回答編

 誰も一言も声を発さなかった。

 人の死を初めて目の当たりにした樹里は勿論のこと、職業柄人死にに慣れている紫音も、禁忌に等しい「人体を造る」技術を持つ明菜も、発するべき言葉を何処にも見出せなかった。

「おーい!何があったんだ!?」

 永遠にも思われる程長い時間が過ぎた頃、彼女らを追って来た他の客らによって、現実に引き戻された。だが、それだけである。誰一人として、この状況を正しく認識出来てはいないのだから。

「───先生が、死んでるわ」

「何だと!?」

 呼び掛けてきた客─二時の席に座っていた帚木─が叫ぶように聞き返す。酔っていることもあるだろうが、それだけ信じられないのだろうと樹里は納得した。樹里自身、賢木に思い入れは無くとも信じられないという思いはある。ついさっきまで話していた相手が、見る影もない残骸へと姿を変えていたのだから、無理もない。

「ど、どういう事だ……?まさか、お前達が?」

「んなわけないでしょ。酔っ払って自分がなんでここまで歩いてきたのか忘れちゃった?」

 未だ現実を見ていないような帚木の問いに、あくまで辛辣に答える明菜だったが、しかし彼女もそれでは全員犯人ではないことになってしまうことに気が付かない程度には動揺していた。

「酔っ払いなんか要らないわ。全員、今すぐ酔いを覚ましなさい」

 紫音が横目で睨みながら言うと、その場にいた成人全員の顔から赤みが消え、寧ろ現場の惨状に蒼白になった。

「いい面構えになったじゃない。言うまでもないけど、これは殺人事件よ。邸内に他の人がいない以上、ここにいる誰かが犯人ということになるわ」

 いつになく真剣で、見る者に恐怖心すら懐かせるような面持ちで、紫音は聴衆へ向けてそう語った。お前達の誰かが犯人だ、と。

 それは、容疑者がさっぱり分からないという訳ではないという朗報と言えなくもなかったが、また同時に残る十一人全員が容疑者であり、犯人でない者は今殺人犯と共にこの場に立っているのだという悲報だった。

「そんな事は分かっている。犯人が分からないのだろう? だのに何故貴様が仕切っている?」

 食堂では六時の席についていた柏木が問うが、事情を知る者には最早自明の理である。だが、残念ながらこの場にいる殆どが、魔術師としての紫音しか知らなかった。

「何故って、。知らなかったかしら?」

 口調だけは穏やかに聞き返す。あくまで口調だけであり、相変わらず睨み付けていたが。

「私は探偵、それも魔術犯罪専門の探偵よ。故に、これ以降は私の指示に従って貰うわ。勝手にウロウロされると捜査の邪魔だから」

「だが、貴様が犯人でないという証拠は?」

「それは『悪魔の証明』になるから却下。今のところ、誰にも動機はなく、全員にアリバイがあるんだから。容疑者から外せるのは、そこの若菜樹里と総角明菜の二人だけ。彼女らにはそもそも手段がないからね。逆に言えば、貴方達にしても私にしても、やろうと思えば出来るのよ。誰でもね」

 十八歳だとは思えないほど堂々とした態度で、大人達に向けて、自分が犯人でない証明は出来ないと宣言した。それは大人達にしてみればとんでもないことだっただろうが、樹里は寧ろそれをハッキリと告げられる紫音に対して一層尊敬の念を深めた。

 良くも悪くも単純である。

「それじゃ、とりあえず食堂へ戻って。私達はこの部屋を調べるから」

「しかし……」

「邪魔だって言ってるのよ。貴方達みたいな素人が現場にいたって何の役にも立たないんだから、大人しく酒でも飲んでなさい」

 紫音が再度睨みつけると、後から来た者は皆戻って行った。残ったのは、樹里、紫音、明菜の三人である。

「明菜、正直貴女も邪魔なのだけど」

「固いことは言いっこなしだよ。それに、現段階で犯人じゃないのはボクとそこの若菜ちゃんの二人だけだ。ボクは紫音がやってないと信じてるけど、向こうの連中はその限りじゃないでしょ。彼等からすれば、容疑者とその部下に任せるよりは、白と決まっていて、かつ紫音の仲間じゃない人間が付き添った方が安心でしょ。幸い、ボク達の関係を知っているのはここにいる者だけだから、監視役のフリをするにはもってこいでしょ?」

「全く、こういう時だけは弁が立つんだから……。いいわ。でも邪魔だけはしないでよね」

 かなり呆れた様子ではあったものの、結局そこにいることを認めた。かなりあっさりと認めたので、樹里は紫音が明菜を如何に信用しているかを垣間見た気がして、少し羨ましく思った。

「さて。まともな仕事は久しぶりね。給料出ないけど」

 と呟いて誰もいなくなった部屋に向き直る。

 ベッド等の最低限の家具はあるが、他には何もない。高価な絨毯が敷かれていたようだが、全て血に塗れて見る影も無くなっていた。

「いつもならコートがあるんだけどなぁ……。部屋に置いて来ちゃったわ」

「私、取って来ましょうか?」

「頼んでもいいかしら? じゃあ、お願いするわ」

「お任せ下さい!」

 樹里は元気に応えて部屋へ駆け出した。まあ、内部構造をよく把握していなかったので、一度食堂まで戻らなくてはならなかったが。

 走りながら先週の事を思い出す。紫音が五分とかけずに解いてしまった謎。その際の紫音の言葉。

「コートはね、捜査に必要なものが入ってたりするから、着たままやるのよ。裾を引き摺るようなものでもないからね」

 確かにそう言っていたはずだが、結局紫音は一切コートからものを取り出さなかった。捜査中に取り出したのは白い絹手袋だけだが、それはポーチからだった。ではあのコートには何が入れてあるのだろうか。

 いや、そんなことを考えている場合ではなかった。他人とはいえ、死人が出ているのに、上司のコートのポケットの中身を気にしている奴が何処にいるものか。まあ此処にいるのだが。

 やっとの思いで記憶を辿り部屋へ駆け込む。何も考えずにコートを取って踵を返し、再び全力疾走する。

 現場である賢木の部屋へ戻る途中で不意に思った。コートのポケットに何も入っていないのではないか。ポケットに何かが入っている様な膨らみはなく、その重量もない。

 不審に思い、僅かな罪悪感を押し殺してポケットを検めた。やはり何もない。

(どうしよう。何も入ってない……。かといって取りに戻ったところで何が入れてあったのか分からないし……)

 足は止めずに考えたが、既に現場近くまで戻って来ていたので、そのまま渡すことにした。

「本当に、何が入ってたんだろう」


 樹里が賢木の部屋まで戻った時には、紫音は車椅子を検分していた。明菜は相変わらず廊下の壁に寄りかかって目を瞑っている。

「持ってきましたよ、コート。ただ、特に何も入ってないようですけど……」

「ああ、それは大丈夫よ。見てわかるようなものは入れてないもの」

 そう言って受け取るなり、、再び樹里に渡した。

「え!? どうなっているんですか!?」

 先刻見た時には確かに何も入っていなかったにも関わらず、難なくルーペを出してきたので、思わず大声が出た。紫音はニヤリと笑って答えた。

「簡単な魔術よ。召喚術を仕込んであるのよ、そのコート」

 僅か一週間とはいえ、紫音の下で学んできた樹里にとって召喚術はとても馴染み深い魔術ではあったが、それでも樹里にはよく理解が出来なかった。何しろ「魔術を仕込む」という概念がもう分からない。

「要するに、詠唱しなくても魔術を扱えるように、事前に図形や式で表した魔術を用意しておくのよ。そこに魔力さえ通してしまえば立派に魔術として発動するの。私達魔術師はこれの事を『魔術陣』及び『魔術式』と呼んでるわ」

「じゃあそのポケットには……」

「そ、内側に私が書いた魔術式があったのよ」

 それで合点がいった。予め用意出来るのであれば、それに越したことはないのだ。紫音はそれを実践したに過ぎない。それでも用意出来るというだけで樹里にとっては充分凄いのだが、紫音は何の感慨もなく車椅子を調べ始めた。

「ねえ樹里ちゃん。『イザヤ書22章22節』って、どんな内容だったか覚えてる?」

 唐突に、偶然天井を見上げた紫音が尋ねた。樹里はイザヤ書が旧約聖書の中に入っているのは知っているが、そんなピンポイントに22章22節と言われても分からなかった。

「いえ、分かりません。突然、どうしたんですか?」

「見れば分かるよ」

 樹里の質問に、頭上を指す事で答えた。そこには、恐らく血文字であろう、赤い字で、『ISAIAH,22,22』と書かれていた。

ISAIAHイザヤ……」

「流石に覚えてないわよね。明菜は?」

 廊下で佇んでいる筈の明菜に顔は向けずに声をかける。だが、返ってきたのは総角明菜の中性的な声ではなく、明らかに男性のものだった。

「『わたしは彼の肩に、ダビデの家の鍵を置く。彼が開けば、閉じる者はなく、彼が閉じれば、開く者はないであろう』だよ。それが何の関係があるのかは知らないが、イザヤ書22章22節は今言った通りだ」

 紫音は驚き、バッと振り返って相手を睨み付けた。

「花散里牧師、何故貴方がここにいるのかしら? 邪魔だって言った筈よね?」

 怒気を孕んだ声で尋ねると、牧師はやや相好を崩して答えた。

「貴女が犯人でないという保障がないからね、もし証拠を隠していたりすると困る訳だ」

「その為にここに私がいるんですよ、牧師さん。あんまり彼女の邪魔をしないであげてください。見つかるものも見つからなくなってしまいます」

 口調こそ丁寧に、だが明らかに不満そうに明菜が反論した。

「あまり信用できないよ。何故貴女達が犯人でないと断言出来たのかって問題もあるしね。もしかすると、犯人だから知っているのかもしれない」

どういたしましてOn the contrary。出来ないものは出来ないのよ。その技量がないんだから」

 紫音がぶっきらぼうに応じた。辛辣な言い方ではあったが、事実ではあるので、致し方ない。

「ほー。弟子の若菜さんはともかくとして、総角さんについては何故そう言える?」

 ムッとした様子で、ついに手を止めて向き合った。

「私が名探偵だから、ではご不満?」

 丁寧な言葉遣いではあるものの、普段なら絶対言わないような棘のある言い方だったので、樹里は少し心配になった。

「では私に何が出来るか、当てられるかな?」

 挑戦、もしくは挑発するように牧師が笑った。出来っこないと高を括ったような笑みに、紫音の我慢は最早限界だった。

「貴方は……本来の指定魔術たるはずの製作はからきし。むしろ得意なのは言語魔術で、言ったことを具現化することくらいは容易い。今回の件のような爆破を直接行うことは出来ないものの、具現化によって行うことも可能と見た。四大元素もやはり直接は使えない。以上の事から推理出来る貴方の弱点といえば、貴方、元々は花散里じゃなくて東屋あずまや、しかも次男ね?」

 花散里はたじろぎ、目を見張った。一歩、二歩と思わず後ずさる。

「それを知っているのは私一人のはずだ。何故分かった?」

「ふん。初歩だよElementary。そもそも、『何も作らない』って貴方が言ったんじゃない」

 その答えにいくらか冷静さを取り戻したとみえる牧師は反論した。

「なるほど、確かに私は自己紹介でそう言った。だけども、それを『しない』とは言っても『出来ない』とは言ってないよ」

「出来るなら何故あんな事を言ったのかしら? 出来ない事がバレないように、使わない理由らしきものを言っただけじゃない?」

 冷ややかに返され、言い負かされたかに見えた花散里だったが、ややあって、状態を立て直さんとさらに弁を奮った。

「じゃあそれは良しとしよう。私の本来の魔術が言語というのはどうしてだ?」

「音で私を騙せると思った? 貴方の言葉が音として伝わる以上、私に作用しない様にするのは容易なことよ。本来なら、私以外にも気が付く人がそこにいるでしょうけど、それがないのは何故か。そう考えれば簡単な話。貴方の自己紹介自体が暗示、いや、それよりも高度な現実改変だった、違う?」

「くっ……」

「そこまでいけばあとは完全に知識からの推論。魔術について学んでいながら指定魔術が全く使えないという現象は記録にはない。なのでこれは除外する。この時点で貴方が花散里ではないと推理出来る。四大元素が使える魔術師のリストに載ってないことから考えて、今回の爆発を直接は起こせない。言語を指定魔術にしている家は東屋家で、言霊信仰の徒だと言われている。その点から考えて、発言の具現化が出来ると思われる。故に貴方は東屋から養子に出された。跡継ぎたる長男を養子に出す馬鹿はいないでしょうから、少なくとも次男以降なのは間違いない。これでどうかしら?」

 しばらくは口もきけない様子で、悄然と項垂れていたが、やっと口を開いた時には素直に負けを認めた。

「……なるほど、確かに貴女は名探偵だ。魔術界において、これ程の人材は他にいないだろうね。私の負けだよ。疑って済まなかった」

「どうでもいいわ、そんなの。私のにとって、謎解き以上に大切な事なんかないもの。推理の前提は一つだけ。『有り得ないことを除いた時、When you have eliminated the impossible,どんなものが残っても、whatever remains,如何にありそうになくてもhowever improbable,真実に他ならないmust be the truth.』 シャーロック・ホームズだってそう言っていたでしょ? そう考えればあらゆる事は推理出来るはずなのよ。この件のあり得ないことは、貴方が制作の魔術が使えるということね。貴方が名乗ってからずっと気になってたのよ。貴方、花散里の前当主夫妻にちっとも似てないんだもの」

 恐ろしく綺麗な発音の英語で、シャーロック・ホームズの名言を引用したことに樹里は驚いたが、花散里は紫音の言葉をやや無視するように踵を返した。素っ気ない言葉を残して食堂へ戻って行く。

「皆には伝えておこう。私が行ったら秘密を全て暴かれた、名探偵であることを疑う必要はない、とね」

「それはどうも」

 返事を返す紫音もまた、素っ気なかった。


 花散里──元々は違うようだが、正式に養子となっているのでここでは花散里のままにする──が去った後、再び車椅子を念入りに調べていた紫音が歓声を上げた。

「見つけたわ。手掛かりになるわよ、これは」

「何があったんですか?」

 紫音があまり嬉しそうなので、樹里も興味が湧いた。紫音は自身の持っていたルーペを樹里に渡し、

「この車椅子の座面の裏、魔術陣が小さく書いてあるのが分かるかしら?」と言った。

 ルーペを使ってようやく分かるかどうかくらいの大きさで、紫音の事務所地下にあったものとは違う模様の魔術陣が描かれていた。車輪が邪魔で書きにくかったのだろう、座った際の左側に随分寄っている。

「車椅子の座面の裏って、書こうと思っても書けませんよね、普通」

「普通ならね。でも、その気になれば出来るわ。何しろ、これは使

 さも当然の事のように言ったが、樹里には意味がよく伝わらなかった。

「どういうことですか?」

「考えてもごらんなさい。もしここに描かれている魔術陣が原因で爆発したなら、この車椅子がこんなまともな形してる訳ないじゃない。これは部屋の隅に置いてあった予備に過ぎないのよ」

「じゃあここに書けるのは…」

「さっきの食事が始まるまでの間にここへ来られた人、全員よ。ただ、この一つについて考えるならそれでいいんだけど、今回は違うでしょ?」

「そうですね。賢木さんが乗ってる車椅子にも書かなきゃいけない」

「そこまで考えて、何か思い付かない?」

「ボク以外に、どちらにも書くチャンスがある人はいない、ってことでしょ?」

 そこで、総角が口を挟んだ。ついさっきまで廊下に佇んでいたが、飽きたのだろう。一所に留まっていられるような性格ではないのだ。

「正解。でも貴女はそもそもそれが出来ない。何しろ自分の書いた魔術陣と魔力の経路を繋ぐ事すら出来ないんだから」

「この建物の中では、ね。先生は結局その制限解いてくれなかったからなあ」

「貴女が遊び過ぎたんでしょ。自業自得よ」

「えっと、よく分からないんですけど……」

 例によって話についていけない樹里がおずおずと口を開いた。紫音は僅かに申し訳なさそうな顔をした後、ざっくりと説明した。

「この家は賢木先生の魔術拠点なの。それは分かるわね? オッケー。で、自分の魔術拠点内であれば、誰かの魔力の流れをカットする事が出来るのよ。昔私がここに住んでた頃、コイツは至る所に魔術陣を書いて悪戯してたもんだから、この建物の中では魔力を他の場所に流せないようにされたのよ」

「はぁ……。え? でもさっき念話で呼ばれたんですよね?」

「アレも魔術だけど、ちょっと形式が違うからね。相手がちゃんとした魔術師であり、かつ受け取り手の魔力が届く程の近距離であれば、送る方が多少上手くいかなくても、受け取る側が勝手に受け取れるのよ」

「へ、へぇ。そうなんですね」

「要するに、ボクが紫音に送ろうとしている、という事実があって、かつ今みたいに、もしくはさっきみたいにボクが紫音の近くにいるならば、紫音の魔力を使って紫音がそれを読み取れるのさ。魔力の経路が繋がるんだ。ボクが送ろうとしていなければ、読心魔術でも使わない限り読み取れないけどね」

 何となく分かったような分からないような、という樹里の様子だったので、明菜が補足を入れた。それも決して分かりやすくはなかったが。

「ともかく、明菜が魔術陣を使って魔術を使おうとしたら、魔術陣に直接触れて魔力を注入しなければならない、という事実があるわけよ。だから明菜は少なくとも爆破を起こした犯人ではない。とはいえ、これだとまだ魔術陣を書いただけの可能性はあるけどね」

「ははぁ、ボクが書いた魔術陣を誰か別の人間が起動させた、って事か。そう考えれば、ボクが共犯の可能性もあるんじゃないの?」

 意地悪く微笑む明菜に対して、紫音はまた冷ややかに答えた。

「無理ね。だって貴女、この部屋に入ったら爆散するでしょ」

「流石に覚えてたかぁ。先生が亡くなったからこそこうやって入れるんだよねぇ」

 紫音はこれも明菜があまりに悪戯するので、怒った賢木翁が入れないようにしたのであると説明した。明菜の体は人形であり、仮に爆発四散したとしても、新しい肉体さえあれば復活出来るのである。

「貴女はさっきその身体ボディについて『三年前に破壊されてからずっと使ってる』って言ってたでしょ? だからこの部屋には入ってない事が分かるってわけ。そして自動作動式の魔術陣がまだ床の上にあったから、先生が解除した訳でもない」

「言ったねえ、そんなこと。じゃあ、これが本当にその時の身体だって、どうして言える?」

「それこそ初歩の初歩。私がここを出る時に撃ってつけた傷が首に残ってるじゃない。自分の付けた傷にすら気が付かなかったら、探偵としておしまいよ」

 明菜ははにかむような笑みを浮かべ、

「えへ、紫音がボクに唯一残したのがこの傷だから、ずっと残してあるんだよ」と言った。

「気持ち悪いわ。もう一回撃ってあげようか?」

 心底気持ち悪いと言わんばかりに紫音は吐き捨てた。

「さて、この部屋で見るべきものはだいたい見たわ。一度食堂に戻りましょう」

 紫音はスっと立ち上がった。明菜は少し名残惜しそうだったが、結局樹里と一緒に立って、共に部屋を出た。

「し、紫音さん、廊下が…」

 廊下にあった迷路が、消えている。まっすぐ、何も無い廊下が続いているだけだ。

「あれも、先生の魔術だったからね。魔術ってのはね、術者が死んだからと言って、すぐに解除されるとは限らないのよ。でも、いつかは必ず消える。偶々さっきまで残留してたってだけよ」

「アレが無くなったから、ボクが部屋に入ったのさ。先生の魔術が消えない限り、あそこには入れないからねえ」

 紫音の説明に、明菜が口を挟む。さっき知り合ったばかりなのに、すっかり樹里にも馴染んでしまっている。紫音もそうだが、相手の警戒心や緊張を削ぐのが得意なのだろう。

「でも、それだと魔力消費が凄いことになりませんか?」

 当然のことを訊く。邸内全てに魔術をかけ続けるのだ。並の魔力で出来る芸当ではない。

「なるわよ。だから車椅子だったんじゃない。魔力が足りているなら、車椅子なんか必要ないのよ。怪我はすぐ治せるし、あんなに一気に老化しないし、立つことすら出来ないなんて有り得ないのよ。普通ならね。魔力が足りないから、肉体を崩壊させてまで魔力を作ったのよ、あの人は。昔はもっと魔力を精製出来たんだろうけどね」

「肉体を犠牲にするなんて……そんなことしたら、死んじゃうじゃないですか」

「そうだね、あのままだったらあと二年はもたなかっただろうね。その場合、先生には子供がいないから、相続人はボクだったんだけど──」

「無駄話はこれでおしまいよ。廊下が短くなったんだから、もう着くわよ」

 紫音に窘められて、明菜は膨れ面で押し黙った。


 全員席に座ってこそいたが、誰も目の前の食事に手を付けようという人はいなかった。アレを見て食欲がなくなったのか、不謹慎と思ってのことかは分からないが、樹里は少し勿体ない気がした。

「お、戻って来たな。探偵さんよ、何か分かったか?」

 熱血漢の常夏が問いを投げた。

「そうね、今日はもう皆寝た方がいいことは分かったわ」

 何とも奇妙なことを言った。殺人が起こったのに探偵が真っ先に言うことが「寝た方がいい」とは、些か理解の範疇を超えていた。だが紫音は至って真面目な顔をしている。本気で寝た方がいいと思っているのであろう。

「この状況で寝ろってか? バカ言ってんじゃねえよ」

「寝てろって言ってんのよ。いや、別に寝なくてもいいわよ。無駄に体力を消費してなさい。明日どうなっても知らないけどね。それじゃ、おやすみなさい」

 ほぼ一方的に言って、踵を返した。感情の赴くままに反論した常夏はさも面白くなさそうに、「オレは寝ねえぞ」と吐き捨てた。

「寝ないにしても、お部屋に戻られては? その方が幾分か安全でしょうから」

 童顔の夕顔が言った。擬似的に魔術拠点とした各自の部屋にいる方が安全なのは確かだった。

「それに、貴方達がいない方が私も料理が片付けやすいですしね」

 明菜が更に促した。驚いたことに、この人はこの人で、殺人があったとは思えない程落ち着いているのである。

 明菜に促され、全員が部屋に戻った。否、樹里と明菜を除いた全員が、である。

 明菜が食堂の何もない(ようにしか見えない)壁を叩くと、そこは仕掛け扉になっていた。中から人型をしたマネキンのようなものが歩き出てくる。

「これはボクの人形達の一部でね。今日の為に作った急造品だけど、必要な仕事は彼らがしてくれる。ボクはただいるだけの使用人長って感じかな。ところで、そこでずっと待ってるってことは、ボクに話があるんだろう? 紫音の昔話とか?」

 樹里は驚いて目を見開いた。何故分かったのだろう。

「当たりみたいだね。簡単な事さ。君はさっき紫音にボクとのことを訊いて、返答を拒否された。じゃあ答えて貰えないから諦めよう、となるか? 勿論ならないね。それこそ人間なら当たり前の事だ。紫音は今どう見ても機嫌が悪い。その原因がボクにあるのは十分承知してるけどもね。そこで紫音のことを訊こうと思ったら、相手はボクしかいない。この状況で、ボクに魔術を教えろとか言うほど君は魔術がまだ得意ではない。事件のことなら紫音に話したって怒られる訳が無い。どう?」

「……そうです。今までも一度も話してくれたことがありません。いつ訊いても答えて貰えません。ですから、他を当たってみようと思いまして……」

 これを聞いて、明菜は少なからず驚いたようだった。目を丸くして樹里を凝視している。

「若菜ちゃん、見かけによらず積極的に行動出来るんだね。本当なら話すつもりなんて毛頭なかったけど、気が変わったよ」

「話す気なかったんですか……」

「当然だね。彼女が話したくないことをボクが話すのはフェアじゃない」

「でも、話してくれるんですよね?」

 明菜は頷いた。少々難しい顔をしながら席に着く。

「……紫音はね、ご両親を殺されてるんだ。三年前にね」

 樹里には初耳だった。それが紫音と、樹里の父である若菜俊彦としひこが知り合ったという『三年前』の話か。

「犯人は不明。黒幕は分かっているけど、居場所は掴めない。自分も狙われる。そんな状態だったんだよ」

「狙われるって、なんでですか?」

 樹里には馴染みのない状況なので、上手く理解することが出来なかった。何故、両親だけでなく、紫音も狙われるようなことになるのか、想像もつかなかったのである。

「そもそも敵さんの狙いが、紫音の体だったからさ。彼女は生まれついての天才だからね。体を奪って、精神中身を入れ替えようとする輩がいたんだ。ボクが人体ですらないもので成功していることからわかると思うけど、別のものに自らの精神を入れるのは不可能じゃない。どうやら老いた体の代わりにしようとしたらしいよ」

「ひどい……」

 まさに外道だ。これがもし仮に死体を使うのだとしても十分非道だが、紫音はどう見ても生きた人間である。理解したくもない魔術師の闇を見たような心地だった。事実、これは魔術師達の闇の側面なのかもしれない。魔術師が人に溶け込むために隠している非人道的な側面。

「その敵さん方、最初はいきなり紫音に接触して、直接本人を説得しようとしたとか。当然交渉は決裂、紫音の身体をめぐる争いの勃発って感じ。その初っ端、争いが起こったことを知らせるよりも前に紫音のご両親は──」

 そうだったのか。一切何も話してくれなかったので、樹里には全てが驚きだった。自分の知らない一面をこっそり隠れて覗いてしまったみたいな気持ちになって、少し心苦しかった。

「その後で、一度ボクも殺されてね。それ以来ボクは人間ではない。自宅は危険だからって言ってしばらくこの屋敷で生活してたんだよ。紫音、ボク、先生の三人でね。でもその三人だけで対応するのはちょっと大変だから、先生が助っ人を呼んだ。それが、若菜ちゃん、君のお父さんだ」

「それで、その事件はどうなったんですか?」

 明菜は少し言いにくそうな顔をして沈黙した。樹里には訳が分からない。無事に解決したはずだと思っているだけに、余計に混乱した。何故彼女は黙っているのだろう。

 やがて明菜が心底言いたくないといった調子で口を開いた。

「どうもならなかった。捕まえられたのは下手人だけ。ボクも先生も若菜警部も、黒幕に掠めることすら出来なかった。唯一黒幕と対峙した紫音も、勝てないと判断して帰ってきたくらいだ。紫音が勝てない魔術師がいるとは思わなかったな」

 樹里も全く同感だった。彼女は基本的に何でも出来る魔術師だ。中学へ上がってすぐにはロンドンへ留学して、現地のどんな魔術師よりも優秀だったという。そんな彼女が勝てないとはどういう事だろうか。三年前なら、紫音は中学三年生のはずだ。

「なんかね、幻影の扱いが上手だったらしいよ。どう見ても本人がそこにいるんだけど、実際は幻影だった、みたいな。『その場にいない人間を倒すことも捕まえることも私には出来ない』なんて言ってたね。彼女の手腕をもってしても、未だに居場所が掴めないのさ」

 まるで幽霊のようだと思った。神出鬼没で、正体を悟らせない。もっとも、幽霊の正体なんてものは往々にして何かの見間違い、勘違いだったりするので、その点においては全く異なると言えるが。

「紫音はそんな敵を称して、『魔術界のジェームズ・モリアーティ』なんて言ってたね。老人で、悪の黒幕で、自分は直接手は下さない。何より、紫音本人が『魔術界のシャーロック・ホームズ』なんて呼ばれてたものだから、余計にぴったりくる呼び名だよねぇ」

「その敵、名前とかは?」

 樹里は彼女なりにその事件に興味を持った。まさか名前を聞いて分かるような人物ではないだろうとは思ったが、聞かずにはいられなかったのである。『最後の挨拶』のワトソン博士だってモリアーティの名は知らなかったのだ。知らないことは恥ではない。

「名前ねえ……。言ってわかるか知らないけど、松風まつかぜ純一郎じゅんいちろうっていうらしいよ。松風家の前当主だったかな。ボクは会ったことないから、伝聞ですまないけど」

「い、いえ、大丈夫です。

 明菜はきょとんとしていたが、樹里はそのまま礼を言って、紫音が待っているからと食堂をあとにした。


 部屋の戸を開けると、中から白い煙が僅かに流れてきた。

「あぁ、樹里ちゃんか。おかえり」

 煙の中のソファで紫音が丸くなっている。右手にはキャラバッシュ・パイプ。煙の原因はこれらしい。

「またご喫煙ですか? いつものブライアー・パイプはどうしました?」

 呆れを隠さずに言った。未成年じゃなかったのか。普段が大人びて見えるというか、二十歳を過ぎていると言われても納得出来る様子に見えるせいで違和感を感じなかったので全く指摘しなかったが、ここへ来る前にも何度かパイプを使っていた。その時は柄が真っ直ぐのビリヤードタイプのパイプだったが、今は大きく婉曲したキャラバッシュを使っている。

「ん? ああ、これか。言ってなかったっけ。これは煙草じゃないよ」

 紫音がどうでも良さそうに答えた。

 樹里は首を傾げた。どう見ても煙草にしか見えないし、煙まで上がっている。だが確かに煙草特有の匂いはしない。

「これは、結晶化させた魔力マナよ。魔力が足りなくて、かつゆっくり休む時間がない時には、こうやって別の方法で補充するのよ」

「紫音さん、今日そんなに魔力使いました?」

 樹里が気が付いた限り、魔術を殆ど行使していないはずである。なのに魔力が足りないとはどういう事か。

「私はねぇ、普通に生きてるだけでも多くの魔力を消費するの。そういう風に出来てるのよ」

「はあ、大変ですね。何か理由が?」

 紫音は少し考えてから、

「そのうち話すわ」

 とのみ答えた。右手に携えたパイプを僅かに持ち上げ、樹里をじっと見据える。何かを話すべきかどうか迷っている時に紫音がよくやる癖だった。結局ややあって口を開いた。

「これ、魔力を気化させて吸うんだけど、その欠点は何だか分かる?」

 欠点とは何か? そんなこといきなり訊かれても分かる訳がないではないか。樹里は首を傾げた。

「判断する材料を見てはいるんだから、少し考えれば分かるわよ。ワトソン博士と同じね、樹里ちゃんは。目で見てはいるけど、心から見ることはしてない。ま、今はそれでもいいわ。これの欠点はね、無駄が多いことよ。気化したものが直接出てるんだから、吸える分は自然と少なくなるでしょ?」

 なるほど、確かにその通りである。樹里は納得した。煙のように見えていたのは、気化した魔力だったのだ。言われてみれば当然である。魔力を気化させるのに何かを燃やす必要なんかない。だとすれば、出ているのは少なくとも煙ではないはずだ。煙草の代わりに結晶化した魔力を入れ、煙の代わりに気化した魔力を吸うのであれば、反対側から立ち上るのも気化した魔力でなければおかしい。

「それともう一つあってね。人間が一度のガス交換で入れ替えられる空気の割合はどれくらいか覚えてる?」

 樹里は頷いた。

「つまり、それしか体内に取り込めないのよ。たくさん吸っても、15%しか入れられない。だから無駄が多いってわけ」

「無駄の少ない方法ってなんかないんですか?」

 何故敢えて無駄の多い方法を取っているのか気になったので問いかけた。無駄が多い方法しかないのであれば仕方ない。

「あるにはあるわ。錠剤みたいに魔力結晶を飲むとかね。総角なんかはいつもそうしてたわ。ただ、それだと腸で吸収するまでかなりタイムラグがあるからね。無駄がなくて、即効性があるものとしたら、ソレくらいよ」

 そう答えて、机の上に無造作に置いてあったモロッコ革のケースを指した。樹里はそれを手に取り、端正な顔を僅かに顰めた。

「所長、まさかとは思いますけど、これは皮下注射器じゃありませんか?」

「ご名答」

 ニヤリと笑って答えた。

 シャーロック・ホームズは一時期のことながら薬物——コカインもしくはモルヒネ——を愛用していた。長編『四つの署名』で、使用するシーンが描写された時に打っていたのがコカインの七パーセント溶液であり、彼はいつもその為の皮下注射器をモロッコ皮のケースに入れていた。

「勿論、違法薬物を注入する訳じゃないから大丈夫よ。溶かした魔力を直接血管内に入れることで、無駄なく遅滞なく魔力補給出来るの」

 ちょっとした興味から訊いたことに、そんな答えが返ってくるとは予想していなかった。樹里は黙ってケースを元の位置に戻し、ベッドの端に腰掛けた。

「ところで所長、何か分かりました?」

 十分魔力を吸ったのか、パイプを片付け始めた紫音に向かって問いかけた。

「何かって?」

「今回の事件ですよ」

 分かってる癖に、と樹里は心の中で言う。探偵が事件を調べて「何か分かったか」と訊かれたら、まず間違いなく事件の事に決まっている。それ以外に何を尋ねるというのだ。明日の天気でも訊くつもりか。そんなものはテレビにでも訊け。

「嗚呼、うん。大体分かったかな」素っ気なく答えを返した。

「ど、どんなことが分かりました?」身を乗り出して尋ねる。

「犯人は左利き。髪は黒くて短い。男性。指紋を付けない程度の慎重さはあるけど素人。そんなとこかしら」

 具体的な返事を聞いて、樹里は更に身を乗り出した。

「それなら、犯人はだいぶ絞り込めますね。でも、どうやって分かったんです? 髪は分かります。毛髪が付近に落ちてたんですよね。それと、男性なのも分かります。短い髪の女性はここにいませんから。でも、利き手とその、素人だというのは?」

 樹里にはちっとも分からなかった。何故そんなことが言えるのだろうか。自分がいつもより一層馬鹿になったような気分だった。

「もう。今回は初めての事件だから簡単に説明するけど、自分でも色々考えてみなさい。貴女は私の助手なんだから」

 そう窘めた後、少し居住まいを正して樹里の方に向き直った。

「魔術陣、片側に寄ってたでしょう? 車輪が邪魔になるから仕方ないけど、もし右手で書いてたら反対側に寄るはずよ。普通に考えて、背もたれ側からしか書けないからね。足置きが折り畳めるようになってないから邪魔だもの。指紋は何処にも無し。でも髪の毛が採取出来たってことは、そこに気を使っていないということ。そしてその車椅子の魔術陣の位置にも気を使えなかったのは、慣れていないから」

 言われてみれば、簡単なことである。探偵助手の癖に何と想像力の乏しいことか。樹里は少し情けなくなった。

「じゃあ、樹里ちゃん。明日の朝一番に客を全員食堂に集めるように総角に伝えて貰える?」

 自分で伝えるのは嫌らしい。まあそうだろうなというくらいには納得出来たので、樹里は素直に頷いた。

「何をするつもりですか?」

「決まってるでしょ。探偵が関係者を集めるとしたら、そこでやる事は一つだけ」

 紫音は指先だけを突き合わせるようにして手を合わせ、ニヤリと笑った。

「謎解きだよ」

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