現実主義者の死

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あるいは対角線上のユートピア

 批評家として名高いエヌ氏は、格別に弁舌の才に恵まれてこそいないものの、分野を問わない見識の広さで少しばかり名が知れていた。


 どんな話題でもこれは、と思うような気の利いた知識をさりげなく披露する。手際の派手さには欠けていたけれど、中道保守寄りの振る舞いとしてはそれもまた好意的に受け止められているのは確かだ。

 実際、大抵の主張にその場で反例を出し、慎重な議論を求める能力は彼の政治的立場と良く合っていた。論敵にとってはこれほどやりづらい相手は居なかっただろう。


 知り合ったのは偶然だった。お互いに思想的な立場は無関心で、ただ酒の好みだけはずいぶんあった。


 ある日、狂ったように二人揃って飲み明かし終電を逃した夜に、彼の家に一晩邪魔することにした。


 今晩はぜひ泊まっていくといい、気絶する前に一杯ご馳走しよう、と呂律も回らないエヌ氏は書斎に私一人を残してふらふらとダイニングへ去って行った。ふかふかのカウチに倒れこんで一息ついた私は、部屋に並んだ彼の蒐集した品々を眺めていた。


 電子書籍とネットメディア全盛期のこの世界に真っ向から反逆するかのように、ここにはあらゆる知識を網羅しようとしている意思が感じられる。


 この時世では図書館すら購入をためらうような、厚く重くやたらと値段の張る学術書が部屋の一角に無造作に積まれているのは、碩学家の風格を感じさせる。もっとも、この男の見境の無い知識の源泉と比較するなら、それらはほんの一部分にすぎない。


 たとえば、ある本棚の中に応用数学や圏論についての注釈書が置かれていると、隣には初回限定版ついたやおい漫画の一群が鎮座している。その隣には、バズワードに便乗して門外漢が書いたと思しき新技術についてのやたらと薄い新書が立ち並び、そのまた隣には自費出版か同人誌として書かれたジャンル分けすら不可能な、研究書ともエッセイともつかぬ本の形をとった奇形児どもが列をなして異様な存在感を醸し出している。


 こちらに近づいてくる足音が聞こえる。エヌ氏が戻ってきているのだろう。


 部屋中に溢れた本たちの存在は、なるほど当代随一の知識人の風格を感じさせる。しかし一方で、その品揃えには妙な違和感があった。しばし考えて、その理由に行き着く。選書がリベラルじみているのだ。おおよそ中道保守の立場にいる人間が読みそうな本ではない。


「待ちくたびれたかい?さあ飲んでみてくれ、上等なグルジアワインさ」


 赤ら顔のエヌ氏がボトルとグラスを手に書斎へと入ってきた。


「ああ、どうも。これはまた珍しいものを…」

「縁あって何本か個人輸入の品が手に入りましてな。さあ、二人の酔っぱらいに乾杯と行きましょう」


 グラスの当たる音が、蚊の鳴くように小さく響く。


「それにしても大した書斎ですね。このご時世に立派なもので」

「いやはや、そんな大それたものじゃあありません。趣味で買ったものばかりですよ。随分と無駄遣いもしてきました」


 エヌ氏は景気よくグラスを傾けている。


「私は思想には疎いのですが、しかしやはり人となりというものは、その人の本棚では測れないものなんでしょうね。わたしは人の読書歴というものを垣間見ればその人の心情やら考え方の出どころは分かるものだと思っていました」

「まさか。自分の考えていることと無関係な本ばかりわざわざ買いそろえる輩はおらんでしょう。人は文なりというやつです。いやこれはちょっと違うな。まあ個人差はあるでしょうが…」

「ふむ、ではそこに置かれている本などはどうでしょう。そちらも、貴方の志向に合って買ったものと思いますが」


 私は、ナイトテーブルの上に置かれた付箋だらけのくたびれた本を指さした。最近どこかの無名ルポライターが書いた、社会的マイノリティに属する人びとの声やインタビューが綴られた一冊だ。著者の調査や分析の出来はともかく、生きている人間の声がリアルに記されているとかで、界隈で話題になっているのは私も知っている。エヌ氏のような話題に敏感な文士が持っているのも不思議ではない。ただ、その本が何度も読み込まれて、いつでも手の届くところに置かれているのは奇妙だ。


「ああ、その本か。あまり期待せずに買ってみたものの、これが面白くてね。抑圧された人間の声というものは、どうしてか底知れない力強さを感じる。書いた男の描写力もまだまだ荒削りだがどこか美しい。あの文章からにじみ出る熱情がうらやましい。これから売れるだろうね」


 私が手に持っていたグラスがエヌ氏によってふたたび満たされる。開けたばかりのグルジアワインの瓶はすっかり軽くなっている。


「私が不思議に思ったのはまさにそこですよ。あなたは保守だ。いわば、老人寄りの人間だ。自由と平等よりも、伝統と秩序を重んじる人種だ。なのにこの書斎に並んだものを見渡す限り、そんな気配は微塵もない。イノベーションがどうとか、シンギュラリティがどうのこうのとか、新しい権利がとか…貴方は本当は左派にいるべき人間ではないのですか。」


 エヌ氏はここに着いた時よりなお酔いが回ったらしく、笑いながらグラスを傾けるばかりだ。


「まったく大した慧眼です。あなたもいつか言葉を発信する立場の人間になるべきですよ。洞察力はこの業界では何より大事なんですからな。」


 何杯目かわからない酒を飲みほしながら、エヌ氏が満足げにうなずき、再び口を開いた。


「実際のところ、わたしとて人類の進歩は信じています。もっとも、こんな目まぐるしい時世に世の中に変化などない、とのたまう人間はちょっと居ないでしょうがねえ。兎も角、あなたの言うように私は保守主義的価値観とは相容れないのかもしれません。しかしですね、私はそれを信じていながら、どこかでそれを疑ってもいるのですよ。マイノリティに是正処置をすれば逆差別が生じ、社会福祉を整えればタックスヘイブンが発展する。結局すべては闘争なのかもしれない。社会を変えていこうとする意思、実に立派だ。絶対に失われてはいけない黄金の精神だ。わたしはそれがうまくいくはずがないと思っている。ああ、だがそれを否定すれば後には何が残るだろう。冷笑と皮肉。下劣な冗談を言うだけの末人と仲良くするほど落ちぶれちゃいない。私は現実主義者だが理想を追う者には最後に勝利してほしい。抗い続けるたましいは尊いものだ。自分と同じように老いていくなど想像したくもない。たとえ道の先が過ちだとしても、不正と重圧に服従してほしくはないんだ、見込みなんかなくても、ただ叫び続けてほしいんだ。いや、違う、私だって彼らの幸福を祈っているには相違ないはずだ。苦しみ続けてほしくなんてないのに…私は何を望むべきなのだろう…」


 気が付けばグルジアワインの瓶はすっかり空になっていた。ついさっきまで、いつになく真っすぐな目をしていたエヌ氏はすっかりつぶれてしまい、静かに寝息を立てている。時計を見ると、もう夜更けも過ぎる頃だった。道は分かっている。ここから駅まで歩いて着くころには始発に乗って家路につくことができるだろう。


「おじゃましました。今晩は何から何までありがとう。今日は話せてよかった」


 すっかり寝入ってしまったエヌ氏に挨拶してから念のため書置きを残し、私は邸宅を出た。


 夜明け前の青く薄暗い路地を歩きながら、私はエヌ氏の言葉を思い返していた。


 彼は理想主義者だったが、自分の理想を信じ続けるにはあまりに年を取っているのだろう。


 エヌ氏はまだ眠っているのだろうか。そうだとしたら、せめてその間は夢も見ず穏やかな眠りに堕ちていればいい、と思った。


 このご時世では、夢を見るのにも苦痛が伴う。

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現実主義者の死 go_home_journey @mukaihikisara

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