天国へ捧げる歌

  ワシントン州 マーガレットの部屋 二〇一五年七月三〇日 午後三時〇〇分

 香澄とジェニファーがシアトル郊外へ出かけている間、ハリソン夫妻の自宅で一人お留守番をしているマーガレット。だが単にぼーっとしているわけではなく、彼女は自室で一人電子ピアノの音色を奏でている。

「ケビンたちも香澄たちもいないこの時間帯を、上手く有効に使わないと――こういうのは基本が大切なのよね」


 何かの曲を弾いていると思いきや、何とも単調なメロディが流れている。同時にマーガレットの歌声を聴こえてくることから、彼女は部屋の中で発声練習をしているようだ。八月下旬にオーディションを控えていることはもちろんのこと、劇団員として日々の練習を怠るわけにもいかない。

「今日はあまり無理のない範囲内で、発声練習をしましょう」

両手をピアノの鍵盤に添えながら、ゆっくりと自分の音域を確認するマーガレット。

 演劇経験もさることながら、マーガレットは歌も上手。特に綺麗な高音を真っすぐ出す技術に長けており、その歌声のレベルはベナロヤ劇団の中でも卓越たくえつしている。マーガレットは一応ピアノもたしなんでいるが、演奏技術は香澄やジェニファーほどではない。しかし歌の才能においてはマーガレットの右に出る者はなく、香澄やジェニファーたちや多くの観客を魅了している。


 かつて数年ほど前に自分が演じた『オペラ座の怪人』の中で、主役のクリスティーヌ・ダーエの役を演じ、さらに『仮面ペルソナ』という挿入歌を舞台で披露したマーガレット。その時のメロディを再現するかのように、彼女は定期的な発声練習を行っている。

 本来はグランドピアノやアップライトピアノといった、本格的なピアノを使い練習した方が良い。だがマーガレットはあくまでも劇団員であり、ピアニストや音楽を本業としているわけではない。また電子ピアノなら夜間でもヘッドフォンがあれば迷惑をかけずに練習できるため、ある意味グランドピアノより使い心地が良い。


 そしてこの『仮面』という歌の詞を書いたのは、なんと当時九歳だった少年のトーマス。以前シアトルで主催された詩のコンテストで、アメリカ史上最年少で特別賞を受賞した経歴を持つトーマス。そんなーマスの類まれな才能に着目したマーガレットは、密かに作詞の依頼をしていた。

『私の歌声――トムにも届いているかしら?』

 水分補給しつつ喉を潤しながら、喉ではなくお腹から声を出し続けるマーガレット。多くの人を魅了する美声の秘密は、マーガレットの地道な努力の繰り返しによる賜物たまもの。『ローマは一日にしてならず』『継続は力なり』とは、まさにこのことだ。

 天国で眠るトーマスへ感謝の気持ちを伝えつつも、今日も歌の練習を続けているマーガレット。そんな前向きなマーガレットの努力が実る日がきっとくる……そんな気がした。

 

 そして心を深く傷ついている香澄のことを心配しつつも、マーガレットは自分の道へ向けて必死に歩んでいる。本当はずっと香澄のそばを離れたくないという気持ちもある一方で、マーガレット自身が望む人生があることもまた事実だ。

 香澄に対する心苦しさを抑えつつもオーディションで主役を勝ち取るため、マーガレットは今日も練習を続ける。

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