きみの願いに〝約束〟を。

 

 まだ乾ききらずに緩く絡まっているあたしの髪を木製の櫛で伸ばしながら、刃の薄いナイフが傷んだ毛先を削り落としていく。

 さく、さく、と耳をくすぐる、微かな音。

 ナイフ一本でどうしてこんな器用な事ができるんだろう。リーバ君はあまり上手くないよって笑うけれど、あたしにはこんな丁寧な作業なんてできない。


「先の方だけ揃える感じにするよ。また今度、ちゃんとした所で切ることにして……っと見つけた」


 半分は私への、半分は一人言。リーバ君はバッグの中からまたも、紙で包まれたモノを取り出した。

 それほど重くなさそうなのに、いろんなのが出てきて不思議。


「髪専用に調合してある香油なんだ。使えば即効果アリ、って訳ではないけど、だいぶ違う筈だから」


 開いた紙の中には細口の小瓶が入っていた。きゅきゅ、と栓を抜いた途端、ふぅわり広がる涼しいニオイ。

 リーバ君はその中身を手に取って、それからあたしの髪をゆっくりと指で梳く。香りをすり込むように撫でつけながら、静かな声で話を続ける。


「リリは、迷子になってたんだよね。スラムに帰れば、家族か友人が待っててくれるの?」


 その質問に忘れかけてた現状を思い出し、あたしは無意識に膝の上で拳を握った。


「……ううん、いない」


 送ってあげる、とリーバ君は言ってくれた。


 こんな高級な場所に泊まれるような身分の彼が、スラムに行く用事なんてたぶんもう二度とないだろう。

 だから、送ってもらって別れたら、きっとそれっきりになってしまう。


「一人で暮らしてるの?」


 確認するように問われたから、黙って頷く。一人で生きるようになってからはまだ間もないけど、もうずいぶん長く経ったように思えた。

 毎日毎日、逃げ隠れるように必死で生き延びてきた。誰かと仲良くなったりする余裕なんて、ないままに。

 またあの、寂しくてひもじくて不安だらけの毎日に戻るのかと思ったら、ぞくりと背中の毛が逆立つ気がした。


「帰りたく、ないの」


 布の端にでもいいからすがりたい気分で、ぎゅっと膝の上の服を握る。


「帰らなくてもいいの?」


 さっきよりもしっとり重くなったあたしの髪を、櫛で撫でながら、リーバ君が聞き返す。

 なぜと問わない優しさが痛いくらいに胸に刺さって、あたしはにじむ視界を俯けた。


「うん」


 一応、住処にしている場所はあって、少しのお金と衣服と持ち物が置きっぱなしになっているけど、今頃はきっと、あたしが帰らないのを察知した誰かが持ち去ってしまっただろう。

 あたしがあたしのモノとして持っているのは、この名前ただ一つきり。

 帰る場所なんてどこにもない。


「そう。……じゃ、どうしようか」


 一人言みたいに呟き、考え込むように沈黙してしまったリーバ君に、あたしの心臓はだんだんと緊張を増していく。

 だってあたしには、選択肢がないんだもの。


「リリは、行きたい場所とかやりたい事とか、何かある?」


 返ってきた言葉は予想外で、何も考えていなかったあたしは、答えに詰まって思わず彼を振り返った。

 そんなあたしの行動に驚いたような彼の目と、視線が合う。


「そんなに具体的じゃなくていいよ。憧れてる国とか、将来の夢とか」


 緩く笑って言い直してくれる。あたしはぼうっと、リーバ君の言葉を頭の中で繰り返した。

 夢っていえば、ずっと叶えたかった夢ならあるけれど。


「あたし、……フェルバになりたいの」

「え」


 思わず口をついた言葉に即刻返る、驚いたような声。

 あたしはそれで、彼の質問にとんでもなくズレた答えを返しちゃった自分に気がつき、一気に恥ずかしくなった。


「や、ぁ、な、何でもないっ」


 あたしは土の民・ナウエア。それは産まれた時から決まっていたことで、この先もずっと変えられないこと。

 だけれどあたしは、フェルバに産まれたかった。強くてまっすぐであったかい炎の気質を持った、勇ましい剣の民。


 泥と埃にまみれ、こそこそ隠れながらゴミを漁るだけのあたしには、彼らが持つ輝きが羨ましくて。

 今度産まれる時はフェルバがいいって、流れ星に願ったこともあるけど。


「種族を変えたいの?」


 やっぱり聞き流してはもらえず、リーバ君に尋ね返されてあたしは、真っ赤になった顔を俯ける。

 なんてバカなことを考えてるんだろって、思われるかもしれない。


「うん、……無理だって解ってるけどっ」

「……そうだね」


 意味深な無言の後の、小さな同意。でも、彼は笑わなかった。

 聞いてもらえた安心感が、もやもやしていたあたしの胸に火をともす。


 薬草の香りがする、綺麗で優しいセイエスのリーバ君。

 あたしはずっとフェルバに憧れてたけど、なんとなくセイエスもいいなって思ったりして。


獣人族ナーウェアのどこが嫌?」


 毛先の長さを揃えているのか、髪を削る音が再開する。リーバ君の声は相変わらず、静かで優しい。


「だって、……こんな不カッコなシッポがあるしっ、耳だって……大きくって、もさってしててっ、聞きたくないのまで聞こえちゃうしぃっ……悪口とか意地悪とか」


 息が詰まるような気分になりながらも、あたしは何とか答えを返す。

 話しながら、緊張にシッポの毛が膨らむのを感じて、やっぱり嫌だって思った。


「可愛いのに。座る時は邪魔そうかなって思うけど、不格好とは思わないし」


 リーバ君が、優しい声で慰めみたいなことを言うから、またも涙腺が緩んで視界が変になる。

 太いだけの不カッコなシッポを、可愛いだなんて。


「うそつきっ」


 だって、それが彼にとっての本音でも、あたしにそうは思えない。

 ふいと髪に触れてた手が止まる。


「リリは、自分がキライ?」


 直球な問いに胸をつかれ、溜ってた涙が限界を越えて溢れ出した。


 ……うん、きっと、そう。

 あたしは、何より自分自身が嫌で、大キライなんだ。


「……んぅっ、ダイキライっ! せめてナウエアじゃなくって、フェルバかセイエスだったら良かったのに……っ」


 子供のわがまま以下だって、解ってる。リーバ君はきっと、呆れちゃうに違いない。

 でも、でも、……あたしは、こんなシッポも耳もタヌキの姿も、好きになんてなれそうにないもの。

 手探りで上掛けを引き寄せたあたしの手に、柔らかなタオルが乗せられる。だからあたしはそれを掴んで、止まらない涙をぎゅっと押しつけた。


「もしそれが叶ったら、リリは幸せになれそう?」

「……わかんない、けどっ」


 もしもなんて、意味がない。

 そんなこと可能だなんて聞いたことがないし、方法だって解らずに、叶えられるはずがないもの。


「だって、……っ、ムリ、だよね……?」

「うん、普通はね」


 優しい指が頭を撫でた。少しだけの沈黙を挟んで、でも、とリーバ君が続ける。


「どんな願いでも叶う魔法なら、あるよ」

「……っ?」


 聞き返そうとしたのに上手く声にならず、あたしは思わずタオルから顔を上げてリーバ君を見た。

 星を宿した藍の瞳が、まっすぐあたしを見返して言葉を続ける。


「私は『無属性』という特別な属性でね。今はまだ技量が足りずに使えないけど、確かにそういう魔法が、無属系統にあるんだ。だからその魔法なら、きみの願いも叶えられる」

「ホント、に?」


 やっと出た声は、裏返って震えてた。リーバ君の腕を無意識に掴むくらい、あたしは夢中で聞き返してた。

 夜空色の瞳でまっすぐあたしを見て、彼がはっきり頷く。


「うん、本当。だから私が、きみの願いを叶えてあげるよ。……今はまだムリだから、もう十年待ってくれる?」

「……うんっ! ホントに叶えてくれるなら、待つっ!」


 十年先なんか、今のあたしには想像もつかないけれど。

 絶対に叶うはずがないってあきらめてた夢を叶えてくれる、って約束に、あたしは興奮を抑えられず必死で答えていた。


 彼が、にこりと笑って頷く。


「それじゃ、その時まで私と一緒に旅をしない?」

「ふぇ」


 てっきりスラムに送り届けられるんだと思ってたあたしは、思い切り間抜けた声を出してリーバ君を凝視した。

 優しく笑うその顔は、冗談を言ってる風には見えない。


「どうかな?」


 畳み掛けるように確認される。あたしはなんだか夢心地で、彼の意図を十分には解らないまま、ただこくこくと頷いた。

 熱を増す心臓の音が、耳障りなくらいに煩い。


「あたしで、いいの?」

「もちろん」


 役に立たないし、迷惑掛けるし、きっと足手まといになっちゃうのに。


 そう言って笑うリーバ君が何だかすごく嬉しそうだったから、あたしはもう胸がいっぱいになっちゃって、結局それを伝えることはできなかった。





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