも迷惑かけなくていいように、全部消えてなくなっちゃえばいいのに。


 顔を上げられず俯いたまま泣くあたしを、細い腕が抱きしめる。

 こんな気分でもそのあったかさが嬉しくて堪らないあたしは、どれだけバカなの。


「リーバ、くんっ、……ごめ、……ね」


 たくさんわがまま言って、困らせて、傷つけて、悲しませて。

 ごめんなさい、ごめんなさい。


「だいす、き」


 それでも、どうしても、この気持ちをなくせない。

 離れたくなくて、触ってたくて、触って欲しくて。大好きで大好きで、怖くて悲しくて心が裂けてしまいそう。


「リリは優しくて、強いよ」


 優しい熱が耳の毛をくすぐった。ぞくぞく、としたくすぐったさに、無意識に肩が震える。

 そんなのウソって思うのに、身体中を巡る震えに声がうまく出せない。


 背中に触れてた指の先が、ゆっくりと位置を変えていく。

 それがくすぐったくて身じろぎすれば、ぬるい息が耳の内側をなでて、あたしは思わず小さく声をあげてしまった。


 くす、と耳のすぐ傍で、彼が笑う。


「僕もリリが、すきだよ」


 誰、と耳を疑うほどに。優しくて確信に満ちた声は変わらず、信じられない言葉があたしの耳を通り抜ける。

 怖くて聞き返せないあたしを腕に収めたまま、リーバ君の唇が耳に触れたのに気づいて――跳ね上がった鼓動の激しさに、あたしは危うく意識を失うところだった。


「や、……り、ふぇっ」


 全身の毛穴が全部、開いてるみたい。


 彼の指が、髪が、唇が、あたしの身体に触れるたび、震えるような戦慄が走る。

 全然怖いんじゃないのに、心臓を掴まれたみたく全身が緊張して、息が上手く吸えてない。


「な、にっ、リーバく、んぅ」

「大丈夫、何もしないから、楽にして力抜いて」


 なんでこんなに、彼の声と呼吸が近く聞こえるんだろう。


 言われる通りにしようとしても、どこに力が入ってるのかどうやって抜けばいいのか、皆目見当つかなくて。


「なに、し、て」


 震えてうわずる声を、必死に言葉で押し出せば、彼の笑い声が耳をかすった。

 ただそれだけが耐えられないくらいくすぐったくて、逃れたいのに身体がいうことをきかない。


 なに、これ。

 ねえリーバ君、何をしてるの?


「ん、ただのキス」

「ふぇっ」


 答えと同時に耳をはまれて、あたしの喉から変な声が出た。

 途端、恥ずかしさが熱と一緒に顔に上って耳がひどく熱くなる。


「暴れないで、大丈夫だから。怖くないよ、痛くないし苦しくない。だから、握ってる手を開いて、それをゆっくり僕の背中に回して?」

「なに、するのっ」


 リーバ君はあたしに、何をさせようとしてるんだろう。

 解らなくて不安なのに、ささやかれた言葉に抗えなくて、あたしは固く握りしめてたてのひらを少しずつ開いてみる。


 促されるままに腕を持ち上げ、リーバ君の背中に回した。


 そうやってまともに向かい合って彼の顔を見れば、また緊張が襲ってきて顔が熱くなる。


「リリ、目を瞑って」


 悪戯っ子みたいな瞳でリーバ君が言った。あたしは震える指で彼の服を掴み、それを頼りにしながら震える瞼を閉じる。

 世界がくらりと回るようなひどく覚束ない感覚の中、彼のてのひらがあたしの頬に触れたのが解った。


 ふ、と鼻腔をくすぐるぬるい息。その近さに驚く間もなく、柔らかな感触が唇に触れる。

 あたしは何をされているのかもよく解らず、されるに任せてあごを上げ、服を掴む指に力を込めた。


 あたしの唇を優しくついばむように、触れてくるのは、たぶん彼の唇で。それを繰り返すうちに、頭を押さえているてのひらの力が少しずつ増してゆく。

 舐めるのとは全然違うその接触に戸惑いながらも、あたしはただ目を閉じてなすがままになっていた。


 きっと、時間にすればそれほど長くない。


 身体の震えはいつの間にか治まっていて、身体の熱も痛いほどの鼓動も慣れきったのかそれほど苦しくなくなっていて、でも頭の中は痺れたように何も考えられず。

 無意識に開いていた口の中を舐められてると気づいても、気持ち悪いとは感じなかった。

 息と混じったような声が溢れているけど、これは、あたしの声……?


 リーバ君が何をしようとしていて、あたしがそれにどう返したらいいのか、解らない。


 目を開けていい、って聞きたかったけど、聞きようがなかったから、あたしはすがっていた指を解いて手探りでリーバ君の頭を探す。

 するっとした髪の感触を頼りに彼の首に触れれば、それが合図みたいに、彼の動きが止まった。


「……ごめ、嫌だった?」


 乱れた息と不安そうな声で尋ねられ、声が出せないまま、そうじゃないと首を振る。

 そしたらいきなり身体から力が抜けて、あたしはへにゃりと背中からベッドに崩れてしまった。


 ぼうっと目を開ければ、視界に薄汚れた天井が映っていた。

 全身がじっとり汗ばんでいて、それを意識した途端に心臓の速さにも気がついて、まだ混乱気味の頭であたしはぼんやりとさっきの感触を思い返す。


「リリ」


 きし、とベッドが小さく鳴いた。放心してるあたしの隣、リーバ君がベッドの上にいる。

 それを意識した途端、引いたはずの熱がまた戻ってきて全身から汗が吹き出した。


「どこまでなら、嫌じゃない?」

「え、え、」


 何とか身体を起こそうとしたら、リーバ君に止められた。

 右手をあたしの左腕に、左手をあたしの右腕に重ねて、キラキラ光る夜空色の瞳が真上からあたしを映している。


 どこまで、なら、嫌じゃないんだろう……あたし。

 どこまでって、どこまでのこと?


 漠然とだけどリーバ君が言わんとしてるニュアンスが解って、鼓動がますます早くなる。

 このまま息が止まっちゃうんじゃないかってくらいの緊張に、口の中が渇いて、声が喉に絡まってる。


 彼の右手があたしの左腕から離れ、胸の上……ちょうど心臓のあたりに重ねられた。

 綺麗な顔が、なつっこく笑う。あたしが本当に好きで好きでたまらない、笑顔で。


「リリは気づいてないかもしれないけど、好きな気持ちなら僕も負けてないよ。だから、……そんな顔されたら」

「え、……ふぁっ!?」


 胸に触れていた指が襟元に掛けられた。弾みで触られた肌のくすぐったさに、身体が震えて声が裏返る。

 くい、と襟を引き下ろされ、さすがのあたしもリーバ君が何をしたいかようやくちゃんと理解した。


「我慢、できなくなっちゃうから。ダメなら今そう言って」

「え、え、……っあ」


 リーバ君がオオカミ化直前。

 あたしの理性はずっと前に雲のカナタ。


 鎖骨の辺りに強めのキスをされ、身体の奥に疼く熱さにこのまま全部をゆだねてしまいたい気分に駆られる。


 でもそれって、それって、……どうなんだろう。


 あたしじゃリーバ君に釣り合うわけないのに、でも、彼もあたしを好きだって言ってくれて、でも、……でも。


「ぅっく、だ、だめっ」


 ふいに怖くなって、うわずる声でそう答えたら、はた、とリーバ君が止まった。

 あたしの胸元から顔を上げ見下ろす表情がなんだかすごく切なげで、みぞおちをきゅうっと締め付けられるような申し訳なさを感じる。


「うん、……解った」


 おあずけされた子犬みたいな顔で、リーバ君が言った。

 あたしはボタンが外れかけた襟をわたわたと直しながら、顔を見合わせる気まずさに耐えられず身体を横向きに変えて視線をそらす。


 今さらながら、ものすごく恥ずかしい。

 どうしよう、どうしよう、……どうしよう。


 ぐるぐるとパニックしながら無意識に丸くなってたあたしの身体に、ふわっと布が掛かる。

 思わず見上げれば、リーバ君がベッドの上掛けを被せてくれていた。


「リリもいろいろあって、疲れてるのに、ごめん。続きは今度またゆっくり、だね」


 そう言って意味深に笑ったリーバ君の瞳を見て、かぁっと全身の血が沸騰したみたいに熱くなる。

 全然後悔してない風だった。


 ねえ、リーバ君。そんなこと言われたらあたし、期待しちゃう。


 でも当然あたしがそれを口に出せるはずがなく、薄い布の下、治まらない心臓の音を聞きながら、あたしはひたすら丸くなってドキドキが通り過ぎるのを待つしかなかった。









 

 

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