到れり、真白き嵐。

 

「……残念。折角、今から遊んでやろうとしていたのにな」


 ザイツがそう言って立ち上がる。ピックが離れてほっとする間もなく、残る二人にあたしは引きずり起こされて後ろ手に押さえられ、ナイフを突きつけられた。

 そうやって正面向かされれば、嫌でもあたしは、扉の所に立つリーバ君と顔を合わせることになる。

 たぶんきっと、あたしの顔は涙とか鼻水でめちゃくちゃで、リボンを解かれたワンピースは肩までむき出しで、……それを見たリーバ君は、ひどく動揺した風に目を見開いた。


「彼女になにをしたんだ」

「なにもしてないさ、今の所はな。……おまえが魔法を唱えようとしたら、どうしてしまうか解らないが」


 話しながらザイツはリーバ君に近づいて、彼が手に持っていた黒塗りの杖を奪い取る。そして、無造作に床へ放り出した。

 リーバ君は一瞬だけそれを目で追い、苦々しく言い返す。


「きみの狙いは私なんだろ、彼女じゃなく」

「解ってるじゃないか」

「先に彼女を離せ!」

「離したら逃げるだろう?」


 笑うように答えたザイツが、リーバ君の方へ手を伸ばす。避けようと彼が身を退いた途端、後ろに回され掴まれていた腕に激痛が走って、あたしは思わず悲鳴を上げてしまった。

 はっとしたように彼がこっちを見、それが隙になった。


 ど、と鈍い音を立てて壁に押しつけられたリーバ君が、逃れようとザイツの手に爪を立てる。

 だけどザイツは手加減無しに彼の鳩尾を膝で蹴りつけ、力の抜けたリーバ君を床に引きずり倒して押さえつけた。


「なに、無駄な抵抗をせず素直に従ってくれればいいのさ。そうすれば、おまえもあの娘も命まで取りはしない」


 彼の左腕がムリな姿勢で背中の下に、右腕は頭の横でザイツの左手に押さえられている。


 荒い呼吸で魔法を唱えようとしたのに気づいたんだろう、馬乗りになったザイツがリーバ君の口を塞ぎ、彼の右腕を変な方向へねじ曲げた。

 痛みに表情を歪め、リーバ君が身を捩る。

 セイエスの彼は身体が華奢で腕も細くて、そいつがちょっと力を込めたら簡単に骨が折れてしまいそうで。


「やめてっ、お願い、……リーバ君に何もしないでッ」

「煩い、動くなよ」


 ぐ、とアディルの持つナイフが近づけられたけど、あたしはナイフより、そっちが怖くて涙が止まらなかった。

 傍目には完全に抵抗を奪われてるリーバ君だけど、キラキラ光る夜空色の瞳だけは屈服してない。だから、ザイツも腕の力を緩めようとしない。


「アディル、首輪を寄越せ」

「ああ、コレだっけ」


 ザイツに言われて、あたしの隣でアディルが何かを放り投げた。

 黒い革製の平板に銀で変な刺繍がしてあるそれを、ザイツは腕を押さえていた方の手を離して受け取り、リーバ君の首に巻いて彼の口から手を離す。

 リーバ君が苦しげに深呼吸して、それから苦い表情で男を睨んだ。


「卑怯者。もういいんだろう? 彼女を離せ」

「何とでも。どうだね、頼みの竜魔術を封じられた気分は」

「ああ、最悪だよ。言っておくが、私の身体を切り刻もうときみが望む効果は得られない。統括者ウラヌスと氷狼の怒りを買う前に、諦めて私と彼女を解放しろ」


 本当に怒っているような声なのに、ザイツはそれを鼻で笑い飛ばしただけだった。


「吠えてろ。虚弱な妖精族セイエスが」

「ねえ、あなたたちリーバ君を切り刻むのっ!?」


 あたしは怖くて堪らない。

 食べるために魚や獣を捌いたことはあるけど、大好きな人が目の前でそんな風に切り刻まれるのなんて見たくない。


「お願い、そんなひどいことやめてっ! ねぇ、お願い……っ」

「何も知らないあんたは、こいつがどれだけ特別な存在かも解らないんだろうな」


 嘲りを込めた口調で言われ、指の先と足の先がすうっと冷えてく気がした。

 コイツらにとっては彼の命も、ただの『実験材料』にすぎないんだ。それが解った途端、目の前が真っ暗になって膝と身体から力が抜ける。


「……だって、だって、……ヤダ、殺さないでっ! リーバ君を殺すなら先にあたしを殺してっ、お願いぃっ」

「リリ!」


 リーバ君があたしを呼んでる。怒りと、悔しさと、イロイロ混じった強い声で。


 自分がめちゃくちゃなこと言ってるのは解ってる。でも、あんなヤツらを説得する言葉なんてあたしは持ってない。


 何もできずにただ見てるだけなんて、そんなのより。

 何も、見えない方がいいもの。


 もう見えなくていい、聞こえなくていい。

 役立たずのあたしなんか、彼を助けることもできずに足手まといになって、あたしのせいで、リーバ君は。


「ちッ、おい暴れるな! シード、その娘を黙らせろ」

「煩い離せ! 彼女に手を出すなッ」

「解った。アディル、俺が押さえているから口を塞げ」

「オッケー、しかし良く泣くヤツだな」


 泣きわめいてるのはあたしで、暴れてるのがリーバ君だ。

 ……そう思っている内に、口と鼻をふさがれた。

 苦しい、息ができない。


 もう、好きにしたらいい。どうせ、あたしの力じゃコイツらには敵わないもの。


「ぐあぁッ」


 突然のリーバ君の絶叫に、闇に溶けかけていたあたしの意識が引きずり戻される。

 同時に、鼻をふさがれたままでさえ感じる濃い、――血のニオイ。


 あたしはがむしゃらに頭を振ってシードの手を振り払うと、リーバ君を見た。

 そして、頭が真っ白になってしまった。


 リーバ君は身体を捻って、上体をむりやり起こそうとしたんだろう、ザイツが彼の背に膝を乗せ、押さえつけている。

 そして彼の右手は、ザイツの持ってたアイスピックで床に刺し留められていた。

 ピックが生えた右手の甲から、真っ赤な血が流れて床に広がってく。……すごく、痛そうで。


「や、リーバくんっ!」


 もうやめて、優しい彼をこれ以上傷つけないで。誰か、誰でもいいから、助けて……っ。


 泣くしかできないあたしを、リーバ君の夜空色の瞳が見る。

 苦痛に表情を歪ませ、汗を滲ませて、でも彼は不敵な風に、笑ってた。


「手間掛けさせやがって」


 毒づくザイツをひと睨みし、呻くようにリーバ君が吐き出した、セリフは。


「……覚悟、しろよ」


 怪訝な顔が何かを聞き返すより早く、あたしは目の前に、白い風を見た。




+++




 それから後の出来事は、何かの演劇みたいにあっという間だった。


 鳥肌が立つほどの寒さを引き連れてその場に現れたのは、青銀の毛並みを持つ巨大な狼。

 綺麗で冷たいサファイアの瞳があたしを見て、リーバ君を見て、それから茫然としている三人を見回した。


 発した言葉は、たった一言。


ね』


 でもその響きは、どうしようもない威圧感を伴って頭の中を直撃し、あたしを押さえていたシードも、ナイフで脅していたアディルも、リーバ君を刺したザイツも、皆恐怖に駆られたのか逃げ出してしまった。


 あたしは腰が抜けてしまって、その場にへたり込んだままボロボロ泣くだけ。

 その間にリーバ君は刺されたピックを自分で引き抜き、這うようにあたしの所まで近づいてきて、動けないあたしをぎゅうって抱きしめてくれた。

 

 血のニオイが、すごく近くでする。

 痙攣しているような、リーバ君の刺された右手。すごく痛むはずなのに、あたしはその心配をするより抱きしめられたぬくもりを離したくなくって、何も言葉を出せなかった。


「……よかった、リリにケガがなくて」


 耳に掛かる、湿った熱と震える声。


 痛いから?

 それとも泣いてるから?


 ねえ、リーバ君はあれだけ酷いことされて、大丈夫なの?


 それすらも言葉にできないあたしは、なんて臆病者なんだろう。


「泣かせてごめん、怖い思いさせてごめん。大丈夫? リリ」

「……う、っく」


 うんって言おうとしたら変な声が出た。喉で言葉がもつれてるみたいに出てこないから、あたしはがくがく震える腕をなんとか持ち上げて、リーバ君の背中に回す。

 力が入らなくってぎゅっとできず、指で服を掴んで彼の胸に頭を押しつけた。


 あたしは、大丈夫なの。

 リーバ君が殺されなくて、どこにも連れて行かれなくって、今あたしがこうやってリーバ君に触れていられることが、一番良かったの。


「……ふぇ……っ、うぅ、……ああぁ」


 言葉なんてキライ。

 あたしの気持ちも想いも、肝心なときに何一つ伝えることできない言葉なんて、ダイキライ。


 あたし、やっぱりフェルバでもセイエスでもない、人でもないただの子ダヌキがよかった。

 トロくて狩人に捕まって、食べられるか毛皮にされるんだとしても、その方が良かったのに。

 きっとあたしの顔は今、泣きすぎてめちゃくちゃだ。泣き顔が綺麗だなんて、そんなのドラマやお芝居の中だけの話で。


 こんなんじゃ、いつになっても彼とお似合いの女の子になれるワケない。


 頭の中でぐちゃぐちゃと言い訳しながら、でも結局彼にすがりついて泣きっぱなしのあたしの傍に、ふいと近づいてきたのはさっきの狼だった。

 冷たい気配が、肌ではっきり感じ取れる。途端に怖くなって顔を上げたら、綺麗なサファイアの瞳と目があった。

 どきん、と心臓が跳ねる。


『そんなに泣くな、獣人の娘。リーバもおまえも無事で良かった』

「……ぁ、う」


 不思議なテレパシーで喋るこの狼は、……セイレイっていうんだっけ?


『ああ、そうだ。氷の中位精霊・氷狼の、名をリューンという』


 あたしの心の中の一人言に、答えが返る。――つまりそれは、心が読まれてるって事で。


「あ、あああたしは、アイリーンっ。や、……っ、あの、……ご、めんさいっ」

『謝罪は不要だ、おまえは巻き込まれたに過ぎないのだからな。だが、私としては先にリーバの状態を診たい。少し借りて構わぬか』


 さっきまでの心の呟きは、つまり全部氷狼……リューンさんに筒抜けだったんだ。それに気づいて、でもそれについて何も言わない彼の気遣いに、あたしの顔に一気に血が上る。

 あたふたとリーバ君の腕から逃げ出して少し離れた場所にしゃがみ込んだら、リーバ君は左手を床に着いて血だらけの右手を膝に乗せ、あたしを見て優しく笑った。


 首に付けられたままの首輪に、……あたしの大好きな彼をペットか物扱いしたヤツらに、嫌悪感に似た怒りが迫り上がる。

 あれがあるから、彼は自分のケガを魔法で治すことができないんだ。


「ごめん、リューンも。心配掛けて」

『そんな事は構わん。だが、言い伝えを信じる愚か者が未だにいるとは思わなかったな。何なら、後を追って記憶を抜いてくるか?』

「それは駄目だ、過干渉だってリューンが統括者に罰せられるよ。……大丈夫、コレ外してくれれば、解析して対抗魔法式を考えるから」


『外せないのか』

「うん、自分では駄目みたいだ。リューン、外せる?」


 ふたりが何か、難しい話をしているのが解る。

 あたしにその内容はよく解らなかったけど、一つだけ解ったことがあった。言い伝えっていうのはきっと、アイツらが話してたことだろう。


 さわ、と冷たい風が吹き、あたしが見ている前で、狼のリューンさんがイキナリ人型になった。

 あたしは驚きすぎて、声も出ないまま目を瞠る。

 だって、その姿と言ったら、……あたしたちナウエアとほとんど同じで。狼の耳と、長いシッポがあった。


「呪具の一種だな。外せるが、おまえに掛かる負荷までは抑えられなさそうだ。舌を噛まないよう服でも噛んでいた方がいい」

「うわ、最悪。えげつない奴らだね」

「いいのか喋っていて」

「ごめん、黙ります」


 痛いのか苦しいのか解らないけど、大変みたい。


 リーバ君が服のどこかから出した布切れをくわえ、喉を反らせて目を閉じる。

 かがみ込んだリューンさんは指の先で首輪をなぞると、不思議な響きの言葉を静かにささやいた。

 ぱきん、と何かが割れる音。思わずリーバ君を見たら、彼は眉間にしわを刻んで歯を食いしばったまま、硬直してる。


「り、リーバ君っ!?」

「心配ない、アイリーン。呪いは解けたぞ」


 リューンさんがそう言ってあたしを見て、笑った。

 リーバ君より大人びてて、精悍で、口元から鋭い牙が覗いているのに、怖くない不思議な笑顔で。


「うん、大丈夫。……痛かったけどね」


 深い溜息と一緒に、リーバ君もそう言ってあたしを見た。そして、魔法を唱える。

 歌みたいな優しい旋律に呼応して、キラキラ光る魔法力がリーバ君の傷を塞いでいく。


 リューンさんも安心したように、それを見て溜息をついていた。





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