大問編

 次の土曜日、橋姫紫音と若菜樹里の二人は車の中にいた。運転席には紫音、助手席には樹里が座る。

「紫音さん、車運転出来たんですね」

「そりゃ出来るわよ、このくらい。楽勝楽勝」

 最新型のハイブリッド車。若菜家の車より静かに走る紫音のそれに、樹里はとても満足していた。

「乗せて貰っておきながら、満足するなんて言っちゃ駄目だよね……」

「ん? 何か言った?」

「い、いえ、何も」

 ボソリと呟いた声は、紫音には聞こえなかったようだ。それとも聞こえなかった振りをして貰えたか。前者である事を願いながら、樹里はさり気なく話題を変えた。

「あとどのくらいで着きますか? もう随分走ってますけど」

「うーん、あと三時間ってところかしらね。道が空いてればもうちょい短いかもしれないけど」

「さ、三時間ですか……」

 既に二時間は走っている。計五時間あればどこまで行けるのだろう、などと益体もない事を考え始める。

「寝てていいわよ。着くまでに疲れちゃったら大変だもの」

「そうですね……。じゃあ失礼します。おやすみなさい」

 そのまま眠りに落ちた樹里が最後に見たのは、先の見えない渋滞の列だった。


 五時間後。

 着いたわよ、という声で起こされた。見れば、何やら大きな洋館の前。

「ここ、駐車場がないのが難点ね。車をどうしろと言うのかしら。ま、いっか、このままで」

 寝惚けた樹里の頭でも駄目だと分かるくらいとんでもないことを言ってのけた紫音は、そのまま玄関(と思しき大扉)へ向かって行く。

 勝手にスタスタ歩いて行った紫音と、慌てて追いかけた樹里の二人が丁度扉の前に揃った時、ひとりでに扉が開いた。

「魔術と分かっていても、驚きますね」

「そう? 私はむしろ客が来ても出迎えがない賢木さんの神経に驚くわ」

「それはそうですけど……、何か事情があったのかも」

「さぁねぇ。とにかく、入ってみなきゃ分からないわ」

 やや機嫌悪そうに入って行く。そもそも、七時間もぶっ通しで車を運転していれば不機嫌にもなるというものだ。出迎え云々はいちゃもんの様だと思ったが、樹里はぐっと堪えた。

 邸内は豪華絢爛だった。例えようもなく豪華な内装に調度品。

(この一割でもいいから事務所を華やかにすればいいのに……)

「相変わらず趣味の合わない人ね……。こんなにギラギラして、目が疲れるわ」

「そうですか? 綺麗だと思いますけど」

「私には無駄に飾ったものにしか見えないわ。シンプルでいいのよ、部屋なんて」

 凄まじい偏見ぶりである。樹里の部屋(無論実家の)が綺麗だとは思わないにせよ、紫音の事務所は些か殺風景過ぎると常々思っていた。しかし、飾るのが嫌いだとは思っていなかった。

「美しさの基準は人それぞれだからね、あんまり押し付けちゃあいけないよ。

 右側から突然声がかけられる。男とも女とも言えるような、例えるなら女性の声優が男の役を演じているような、微妙な感じの声。

「はぁ……。その名前で呼ぶなって、何度言ったら分かるの、総角あげまき

「久しぶりに会う友達にそれはあんまりじゃない?」

「貴女と友達だった覚えはないわよ。いいからさっさと案内しなさい」

「はいはい。相変わらず遊びがないねえ」

 人を小馬鹿にしたような台詞とともに声の主が姿を現す。

 長く艶やかな黒髪。あまりにも整った顔立ち。バランスのとれた体つき。美人には間違いなかったが、樹里の目にはその全てが作り物のように見えた。

「──そこのお嬢さん、見る目があるようだね。もしかして、教えた? 私のこと」

「まさか。貴女がここにいるとも思ってなかったし」

 女はクスクスと笑いだす。紫音の機嫌はなお悪くなる。ほぼ蚊帳の外の樹里は、対称的な二人の様子を見ている他なかった。

 総角、と呼ばれた女について部屋に通される。この部屋も、かなり豪華な装飾が施されていた。

「はぁ……。悪い人ではないけど、部屋の趣味は合わないわね、とことん」

「その、賢木さんというのは、どんな人なんですか?」

 部屋に入るなりげんなりしている紫音のぼやきを聞いて、今更のように樹里は尋ねた。

「私の中学の時の先生よ。部活の顧問だったわ。授業は一度も受けたことなかったけど」

「中学には行ってたんですね、紫音さん」

「そりゃ義務教育だもの。高校から先は行く価値が見つからなかったから、あと仕事があったから行ってないわ。在籍はしてるけど」

「凄い理由ですね……。行く価値が見つからなかったからって」

「別に大した事ないわよ」

 ぶっきらぼうに言って、部屋備え付けのベッドに腰を下ろした。樹里はさっきの総角についても質問したかったが、紫音の機嫌が今まで一週間のうちで最悪なので何も言えなかった。

 無言のまま時間が過ぎるかと思われたが、今度は紫音の方が口を開いた。

「うちの中学にはね、魔術部ってのがあったの。勿論普通の人は知らないから、樹里ちゃんも知らなかったんだと思うけど。私はそこの部長だったわ。とは言っても、部員が私しかいなかったからね。賢木先生とはその頃からの知り合い。私が卒業するのと、先生の定年退職が同じタイミングだったから、私が最後の教え子ってわけ」

「そうだったんですか。じゃあ、さっきの総角さん、でしたっけ? あの人は?」

「アレは私の元クラスメイト。魔術師だってことを中学三年生の夏まで完全に隠してた強か者よ。……私でも気が付かなかったわ」

「え? でも、総角って源氏物語にありませんでした?」

 実際、ある。源氏物語第四十二巻が総角だ。

「偽名を使ってたのよ。総角じゃなくて、荒巻って」

「似てる……といえば似てますね、読みは」

「私だって源氏物語の中にあれば気が付いたでしょうけど、無ければ魔力の気配で気付くしかないわ。そして彼女は、その気配を隠すのが大得意だったのよ」

「どうやって隠してたんですか? 私みたいに、そもそも魔力を精製する方法が分からなかった、とかじゃないですよね?」

「そうではないけど……そうね、それはしばらくしたら分かるわよ。それまでのお楽しみにしときなさい」

「はい。所長は出来ないんですか?」

「出来ないことはないわ。具体的には──」

 そのまま魔術談議をすること一時間程、食事の用意が出来たと連絡があった。あろう事か念話テレパシーで。

「よっぽど私に顔を見せたくないのかしら。それにしてもやりすぎよね、これは」

 首をかしげ、ブツブツと何やら呟きながら食堂へ向かう。

 そこで二人を待っていたのは、車椅子の老人だった。

「見苦しい姿で失礼。ついに立つこともかなわなくなってね。こうして車椅子生活を余儀なくされている」

「なるほど。それで総角に身の回りのことをやらせていたんですね?」

「いつもなら他にいるのだけどね。今日に限っては皆追い出している。君たちとの談義を邪魔されたくはなかったからね。その代わり総角君に手伝って貰っていた、というわけだよ」

 自嘲の笑みを浮かべながら話す賢木老人を眺め、紫音は思案に耽る。

(老いて衰えたか……。魔術の腕は決して衰えてはいないにせよ、肉体がもたない……。いや、この違和感は何だろうか)

「ところで先生、」

「先生はよしてくれ。僕はもう教師じゃないんだから」

「先生はいつまでも先生ですよ。誰がなんと言おうと変わりません」

「はっはっは。頑固な教え子も居たものだ。それで、どうした?」

「これは何の集まりですか? まさか五十四家全てに声をかけたとかじゃありませんよね?」

「違うよ。あくまで僕の教え子のうち、魔術師の子を呼んだんだ。時に橋姫君、後ろの彼女はどちら様だい?」

 ここで初めて樹里に視線を向けた。値踏みするような目に戸惑う。

「ああ、私の弟子かつ探偵助手ですよ。加えて、若菜警部の娘さんです」

「若菜警部というと、三年前の?」

「そうです。あの人です」

「ふむ、言われてみれば少し面影が……ある、かな?」

「ないと言うのが正直な感想のようですね」

「相変わらず、人の考えをバラすのが好きなようだね。僕は感心しないけど」

 二人で苦笑いする。樹里だけは話について行けずにオドオドしている。

「と、これはいけない。他の人達が来る前に席についていて貰おうかな」

「他には誰が?」

「教えてあげてもいいけれど、どうせ皆来るんだ。それまで楽しみにしていた方がいいのではないかな?」

「ふふっ、それもそうですね」

「後で、自己紹介の時間を設けよう。若菜のお嬢さんの為にも、その方がいいだろう」

 車椅子がひとりでに走っていく。円形になっている食卓を時計と見立て、入口を六時とした時の十二時にあたる場所まで走り続け、そこで止まった。見れば、そこだけ椅子が除かれている。そこが定位置なのだろう。

「えっと、何処に座ればいいんです?」

「小さいネームプレートがあるだろう。あくまで自分用だが。そこに座ってくれたまえ。お嬢さんの分は名前が分からなかったから、ネームプレートのない所に座って貰えるかな? 橋姫君の隣だが」

「あ、はい。わざわざありがとうございます」

 思えば樹里が賢木老人と話すのはこれが初めてである。

(樹里ちゃん、慣れれば誰とでも話せるけど、慣れるまでは本当によそよそしいというか、ぶっちゃけ挙動不審よね……。先生も他の人もそんなことを気にするような人ではないと思うけど)

 隣の紫音がそんなことを考えているなど露も知らず、指定された席に並んで座る。紫音が十時、樹里が九時の席だ。

 そこへ、新たな客が現れた。否、訂正しよう。彼女は別に新しくはない。無論、総角女史である。

 樹里にとってみれば人工的な美しさを振り撒きながら、迷うことなく十一時の席につく。

「他のお客さんにも声はかけて来たけどー、果たして時間通りに来てくれたのはひめっちだけかあ」

「その名前で呼ぶなって言っているのが分からないかしら?」

「はいはい、紫音はお堅いねえ」

 ニヤつく総角。紫音はそれを見て思い切り顔をしかめ、樹里はこの人は性格が悪い、と心の備忘録に記した。

 無言のまま気まずい空気が漂い始めた頃、カソックを着た二十代半ばの男が食堂に現れた。

「遅れて申し訳ない。祈りを捧げていたものでね」

「えーっと、神父さん?」

「これは失敬な。私をあんなローマの一味と思って貰っては困る。私は牧師だよ」

 思わず樹里が呟いた疑問について、即座に否定してきた。

「? 神父と牧師って、何が違うんですか?」

「神父というのはカトリック、ないし東方正教会での聖職者の通称だ。牧師というのはプロテスタントの聖職者の職名。つまり、両者は根本的に違う、というわけなのだよ」

 得意気に説明する牧師。カトリックとか、プロテスタントというのは歴史の授業で聞いたことがあった気がする。

「そういうわけで、私を神父なんて呼んでくれるな。虫唾が走る。ところで先生、他の七人はどうしました?」

「まだ来ていないよ。そのうち来るだろう。座って待っていてくれ」

 席を勧められた牧師は、自分の席につくなり聖書を取り出し読みだした。敬虔なクリスチャンなんだなあ、などとまるで子供のような感想を樹里は持ったが、口に出せば紫音に笑われると思い、胸の内に留めておいた。


 全員が揃ったのはその更に十五分程後だった。

 主催者たる賢木が挨拶を述べ、食堂を見回して自己紹介を促した。当然本人からである。

「僕は、改めて言わなくても分かるだろうけど、賢木総一郎そういちろう。『空間』を操る魔術師だ。まあ、今では魔術も大したものは出来ないんだけどね」

 好々爺然とした賢木の自己紹介を受け、そこから時計回りに続く。最初に立ったのは、四十になろうかという、中年の男だった。やや太っているようにも見えるが、そんなもんだと言われればそんな気がするくらい、気になるものでもなかった。

桐壺きりつぼ英一えいいちです。『炎』の魔術を使いますが、魔力量の都合上大したことは出来ませんので、あんまり期待しないでください。以後よろしく」

「初対面な上に魔術を使う機会もないってのに何に期待するって言うんだか……」

 隣でボヤく紫音の声が聞こえる。何だかキャラが変わっているような気がするが、気のせいだと思うことにした。

 次に立ったのは、最初の桐壺と同じ年頃の男性。しかし、桐壺が太って見えるのに対して、帚木はこれでもかと言うほど痩せていた。目が相当悪いようで、見るからに度の強い眼鏡をかけている。

「私は帚木ははきぎ敏彦としひこと言います。『水』使いです。昔は全く出来ませんでしたが、先生の手ほどきのおかげです。今後ともよろしくお願いします」

 誰によろしくを言ってるのか分からないな、と思ったが、横の紫音が何も言わないので樹里もまた黙って聞いていた。実は父親と名前の読みが同じなのだが、そこは何も気にならなかった。

 間髪入れずに次が立つ。待ちきれないとばかりに立ち上がった女はまだ若く、二十代後半と言ったところか。金髪で、稲妻の形をあしらった金色のネックレスを着けている。金眼なのはなにかの魔術だろうか。それともカラコンか。

紅葉賀もみじのが晶美あきみです。酷い苗字だと思いません!? 何ですか紅葉賀って。言い難いにも程がありますよね!あ、『雷』の魔術を使います。よろしくお願いしますっ!」

 うるさい人だ。言い難いのはたしかにそうだが、それを自己紹介で捲し立てるように言う必要はなかったんじゃないかと樹里は思う。

 ちら、と紫音の方を伺えば、最早完全に興味を失っているらしく、総角のカトラリーを変形させて遊んでいた。

 次は先程の牧師の番だった。

「私は花散里はなちるさと和樹かずきです。見ての通り、牧師をしています。花散里の魔術は『制作』ですが、私は特に何も作りません。神へ祈りを捧げるのみです。よろしくお願いしますね」

 花散里牧師が席につくと、ひとしきり遊んだ紫音が一言だけ呟いた。

「何だかあの牧師、気になる……何かが引っかかる」

 牧師本人はその呟きに気が付いた様子もなく、にこやかに次を促している。

 次はなかなか立たなかった。二十代半ばと言った感じの、大人しそうな女性だったので、きっと恥ずかしがり屋なのだろうと思って皆文句は言わなかったが、ここへ来て黙られても困ると賢木氏に言われてようやく立ち上がった。

「えっと、ほたる麗美れいみです。その、何で私みたいなのがいるのかわかんないんですけど……一応、『飛行』の魔術が使えます……えっと、その、よろしく……お願いします」

常夏とこなつ祐吾ゆうごです!『熱』を扱います!よろしくお願いします!!」

 最早述懐を挟む余地すらない見切り発車。簡潔な自己紹介だが、少々暑苦しい。年は二十五、六ぐらいか。

 次に立った隣も同じ位の年齢に見える。こちらはいかにもといった感じのクールさを醸す、長身イケメンだった。

柏木かしわぎ英孝ひでたかです。『氷』を使います。よろしく」

 氷使いがクールとか超テンプレ、とか思った樹里は、先程の暑苦しい男が熱使いだと言っていたのを思い出した。

(魔術って、性格に影響するんだなあ。あれ?じゃあ私は?)

 自問に自答する前に次が立ち上がった。一転こちらは背の低い、童顔の青年だった。年は……二十代前半か?

夕霧ゆうぎり浩輔こうすけです。こう見えても二十四です。『複製』の魔術師です。どうぞよろしく」

 驚いた。もう少し若いかと思っていた。

 が、驚いている場合では無い。次が樹里の番である。

「わた、私は若菜樹里です。えっと、その、魔術とか殆ど出来ないんですけど……知識だけなら少しはあります。よろしくお願いします」

 座ってそのまま俯く。顔から火が出るとはまさにこの事だ。恥ずかしいどころの話ではない。魔術が出来ない代わりに、こういう場くらいしっかりしようと思っていたのだが、立ち上がった瞬間そんなことは緊張で吹き飛んだ。

 と、ポンと頭に何かが乗せられた。驚いて面をあげると、乗っているのは隣の紫音の手だった。無言でわしゃわしゃと撫でながら立ち上がる。次は紫音の番だ。

「橋姫紫音。、一応名乗っておくわ。言うまでもなく『音』使い。あと何か言うことあったかしら。あ、彼女は一週間前から私の弟子だから、手を出すなら死を覚悟して来なさい」

 喧嘩を売るような自己紹介を堂々と終えた紫音は、立つ前より不遜な態度で席に着き、未だ落ち着かない樹里にそっと告げた。前を向いたまま、声だけを樹里のみの耳に届けるようにして。

「私達より年上の人が多いからって気にする事はないのよ、樹里ちゃん。私達魔術師に、年功序列という考え方は基本的にない。私達が気にするのは、魔術の腕だけだからね。樹里ちゃんはまだ殆ど使えないけど、一週間で使えるようになったらそれはそれで異常だから、気にしなくていいのよ」

 こく、と頷く。樹里は勿論紫音のような芸当は出来ないので、声を出せば周りに聞こえてしまう。念話すら聞こえない今の樹里では、こっそり意思疎通する事は困難なのだ。

「総角明菜あきなです。『使役』を主に扱います。よろしくお願い致します」

 最後の総角明菜は、音もなく立ち上がり、馬鹿丁寧に挨拶し、恐ろしく優雅に席に着いた。


 それから先は、殆ど無礼講のようだった。先程の丁寧な自己紹介が嘘のように思われる。

 出て来た料理が洒落たフルコースのような、形式ばったものでなかったこともあったろう。皆思い思いに食べ、飲み、騒いだ。

 樹里、紫音、総角を除けば皆成人だったので、程度に差はあれど酒に酔った人が九人。最早何の集まりなのか分からない、賑やかなだけの会食となった。

「よくもまあこんなに騒がしく出来るわね、この人達」

「紫音さんは苦手ですか? こういう場くらい楽しんだらいいと思いますけど」

「これ、楽しい? お酒飲んでる人達は楽しいでしょうけど、私はさっぱり楽しくないわ」

「たしかに私も別に楽しい訳じゃないですけど……そこまで言うのはちょっと」

「良いのよ。どうせ誰も聞いちゃいないから」

 周りに聞こえないような配慮もせず不満をこぼし続けていると、紫音の反対隣から声がかかった。

「ひめっちはそもそも私がここにいるのが気に入らないんでしょ?」

「その通り。二度と会いたくなかったわ」

「辛辣だねえ。私は会いたかったけど」

「うわキモい」

としては、当然のことだと思うけど」

「その方がむしろ気持ち悪いわ」

「え!? お二人って…そういう関係だったんですか!?」

 あくまで辛辣に対応する紫音だったが、樹里が驚きの声を上げたので、いつも通りの紫音に戻った。

「樹里ちゃん、私にも触れて欲しくない過去くらいあるのよ。あんまりそこをつつかないでちょうだい」

「あ、はい。すみません」

 訂正しよう。全くもっていつも通りではない。いつもより遥かに不機嫌だ。一周まわって笑顔なのが恐ろしい。

「明菜、ちょっと腹立って来たから殴らせて」

「うん、ちょっと落ち着こう紫音。いくら私が人形とはいえ、紫音に本気で殴られたらこの肉体ボディが死んじゃう」

「知らないわよそんなの。まだストックはあるんでしょ?ならいいじゃない」

「うわあ頑固…ってかこの体、三年前に前のボディをキミが破壊した後からずっと使ってるんだから、これ以上壊さないでよ」

 二人とも物騒なことを言っているが、樹里は事情を知らないので余計に物騒な話に聞こえてならなかった。

「どういうことですか? 総角さんが人形って」

「そのまんまの意味だよ。私の体は作り物なんだ。三年前からね」

 全く理解出来ない。自分には理解出来ない事を言っているということしか分からない。

「わかりやすくはないけど説明するとね、コイツは元々ただの人間だったけど、魔術の研究中に思いがけず人体を創ることに成功して、それを元の身体の代わりに使ってるのよ。だから、人形。人体という人形よ」

「じゃあ、元の体はどこへ?」

「死んだよ。正しくは、殺された、だね」

「!?」

「もっとも、三年も前の話だし、スペアはあるし、犯人は紫音が捕まえたし、私は別に気にしてないんだけどね」

 何でもない事のように答える。実際、明菜にとってはどうでもいいことなのだろう。死んだのは肉体だけで、残った魂も新しい肉体を使って生活しているのだから。

「ところで明菜、貴女いつまでそので喋るつもり? いい加減気持ち悪いわ」

「──相変わらず辛辣だよねえ。やっぱり気が付いてたかぁ」

「気が付かないとでも思った? 私を誰だと思ってるのかしら?」

「まあ、そうだよね。それでこその恋人だ」

「元、でしょ。いつの話をしてるのよ。それに、アレは貴女が無理矢理──」

「まあまあ。いいじゃん、そんなこと」

 紫音的には全く良くないし、話に付いていけない樹里的にも全く良くなかったのだが、話すのも面倒くさくなったので、二人とも押し黙った。


「私は少々疲れたので、お先に失礼するよ。後は好きにやってくれたまえ」

 一時間ばかり姦しい晩餐会を続けた後、賢木老人が中座した。時刻は既に二十時過ぎ。明菜が手伝おうと立ち上がったが、賢木が「自室にくらい一人で戻れる」と言って聞かなかったので、諦めて再び席に着いた。大人達は皆酒に溺れ、紫音は自棄になって最早胃袋がはち切れるというほど食べ物を詰め込んでいる中、樹里は未だにこの場に馴染めずにいた。

 十分程経った頃、突如ドンッと低い音が響き、屋敷全体が揺れた。食堂がシンと静まり返る。

「ちっ」

 紫音が舌打ちしながら駆け出したので、樹里は慌てて追いすがった。その後から明菜が走ってくる。

「明菜、先生の部屋は変わってないわね?」

「うん、キミが出て行ってから変わってないよ」

 無言で頷いて走る。そんな紫音を追いかけながら、樹里は別の事が気になった。たった今、自然に吐き出された言葉。確かに明菜は「キミが出て行ってから」と言った。ならば紫音は以前ここに住んでいた、ないしは長期的に滞在していたという事になる。どう考えても今はそんな事が聞けるような状況では無いが、落ち着いたら必ず聞こうと心にメモした。

 迷路じみた邸内を進む。外から見た時には分からなかったが、そもそも明らかにサイズ感がおかしい。恐らく魔術的に改変されているのだろう。五分程かけてようやく賢木老人の部屋へ辿り着いた。

「先生ッ!」

 ノックすらせずに戸を押し開けた。

 だが、そこに賢木の姿はなく、部屋中を真っ赤に染める血液と、ひしゃげて転がった車椅子だけがある。その他にあるものと言えば、最早元の形を留めていない肉片ばかりだった。濃い血の匂いが立ち込めている。

「うっ……」

 吐き気を堪える。ここで何があったのかは分からないが、それでも、ついさっきここで賢木総一郎が死んだことだけは確かだった。

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