第29話

 ——初めての大事な戦いなのです。熒はギアの最後の点検を終了し、異状がないことを確かめると、大きく息を吐いた。


「よっ熒! 大丈夫か?」


 無線が入る。


「意気込みすぎないでくださいね」


「がんばろうねー」


 仲間がいる。そう思えることは熒にとっては幸せなことだった。


 熒は元々租界の外の世界の人間だった。下関しものせき管区。日本の他の大多数と同じようにAIが政治を支配している政治区域に生を受けた熒は、幼くしてこの世界ではありふれた悲劇的なシーンに立ち会うことになった。


 粛清しゅくせいである。


 いつもの平和な一日のはずだった。例年のように管区の診断センターで思想診断を受け、「正常」の判定を受けて家に帰る。

 

 それだけのはずだった。そこで熒はいつも通り「正常」の診断を受けて一足早くに診断を終えると、父親・母親をセンターのベンチで待っていた。


 少し寂しさを感じはしたが、いつものことなので特に気にせずに壁に貼られたポスターなどを読んでいた。創造性のない退屈なポスターではあったが、文字量は多いので時間つぶしには十分に使うことができた。


「幸福をたたえよう」


「労働は社会のために」


「安心のために診断に協力しよう」


 どこかで見たような字句が並ぶ。熒は機械による文明を信奉してはいなかったが、産まれたときからこのような世界だったので、特に疑問を抱かずに生活してきた。


 だからこれらのポスターについても特に感動も憤慨ふんがいも覚えることはなく、淡々とそういうものだと思って吸収していた。


 全てのポスターを読み終えても、彼女の親は帰ってこなかった。


 彼女は流石に不審に思って、辺りをキョロキョロとしていると、周りが何やら騒がしいことに気づいた。妙な胸騒ぎを覚えて、騒動の中心部の方に進んでいくと、なにやら人だかりができている。


 その真ん中には偉そうにしている男と二人の男女がいた。男女の方は真っ青な顔をして所在しょざいなさげにたたずんでいる。男が叫んだ。


「このものは思想判定でクロと出た! よってこれより思想刑務所に護送される!」


 熒は仰天して叫んだ。


「お父さん! お母さん!」


 小さな体から出た声は騒動に掻き消されていく。


「お母さん!」


 女性の方がチラリと熒の方を見たような気がした。そしてすぐに目を伏せて、口で何やらつぶやいた。


 ——ニゲナサイ。


 熒はそう言ってると理解して、口を真一文字に結び、涙を目にたたえながら走った。どこをどう走ったものかわからない。気づくと海に出ていた。


 それから——彼女は船に乗った。すべてのデータは記録されている。誰がどこにいるか把握されている。見つかったら、何が起こるかわからない。もう、機械が支配していない場所に行くしかなかった。船の貨物の中に隠れて、時が過ぎるのを待った。


 翌日、彼女はその場所に辿り着いた。


 元町租界。人間が支配している数少ない地域だった。租界は彼女を受け入れた。住居も用意してくれた。だが、彼女に身寄りがないということには変わらなかった。それから——ずっと一人で生きている。

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