第一章:Ouverture -2



*2*


「ふぁみのみふぁえ。」

口をモゴモゴさせながら『松中 奈穂』がこちらに視線を向けてくる。

声がやや大きい――彼女はあまり遠慮を知らない――ので、何事かと周囲のテーブルの客が振り返る。

昔から、こういうシチュエーションが苦手だった。大人になった今も、得意ではない。

ミラノサンドがうまいのはわかったから、食べ終わってから喋ってほしいんだが。

――あと見つめないで欲しいんだが。俺はストレートな事にそこまで慣れてない。

松中の穏やかな眼差しは、まっすぐ針のように俺を見つめていた。


――This Moment;2nd flet.



 十二時も終わりそうになると、さすがに歩く人もまばらになってきた。

休憩時間の終わる人々が、慌てて自分たちの『エリア』に戻っていく光景を、俺たちは少し面白がって見ていた。

オフィスに戻るまでの"貴重な十分間"を歩きながら、俺は右に――右下にいる松中に――問いかけた。

「今日も向こう行くと思うけど、来る?」

――背丈が俺と二十センチも離れているから、右を、とは言わせない。

とか思っていたら、松中は急に目を細めた。――怒られた!?

「また?もやし嫌い…。」

自覚があるかはわからないが、ワザとかと思う程歩幅が大きくなっている。

「よっぽど嫌いなんだな。」

「炒めたいぐらいにはね。」

悪びれもせずに言い放った。

一応は俺の昔馴染であるはずの『彼』を、『もやし』と一蹴するこのストレートさが眩しい。

今はシンガーソングライターをしている。

そして、彼が一人で暮らす家は俺たちの――昔馴染達の――いわば溜まり場だった。

「でも何故か、最後には来てるんだよな。」

「柴田くんが行くんなら行くけど…。」

ぼやきと共に、松中の頬が膨らむ。――本当にこれ、天然なのか?

疑わしい彼女の頬を見やった所で、俺の思考は吹き飛んだ。

その向こう、小さな電気屋の軒先に並べられたテレビの画面に、見慣れた人物がアップで映っていた。

音声がスピーカーで増幅されて、外に大きく流されている。

――人気若手女優のエリナさんが結婚を発表――と。



「――田くーん。」

松中の声で我に返った。

きっと時間にして一分も経っていないだろう。俺は、凍り付いていた。

コレは嫉妬ではない。変化に対する『驚愕』だ。

「あ、ゴメンゴメン。考――」

「え事してた。のね?」

今度は先をひったくられた。




 時間にして約一分、わたしは彼の凍りついた顔を見ていた。

普段めったに見せない――おそらく、はじめて――表情に、わたしの胸がトクンとひとつ打った。

おそらく、後ろから流れてくる騒がしい音――テレビを見ているのだろう。

ドラマや映画で人気の若手女優が、電撃結婚したのだそうだ。

お相手は海外かぶれのデザイナー。最近お騒がせの女優とは似合う気もするし、似合わない気もする。

それにしても、あの柴田くんの反応は普通ではなかった。

彼は「考え事してた。」と言ってたけれど、あれはただ事じゃない。

たとえば、ポーカーフェイスをも破るような、衝撃的な出来事。

その場で聞けばよかったのだけど、もう歩き出してしまっているから、タイミングは逃してる。

――エリナ様が好きだからって感じの反応では、ないんだけど…。

わたしにとって"貴重な十分間"の間、さっきの表情が頭から離れなかった。



 彼のオフィスの前で「じゃあ、夜七時にあそこで。」と別れた。

もう既に南中を過ぎていて、わたしも彼も汗だくだった。

――彼のは日汗かどうかも怪しいけれど。

今日の仕事が休みで、ほんとうに良かった。

あのクソもやしの事は嫌いだけど、今夜は行くしかないと思ったから。

腐ってもあいつは、柴田くんの昔馴染なんだ。絶対何か、知っている。

この恋とはゆっくり進もうと思っていたけど、今はすっかり加速度づいていた。

わたしはブーツサンダルをひとつ整えて、シャワーを浴びに家へと戻った。








――嫉妬?わからないけれど、今はなんか、我慢できません。

――My heart was started running 『This Moment』

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