きみとはじまるゼロ・ラウンド
羽鳥(眞城白歌)
迷子のタヌキと宵闇の街。
――最、悪。
あたしは、いったいどこに来ちゃったんだろう。
視界に見える風景は、よく知ってるごちゃごちゃした商店街じゃなく、どこまであるか解らない高さの白い壁と、塀に囲まれた路地ばかり。
顔をなでる空気にすえたニオイが混じってて、気持ち悪い。
時々聞こえる不気味な音が人の声なのか獣のなのか判らなくて、あたしの背中はさっきからずっと悪寒を感じっぱなしだった。
少し前にはうるさい歓楽街が続いてて、酔っぱらいとか派手なカッコの人ばかりとすれ違ってたのに。
今は、酔っぱらいどころか人の気配もしない。
ふわと通り過ぎた風は思った以上に冷えていて、あたしは震える身体を自分の腕で抱きしめる。
どうしよう、どうしたら帰れるんだろう。
カツカツ、と狭い路地に足音が響いた。
それが近づいてきたから、あたしは思わず振り返る。
薄暗い街灯の下、向かってくる二つの影。
「おまえ、こんな所で何をしている」
どっちか判らないけれど、怒ったような声がそう言った。
迷子になってます、って答えようと思ったのに、声が出てこない。
「う、……んと」
「何をしていると聞いているんだ! それとも、答えられないのか!?」
威嚇するように怒鳴りつけられて、一気に心臓が冷えた。
――やだ、怖い。
「女一人で
きちんと着込んだ制服に、睨むような鋭い目。
手に持っている何かの武器を向けて二人が近づいてきたから、あたしはどうしようもなく怖くなって、その人たちと反対の方向に逃げ出した。
「おい、待て!」
ううん、やだ、待てない。
何も、悪いことなんかしてないもの。
どっちに逃げれば振り切れるのか解らないまま、ただ必死に走る。
走りながら、涙があふれてきたけど、立ち止まって泣いてるわけにはいかない。
さっきもこんな風に追いかけられて、逃げ切れなかったから荷馬車の積み荷の間に隠れてやり過ごして、出て行けないでいる内に馬車が動き出してしまって。
だから、こんな見知らぬ場所に来ちゃったんだ。
怖いのと悲しいのと苦しいので、涙も息もめちゃくちゃだったけど、あたしは壁の隙間を無理矢理抜けてとにかく逃げた。
やがて足音も遠ざかり、不気味な静けさが戻ってきた路地裏で、あたしは声を殺したまましばらく泣くしかできなかった。
+++
ふらつく脚がすっかりダメになる前に、さっきの歓楽街みたいな場所まで辿り着けたのは、奇跡だったかもしれない。
喉が渇いてお腹もすいて、疲れた身体は歩くのもやっとだったけど、あたしは街路の騒がしさから逃げ出したくて、目についた酒場に入った。
中は中で賑やかだけど、みんなそれぞれ自分のテーブルでお酒や料理を相手にしているから、あたしに構う人はいない。
それにちょっとだけほっとしながら、隅の椅子に座って壁に寄りかかる。
水を飲みたかったけど手持ちが全然ないし、お金に換えられる何かも持ってない。
でも疲れて苦しくてお腹がすいて、ちょっとでいいから休みたくて。
だけどやっぱり、世の中そんなに甘くなかった。
すうっと遠のきかけた意識が、突然の衝撃で一気に現実に引き戻される。
思わず身を竦ませて目を開ければ、目の前に、あたしの胸ぐらを掴んで怖い顔で睨んでいる人間のオジサンの顔があった。
「ご、ごめ……なさ、」
「寝るなら宿は二階だ。記帳と支払いはカウンター、解ってるな?」
「あの、……あた、あたし、お金なくって」
「なら出て行け」
同情の余地ナシって顔なオジサンの言葉に、一気に全身の血がひく。
「や、やだっ、……何も、水とかお布団とかイラナイから、今晩だけここにいさせてっ」
「なら酒なり食事なりオーダーするんだな」
「だってお金、ないのっ」
「論外だ」
ぐい、と腕を掴んで引きずられる。
抵抗したけど全然力じゃ敵わなくて、そのまま入り口まで連れて行かれたあたしは、荷物でも投げるみたいに扉の外へと放り出された。
「出直してこい」
扉の前に仁王立ちで言い放つオジサンの形相は鬼みたいに怖かったけど、あたしも必死だったから、閉められてしまわないよう、とにかくオジサンにしがみつく。
「やだっ、お願い……っ! 隅っこでいいから、泊めてよぅっ」
「バカ言うんじゃねー。文無しに食わせてやるような慈善商売なんぞ、始めた覚えはないんだ。とっとと消えちまえッ」
食べる物もお部屋もお風呂も、何もいらないのに。
ただ、追い立てられない隅っこと、風を防いでくれる屋根だけ貸して欲しいだけ、なのに。
上手く説明できない自分と、聞く耳持たないオジサンに、悔しさとか悲しさがこみ上げてきて視界がぐにゃぐにゃゆがみ出す。
泣けばますます相手を逆撫でするって解ってるのに、どうしてあたしはいつもこんななんだろう。
「そんな意地悪言わないでっ、……だってぇ、野宿なんて怖すぎるっ」
「知ったことか、自分で何とかするんだな!」
痛いほどの力で引きはがされ、手加減なく突き飛ばされた。勢いで石畳に肩がぶつかり、痛さが一瞬呼吸を奪う。
歯を食いしばって身体を起こした目の前で、木製の扉が大きな音と共に閉められた。
慌てて飛び起き扉にすがって叩いたけれど、当たり前のように返ってくるのは沈黙で。
「う、ふぇっ……」
疲れと痛さで限界だった膝が崩れ、腰が砕けて、あたしはそのままへたり込む。
なんとか我慢していた涙も堰をきってしまい、どうしていいか解らない。
泣いたって、開けてもらえるはずないのに。
あたしみたいな文ナシの野良ダヌキなんて、誰も助けてくれやしないんだ――。
「どうしたの?」
不意打ちで掛けられた声に心臓が飛び上がり、あたしは思わず後ろを……通りの方を振り返った。
濡れてぼやけた視界に映る、ほっそりした人の姿。
ただでも悪いあたしの視力じゃはっきり見えない距離の、その人の耳が、長く尖っていることだけ辛うじて判る。
セイエス、だ。
森の民と言われる、医療にたけた人たち。
あまり外向的な種族ではないと聞いたけど、中には旅をしている人もいるんだって。
あたしに聞いているのは解ったけど、どう答えていいか解らなくて、あたしは返事ができずにその人を見ていた。
ゆる、と首を傾げて、その人がもう一度口を開く。
「大丈夫だよ、何もしないから」
その声があまりに優しかったから、止まりかけていた涙が急激にまた溢れはじめる。固まってた全身が、思い出したようにガタガタ震え出した。
なんとかしゃっくりを飲み込みながら、あたしは必死で、喉から言葉を押し出す。
「うぇぇっ……、あた、あたしっ、……迷子になっちゃって、お金、ないから、どうしよ……ふぇうぅ」
うまく説明できない。どう話したら解ってもらえるのかも、どうやってちゃんと声を出すのかも、思い出せない。
でもその人は、怒ったりはしなかった。
「迷子? きみ、どこから来たの」
穏やかに聞き返しながら近づいてくると、自分のバックから白いタオルを取り出して、あたしに渡してくれた。
震える手で受け取って、見上げれば、優しく笑って頷かれる。だからあたしはそれに顔を押しつけて、必死に言葉を返した。
「ゼルスの、スラム」
しん、と返る沈黙。急に不安が襲ってきて、あたしはタオル越しにそっと様子を覗う。
スラム出っていうと、大抵は嫌がられるかバカにされるんだった。
涙が少し治まったのと、タオルで顔が拭けたのとで、街灯の明かりに照らされた彼の顔がよく見えるようになっていた。
やせ気味だけど立ち姿は姿勢が良く、薄地の黒っぽい旅装に、黒塗りの長い杖を持っている。
癖のない短めの髪は黒くつややかで、つり気味で黒目がちの瞳は、何かを考えている風だった。
顔の、ちょうど目の下辺りに星か何かの絵が描かれてあって、半袖から伸びる腕にも模様みたいなモノが描かれてる。
綺麗なセイエスのお兄さん、だった。
衣服は地味で簡素だけど、薬草と香料の混ざったみたいないい香りが、ふんわりあたしの鼻をくすぐる。借りたタオルからも、お兄さん本人からも。
あたしはなんだか恥ずかしくなって、自分のシッポをこそこそと足の下に挟み込む。
そんなことをしてたら、ふいにお兄さんが口を開いた。
「それってゼルスのどの辺か解る?」
なんでそんなことを聞くのか解らず、あたしはタオルからそろそろと顔を上げ、聞き返した。
「おにーさん、や、じゃないの?」
「……や、って何が?」
きょとんと見開かれた目が、あたしをまっすぐ見る。それだけで全身に熱がともり、あたしは泣き腫らした顔をタオルで隠しながら、小さく答えた。
「……キタナイとか、イヤシイとか、……クサイとか思わないのかなって」
お兄さんがすっと息を吸って、あたしをまじまじと見るのが解った。
綺麗できちんとした身なりの彼と違い、あたしは不カッコで汚いナウエアの野良ダヌキ。
色抜けしたみたいに色の薄い金髪は伸びすぎて傷みがひどいし、薄紅色の目は泣きすぎたせいに見えてしまう。
ボロボロのワンピースは寸足らずで、腕も脚も顔も傷だらけ。不カッコに大きなタヌキの耳も、太いだけのシッポも、白いから汚れが目立ってきっと臭くなってる。
編み上げのサンダルだって、さっきのであちこち解けてるし。
臭くて汚くて、賤しい、それは確かに本当のことで。
でも自分で言ってしまっただけに、沈黙がとてつもなく長く思える。
ふ、とお兄さんが溜息をついた。どきりと跳ねた心臓に、彼の呟きが届く。
「思わない。他の人は知らないけど、私はね」
「うそっ」
全身がかぁっと熱くなって、あたしは思わず言い返した。
だけど彼は気にした風もなく、ひょいと杖を横倒しに持ち替えて片膝をつき、あたしに顔を近づける。
「私の名前はリーバ。昨日ゼルスに来たばかりの旅人だよ。きみの名前は何?」
ふわんと香る草のニオイ。
近すぎる距離で笑う綺麗な顔に、あたしは全身の毛が逆立つくらい緊張して後退ろうとしたけど、彼はためらいもせず手を伸ばして、あたしの左腕を掴んだ。
震えているのがばれちゃう。
すんなり細い指は見た目通りに滑らかで、頼りなさそうなのに、ちゃんと強い。
どく、どく、と内側で震えるあたしの心臓の音が、指を伝って聞こえてしまいそう。
黒だと思った瞳が近くで見たら月の明るい夜空に似た色だと、気がついた。
街灯の照り返しなのか、きらきらした光のカケラがまるで星みたい。
「何もしないってば。きみの家まで連れて行ってあげるから、名前教えて?」
歌うみたいにささやかれる。
だからあたしも、つられて答えてしまう。
「あ、あい、……あいりーん」
名乗ることさえちゃんとできずに、ぎゅーっと胸が苦しくなった。だけど彼はなんてことない顔で、アイリーン、と確かめるように繰り返す。
そして、にこりと優しい笑顔をあたしに、向けて。
「よろしく、アイリーン。きみは私の、この街で三人目の友人だよ」
友人、て言葉があたしの頭を通り抜けていった。
彼の右手があたしの腕を離し、左手に触れて指に絡む。ぼうっとしているうちにあたしは、お兄さんに手を取られ、引っ張り起こされていた。
「えと、……あの」
「リーバ。リーバ=シルヴェスレイ」
「……リーバ、しるべすれい」
聞きたいのは名前じゃなかったけど、彼がもう一度そう名乗り直したから、あたしもその難しそうなセカンドネームごと彼の名前を繰り返した。
「リーバでいいよ、アイリーン。きみは疲れてるようだし、ケガもしてる。きっとお腹もすいてるよね? ……だから、まずは休もうよ。それからゆっくり話をしよう」
優しい声で言い聞かせられて、あたしはまた泣き出しそうになってしまう。
彼の言うとおり、もう、何もかもが限界で。
ちょっとでも水が飲めて横になれるなら、もうどうなってもいい、って思った。
「……んぅ」
涙と混じった変な声で頷いたら、彼も頷き返して、支えるように肩を抱いてくれた。
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