フォーリング・パニック。
どこをどう歩いたのか連れられるままに辿りついたのは、派手な電飾に飾られた大きな白い建物だった。
思わず立ち竦むあたしを促すように、リーバ君に優しく背中を叩かれる。
「大丈夫、賑やかなのはここだけだから」
「でも、っ」
入らなくたって解る。ここは、あたしみたいな文ナシの野良ダヌキが、入っていいような場所じゃないってことくらい。
すがるように見上げれば、彼はわざとらしく肩をすくめて、言った。
「通路で止まるとお客さんが通りにくいから、とりあえず上に行こうよ」
とんとん、と再度促され、あたしは行き交う人の流れに怯えながらも、仕方なく彼のあとに随う。
階段を幾つか上り広いフロアに辿りつくと、彼は迷わず受付っぽいカウンターへ近づいた。
あたしも引っ張られるように、それについて行く。どうしていいのか解らなくて落ち着きなく視線を泳がせていたら、手続きが終わったらしい彼に腕を取られた。
「こっちみたいだよ」
どうして、こんなに広くて同じような通路ばかりの場所で、迷わないんだろう。
柔らかな床に足を取られてふらつきつつも、あたしはなんとか後ろをついて行く。
綺麗に磨かれた大理石の壁や、塵一つ落ちていない高級そうな絨毯に囲まれてると、いっそう惨めに見える気がして自分がひどく覚束ない。
予想以上に長い廊下を通り抜け、辿りついた一室を彼が開ける。
ふわ、と花のニオイが香る明るい室内に、場違い感がピークに達したあたしは中に入れず、入り口で立ちつくしてしまった。
「アイリーン?」
先に入った彼がすぐに戻ってきて、固まってるあたしの手を取って中に引っ張り込んだ。
がちゃりと重い音がして、あたしの後ろで扉が閉まる。
あたし、今、さっき会ったばかりの男のひとと、二人きり……?
そこに思い至った途端、頭のてっぺんからからシッポの先まで、全身の毛が一気に逆立った。恥ずかしいとか怖いとか、そういうのを通り越した所在なさに、あたしの身体がまたガタガタと震え出す。
そんな挙動不審なあたしを、彼が不思議そうに見た。
「寒い? それとも、どこか痛む?」
ぶんぶん、と首を振って意思表示するのが精一杯。
彼はぱちりと瞬いて、それからくすりと笑った。
「お風呂、入ってきなよ。どうやらシャワーも付いてるみたいだ……ここ。急がなくていいから、ゆっくりどうぞ」
シャワーって何? とは聞けなくて、あたしはこくこくと人形みたいに頷いた。
逃げるように浴室へ入ると、わたわたしながら靴を脱ぎ、服を脱いで、おそるおそる中を覗き込んでみる。そしてびっくりした。
広い、……温泉か公園の噴水を思わせるくらいに広すぎるバスルーム。何か香料でも混ぜてあるんだろうか、ほんのり香る薄緑のお湯が入ってる。
壁には蛇みたいなノズル。ドアのレバーみたいなモノが付け根についてて、記号みたいなモノが彫られていた。
あたしは何も考えず、これがシャワーかなと思いながらそのレバーを回してみる。
その途端。
「ひぃあぁぁっ!?」
ざあと上から冷たい雨が降ってきて、びっくりしたあたしは素っ頓狂な悲鳴を上げてしまった。しかもこれ、止め方がわかんないし。
半泣きでじたばたしていたら、ガタリと戸が開いた。
「どうしたの?」
なぜかためらいもなく浴室のドアを開けて入ってきた彼が、シャワーらしきモノと格闘するあたしを目を丸くして見ていたから。
「ふぇ、ひぁぁあぁぁっ!」
あたしは思わずタヌキのカッコになって、お湯の中に飛び込んでしまい。でも浴槽が思った以上に深くて足がつかなかったから、色つきのお湯をしたたかに飲み込んで。
結局やっぱり駆けつけた彼に引き上げられて、辛うじてお風呂でおぼれて死なずに済んだのだった。
+++
「……ごめん、反省してる」
気づけば着替えなんて持ってるはずもなく、用意されてた部屋着とベッドの上掛けを被って警戒しているあたしに、彼が神妙な顔で謝る。
「うぅ、……ぅぅ」
「本当に、ごめんね」
こんな風に謝ってるけど、彼は遠慮もなかった。
タヌキの姿で半分溺れながら暴れるあたしを引っ張り上げ、逃げようとしたあたしを捕まえて洗剤みたいなモノで丸洗いし、それからお湯の出るシャワーでしっかり洗い流すと、最後に乾いたタオルでごしごし拭いてくれた。
ただでさえ、疲れてお腹がすいて泣きすぎたあたしは、途中から暴れる気力がなくなり意識も朦朧としてきたけど、それでも恥ずかしくて仕方なくって。
なんとかタオルから解放されてからは、人型に戻り急いで服を着てベッドに上り、彼から距離を置いてる。
お湯で火照った身体が冷えてくると、今度は猛烈な空腹感と渇きが襲ってきた。
しゃがんでいるのも億劫になったあたしは、布だるまのままベッドの上でうずくまる。
カタ、カタリと静かな音が聞こえていた。あたしは布団に突っ伏したまま、ぼんやりとそれを聞く。
ぐ、とベッドが沈む感覚にちょっとだけ顔を上げれば、彼が端っこに腰掛けていた。
「もうしないから、そろそろおいでよ。少し何か飲んで、それから傷の手当てをさせてくれる?」
優しく言ってにこりと笑う。あたしは上掛けにくるまったまま這うように、少しだけ彼と距離を詰めてみた。
ほんのり甘い香りが、どこかから漂ってきてる。
「ミルクセーキ、飲める?」
ベッド横のテーブルに置いたマグカップを指さし、彼が言った。あたしが頷くと、手にとって渡される。
ぬるめのそれはほんのり甘くて、疲れ切った身体にじわじわと染みこんでくみたいだった。
「少し休んだら、夕飯を食べようか」
「……うん」
耳に響く柔らかな口調が心地よくて、甘いミルクが美味しくって、涙腺がゆるんで視界が潤む。
彼が立ち上がり、床においてあったバッグを持って再び傍に来た。
「飲み終わってからでいいから、ちょっと診させてくれるかな」
まだ被りっぱなしの上掛けをくい、と引っ張られたから、あたしはなんとなく察して被るのを辞めた。
彼が空のカップをあたしの手から取ってテーブルに起き、屈み込んで顔を近づける。
「変な意図じゃないから、怖がらないでね。ちょっと、肩を診るよ」
彼は慣れた手つきであたしの髪をまとめ、前に持ってきて首をさらけさせた。それから部屋着の襟を少し引き下げ、むき出した肩を静かに撫でる。
ぞくぞくするくすぐったさと同時に感じた鈍い痛みで、あたしはさっき転んだ時に、肩を打っていたのを思い出した。
そういえば、セイエスは医療にたけた民だって。
かさりと紙を開く音がして、ひやりとした感触を肩に感じ鳥肌が立った。いたたまれずに目を瞑り、息を詰める。
するりと袖が抜かれ、柔らかい布が痛む部分に当てられた。
静かに持ち上げられた腕と肩に、包帯が巻かれていくのが解る。
「終わったよ。骨や筋には異常なさそうだ。ただの打撲だから、すぐに治るよ」
ぱさ、と服を着せ直されたので、あたしはそろそろと目を開けた。
たぶん彼は医者だから、あんまり気にならない……のかも、と思ってなんとか恥ずかしさをかみ殺す。
「あ、あの、ありが、と……、リーバさん」
思い切り噛みながらお礼を言えば、彼はにこりと笑った。
「さんは要らない、呼び捨てが言いにくかったら〝君〟でいいよ」
リーバ、くん。
あたしは口の中でそれを繰り返してみる。
言い慣れない響きはどこか新鮮で、それだけで距離が近くなった気がして、不思議だった。
「アイリーンは、なんて呼べばいい? 愛称とか、ニックネームとか」
彼が、リーバ君が、そう言ってあたしを覗き込む。
黒目がちの両目がきらきらと輝いてて、夜空みたいに綺麗。
あたしの唯一の家族だったひとがいつも呼んでくれてた愛称を、この人に呼んでもらえたなら。すごく――幸せかもしれない、なんて。
「……リリ、って」
言ってしまってから、自分の発言に驚いて勝手に顔が熱くなる。
「リリ、だね」
それをあっさりとリーバ君が呼んでくれたから、ますます顔に熱が集まって、あたしは我慢できずにベッドへ顔を突っ込んだ。
なんとか精神統一をしていると、ふいに彼の指があたしの髪の毛に絡められる。
「折角だから、髪の手入れもしてあげるよ」
「え」
上目遣いに見上げれば、リーバ君の夜空色の瞳と目があった。そうしてあたしは、彼のことがずいぶんと怖くなくなっている自分に気づく。
そろそろと身体を起こし、部屋着のあわせを直しつつ、あたしはベッドの端にきちんと膝を揃えて座り直した。
胸元に落ちかかる傷んで長さも不揃いな髪を見ながら、緊張を飲み込みリーバ君を見返して、答える。
「お願い、します」
どうしよう、……あたし。もしかして。
「切ってもいいかな。嫌なら手入れだけにするけど」
「ううん、全部、リーバ君に任せます」
どくどく、どくどくと、内側で高鳴る心臓が煩い。
髪を撫でる指が時折り触れる、感覚に、一々ごと止まりそうなほどで。
恥ずかしいけど、怖いけど、緊張するけど、……不快じゃ、ない。
もっと、もっと触って欲しいなんて、あたしいったいどうしちゃったんだろう。
「うん、解った。じゃ、ちょっと待ってね」
そう言って髪から指が離れるのが、なんだか寂しいだなんて。
髪だけじゃなく、もっと……優しく撫でて欲しいだなんて。
どうしよう、どうしよう。
もしかしてあたし、彼が、好き――……なの?
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