部室

■ 08


 しばらくの間、佐藤は初めて見た無人の部室の中で呆然としていた。部屋を取り囲む本棚から立ち込める埃の香りが強く鼻を衝く。

 ただの偶然、鶴織は何か用事があって今日は早引けしたんだ、普段だっていつの間にかかえっているんだし。

 自分自身にそう言い聞かせながら佐藤は机と椅子を直し、床から原稿用紙を拾い集めて窓際の机の上へ、あちこちに散らばったライトノベルを紙袋の中に戻す。紙袋の中に入っていたライトノベルはいつだか部長がもってきて、佐藤が鶴織によって読むことを禁止された本だった。ちょうど開いていた口絵のページには、幽霊の女の子が描かれていた。添えられている紹介を見る限りは、このライトノベルのヒロインのようだ。試しに他の本も見てみると、口すべての本のヒロインが、幽霊、あるいはそれに準ずる存在であった。

 佐藤は何とも言えない気持ちになって、まるで重金属でも詰めているかのように重い紙袋を机の上に置くと、ふらふらと部室の真ん中の席に座り、本棚から適当に抜いた本を開く。背表紙のタイトルを追っていくだけでも億劫だった。当然、いっこうにページは進まない。文字が全く頭に入ってこない。文字をどうにか追っても目が滑って今読んでいた行がどこにあったのか分からなくなる。それでも佐藤は半ば意地になって本を読み続けた。窓の外は雲が低く垂れこめていて風もなく、差し込む光も心なしかどこか陰鬱な色を帯びていた。今日は活動が休みなのか、吹奏楽部の演奏は聞こえてこない。世界から、自分の鼓動とページをめくる音の他は消えてしまったかのようだ。風がないせいで、部室の中の空気がよどんでいる。

 わかっている。分かっているんだ。自分で言い聞かせた理屈が全然成り立っていないことぐらい、わかっている。

 佐藤が延々と活字とにらみ合いをしていると、唐突に静寂が破られた。

 まず、扉が開く音。次いで、部長の声。

「佐藤君、そろそろ下校時刻よ。……部室を閉めるわ」

「……はい」

 部長の呼びかけに、佐藤はのろのろと立ち上がった。無人の窓際を何度も見やりながら椅子を戻し、部長につき従って部室を出る。

 部長が部室の扉に鍵をかけた。鍵がかかるカチャリと言う音がやたら大きく、そして冷たく廊下に響いた。部長とともに階段に向けて廊下を歩きだしても佐藤は何度も部室の方を振り返る。もしかしたら、鶴織がいつの間にかそこにいるかもしれないという期待を込めて。けれども、その期待は空振りに終わった。廊下の角を曲がるまでの間に、鶴織が姿を現すことはなかった。階段室に入ると、二階と三階の間の踊り場に、部長が向こうを向いて立ち止まっていた。

 佐藤がのろのろと階段を降り始めると、部長が背を向けたまま不意に問いかけた。

「今日、鶴織さんはいた?」

「……来ませんでした」

 佐藤がなおも後ろをうかがいながら答えると、部長はわずかにうつむく。

「そう……あなたも知ってしまったのね。彼女のこと」

「……どういうことです?」

 佐藤の問いに部長は踊り場で足を止め、わずかに天を仰いで答えた。

「彼女は……幽霊なの。または、それに準ずる存在」

「……どういうことです?」

 佐藤は、部長の言葉の意味を分かってはいたが、それでもあえて聞き返した。ここで肯定したら、自分が怖れていたことが現実になってしまう気がした。

 佐藤による再度の問いかけに、部長は沈黙でもって応え、階段を降り始めた。靴底が床を叩く硬い音が反響する。

 佐藤とともに無言のまま、部室棟を出ると部長が呟いた。

「彼女は……その正体を知った人からは認識できなくなる。見ることも、触れることも……言葉を交わすことも」

「……」

 部長のつぶやきを、佐藤は無言のまま聞いていた。部長も、それを気にすることなく話を続ける。夕焼けで朱く染まった渡り廊下で二人は足を止める。

「私もね……昔は彼女と話せた。自分でいうのもなんだけど、結構仲は良かったと思う。……でも、彼女が部室から出れないということと、部室棟にまつわる怪談を知った時、彼女が幽霊であることに気が付いてしまった。そうしたら、その途端に彼女は部室から姿を消した。……はじめはいなくなったのだと思ったわ。でも、部室には彼女が活動した痕跡があったし、うまくやれば彼女とメモを使って意思疎通もできた。けれども、そのことに気付いたとき、私は部室で活動するのをやめた。彼女自身を認識できないのに、その痕跡ばかりが増えていくのを見たくなかったから。でも……」

 そこで部長はいったん言葉を切り、佐藤の方を振り返った。

「でも、文芸部は絶対に残すことにした。あの部屋に誰も来なくなったら、もう二度と彼女と話す人はいない。彼女は本当に独りになってしまう……。……部室から逃げた私が心配できることじゃないのだけれどね」

 部長はそう自嘲するとわずかにかがみ、佐藤の目を正面から見ながらその続きを言った。

「だから、できれば来年も新入生を入れて、文芸部を残して。次期部長さん」

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