第2話 食料と寝床と

 いつも夕食を頼んでる隣の家は、幸い快く引き受けてくれた。あのおばさんの言うとおり、早めに言ったのが良かったらしい。

「作り始めてからだったら、どうにもならなかったよ」とは、隣のズデンカさん――召喚されたイサさんに負けず劣らずおばさんだ――の言葉だ。

 ともかく僕は今日のところは、夕食ナシという最悪の事態を避けることができた。それだけは素晴らしい。

 ――他が頭痛いけど。

 おばさんが帰れるのは、少なくとも五十日は先だ。ということはあのおばさんはその間、たぶんこの家に居ることになるんだろう。そうなると僕はずっと、あのおばさんに振り回されるわけで……考えるだけでも憂鬱だ。

 これで言ってることが分からなければ聞き流すこともできるけど、きっちり理解できて、聞き流せないのがまた辛いところだ。

 師匠が言うには、魔法陣のある地下は他の世界と繋ぐ関係で、ある程度両方の世界が混ざり合うらしい。おばさんがこっちの言葉が分かるのも、そのせいだそうだ。

 ただこれが曲者で、部屋を出ると分からなくなる。けどそうなると、てきめんにおばさんの機嫌が悪くなる。これほど始末に負えないのは、部屋中にはびこって退治できなくなったカビくらいだろう。

 結局どうしたかというと、師匠が急いで小さい魔法陣をこしらえて、それをおばさんに持ってもらった。これだと違う世界に行けるほどの力はないけど、二つの世界が微妙に混ざり合って、言葉なんかが通じるようになるんだそうだ。

 で、おばさんはご機嫌になって、ご飯を食べてる。その嬉しそうな顔がけっこう可愛く見えて、そう思ってしまう自分がなんだか節操がない気がして、なんとも微妙な気分だ。

 そんな僕の前に、お皿が突き出された。

「何ですかこれ」

「もう要らない」

「――え?」

 おばさんのお皿、まだ八割がた食事が残ってる。好き嫌いかと思ったけど、よく見るとぜんぶが少しずつ減ってるから、そういうわけじゃないみたいだ。

「要らないって、ほとんど食べてないじゃないですか」

「要らないものは要らないの。それともあなた、食べないの?」

「た、食べます!」

 これは天からの恵みだ。僕におなかいっぱい食べられる日が来るなんて、想像もしなかった。こういうことなら、おばさんって種族があと五人くらいいてもいい。

 師匠がひとりごちる。

「世の中には食物以外から力を得る御仁というのが居るとは聞いたが……そのたぐいなのかもしれんの」

 なるほど、そういうこともあるかもしれない。でもどうだっていい。目の前にあるご飯がすべてだ。嬉しさで涙が出そうになりながら、僕はおばさんの残した食事をほおばった。

 けど、現実っていうのは父さんの言うとおりヒドいもので、僕にそれ以上の安らぎは与えてくれなかった。

「ねぇ、今晩あたしどこに寝るわけ?」

「寝る場所、ですか?」

「そう」

 さっさと寝たい、そうおばさんの顔に描いてある。

「後で案内します……」

 僕は憂鬱を声に乗せて答えた。

 部屋は、ある。けっこう立派な客間だ。

 師匠のところには誰も訪ねてこないのに、なんでそんなものがあるのかは分からない。でも無いのに比べればずっとずっとマシだ。

 ただ問題は「立派」なだけで、たぶんおばさんが気にいるとは思えないところだった。

 おばさんは僕の気持ちなんてお構いなしに言葉を続ける。

「後でじゃなくて、早めに案内してよ。さすがに疲れたから、脚伸ばしたいし。あと、この食器はどうするの?」

 僕だってすごく疲れてる、そう言いたかったけどガマンした。言ったら最後、きっと十倍は言い返される。トラブルを避けたいなら女性に反論するなって、父さんも言ってたし。

「食器は洗って、料理と交換に返すんです」

 当たり障りなくそう答えると、やおらおばさんが立ち上がった。

「どこで洗うの?」

 どうやら洗ってくれるらしい。これはものすごくラッキーだ。僕の仕事が減るなら、おばさんって種族がこの家に十人くらい居たっていい。

「こっちです~♪」

「ずいぶん嬉しそうね」

 おばさんが怪訝そうな顔になるけど、僕はまったく気にならなかった。食事が増えただけじゃない、雑用まで減る日が来るなんて、やっぱりカミサマは僕を見てくれてたんだ。明日は久々に神殿へ行ってお祈りしなくちゃ。

「ここで洗うんです」

 水場へ案内すると、おばさんは辺りを一瞥して僕に訊いた。

「タワシは?」

「たわっし?」

 なんのことだか全くわからない。

「何ですか、たわっしって」

「こういう汚れ物を洗う道具」

「あぁ、なんだ。それならこれですよ」

 言って藁を束ねた物を渡す。でもおばさんから返ってきたのは、お礼じゃなくて文句だった。

「こんなのしかないの? これでホントにキレイになるの?」

「こんなのしかって言われても、どこの家だってこれ使ってますよ」

 僕の言葉に、不服そうな顔をしながらおばさんは洗い始めた。

「あーもうやっぱり。まったくもう、ちっとも油が落ちないじゃない!」

 かなりおかんむりだ。こういう時は自分に矛先が向かないように、そっとその場を離れるに限る。けど僕がその場を離れるより早く、おばさんの声が飛んだ。

「そこのキミ、桶に灰入れて、そこに水入れて持ってきて!」

「キミって……僕スタニフっていう、ちゃんとした名前が」

「いいからやって!」

 有無を言わせぬ口調に、僕は抗議を諦める。こういう勢いの女の人には逆らっちゃいけない、父さんもよくそう言ってたし。

 自分でも何をしてるか分からないまま、僕はカマドの灰を一掴み取って、掃除用の水桶に入れ、そこへ水を入れて、おばさんに渡す。

 おばさんは桶の中を見ながらしばらく待って、上澄みをそっとすくって皿にかけた。

「何やってるんですか、汚れちゃいますよ」

「いいのよこれで」

 何がいいのか分からない。だいいちこんなことをしたら、隣のズデンカさんに僕が怒られる。しこたま文句を言われて、ヘタしたら僕の明日のご飯が無くなるかもしれない。

 けどおばさんは自信たっぷりの顔で、例の藁束でお皿をこすり始めた。

「ん、洗剤ほどじゃないけど、さっきよりはずっと落ちるわー」

「え?」

 驚いておばさんの手元を覗き込むと、確かにお皿がピカピカになってた。あのしつこい油汚れが、白く濁って溶け落ちてく。

「な、なんの魔法ですか?」

「魔法? 違うわよ、ただのアルカエキ」

 言ってる事がさっぱり分からない。けどこのおばさん、そのへんにある物から、何かの魔法薬を作れるみたいだ。師匠がこれを聞いたら仰天するだろう。

「呪文、いつ唱えたんですか?」

「だからそんなの使ってないってば。理屈さえ分かってれば、こんなの誰でもできるわよ」

 おばさんは事も無げに言うけど、大変な話だ。

 僕の知ってる魔法は、理屈が分からないと使えないのはもちろんだけど、それ以上に適性がモノを言う。

 どんなに理屈が分かっても、魔力が無ければ使えない。初歩の初歩、作られた陣に魔力を込めなおす程度の作業だって、誰でもはできない。魔法っていうのはそういう物だ。魔法に適性があった僕は、その点でかなりラッキーだった。

 なのにこのおばさんがやったことは、誰でもできるっていう。魔法の常識を無視してる。

「ぼ、僕でもできますか?」

「だから誰でもできるってば。この上澄み使って、こするだけだもの。やってみる?」

 藁束とお皿を差し出される。

「これに、浸けるんですね?」

 言いながら恐る恐る、灰の入った桶に藁束を浸して、おばさんがやってたようにお皿をこすってみた。

 落ちる。汚れがどんどん落ちる。

「すごい……これなら簡単だ」

「でしょ。あ、じゃぁこれもお願いね」

「あ、はい」

 上の空で生返事をしながら、僕は次々とお皿を洗って……結局全部洗ったことに気づいたのは、洗い終わった後だった。

――おばさんに洗い物を任せて楽をするっていう、僕の隙のない計画が。

 でもまぁ、お皿がピカピカになったからいいか。そんなことを考えながら自分の部屋へ向かってドアを開けて、僕は硬直した。

 おばさんが、僕のベッドを占領して寝息を立ててる。

 しまった、と思う。

 僕はおばさんに、客間がどこか教えてない。そしておばさんは多分、僕が洗い物をしてる間に、自分の部屋を探しに行ったんだろう。けど客間は師匠の陰謀で、とてもじゃないけどすぐ寝られるようにはなってないわけで……だからおばさんは、僕の部屋のベッドを、寝る場所として認識したに違いなかった。

「ちょ、ちょっと!」

 揺すり起こすと、うみゃうみゃ言いながらおばさんが動いた。

 ヤバイ、子猫みたいな声がなんか可愛い。けどここで情け心を起こしたら僕の負けだ。だからもう一回揺すってみる。

「ここ、僕の部屋なんですけど」

「ふみゃ……? あれ、おはよ」

 異世界人っていうのは、猫語で話すクセでもあるんだろうか? そんなことを考えながら、僕はまだ寝ぼけてるおばさんに説明した。

「起きてくださいってば、ここは僕のベッドです!」

「そんなこと言ったって――あぅ、気持ち悪い」

 なんだか具合が悪そうだ。異世界から移動してきたせいかもしれない。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫、よくあるから。で、もう寝ていい?」

「ダメですよ、隣の部屋に行ってください」

「イヤよ。あそこ、寝る場所ないもの」

 言ってることは分かる。でもここで引き下がったら、僕の寝る場所が無いわけで。

「でもここでおば……じゃない、イサさんが寝ちゃったら、僕の寝る場所がないです」

「じゃぁあなたが隣で寝たら?」

 至極当然、という顔でおばさんが答える。

 それから「あ、そうか」という感じで、彼女はぽんと手を叩いた。

「じゃぁ、一緒に寝ましょ。それなら問題ないでしょ」

「いいいいいい一緒?! ダメですっ!」

 何考えてるんだこの人は。

 けど当のおばさんは、何がいけないのか全く分かってないみたいだった。

「いいじゃない、別に。何もしないし」

「そういう問題じゃないです! 隣空けますから! っていうか僕が片付けますから!」

 言ってから気づいた。墓穴だ。巨大な墓穴を今僕は掘った。目の前のおばさんが、にこにこ笑いながら悪魔の宣言をする。

「ありがと、お願いね。こんなとこへ飛ばされたせいか、ホント調子悪くて。寝て待ってるから、できたら起こして」

 言うなりおばさんは、こっちに背を向けてころりと横になった。

 よく見ると、おばさんの息が少し荒い。少なくとも調子が良さそう、には見えない。

 ――これじゃ、起こせないじゃないか。

 さすがの僕だって、具合の悪い人を無理やり起こして動かすなんてできないわけで。だから泣く泣く僕は毛布を持ってきて、居間のソファで寝ることにした。

 明日は絶対客間を片付けよう、そう心に誓いながら。

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