顧問
■ 03
お勧めの本を教えてもらったことをきっかけに、佐藤と鶴織はポツリポツリと言葉を交わすようになった。
「今日、古文の西松先生が僕の名前を間違えたんだよ」
「それは珍しいです。あの人が生徒の名前を間違えることはまずないですから」
手元の本に目を落としながら話しかけた佐藤に対し、鶴織は一瞬だけ佐藤の方を見てから再び視線を窓の外に戻して答える。
「……そうかな?あの先生はそろそろボケ始めてるんじゃないかと」
佐藤は一瞬だけ佐藤は鶴織の方を見てから言葉を返す。
「そうでしょうか。ボケるにはまだ早いかと」
「いや、そろそろボケが来るころじゃないかな」
「そうは見えませんが……意外にお年を召しているのかもしれませんね」
鶴織の言葉を最後に、二人の間の会話が途切れた。佐藤は本を読みながら鶴織の方をうかがい、鶴織も時折佐藤の方をちらりと見る。
部室内から響く音が紙がめくられる音と、鶴織がペン先で原稿用紙の隅をつつく音だけになり、気まぐれな風が吹き込んでは埃の匂いをかきまぜる。
しばらくの間沈黙が続いた後、鶴織が何気ないようにして佐藤に話しかけた。
「そ、そういえば、佐藤さんは普段どれくらい本を読むんですか?」
「ええと……今は二日か三日で一冊。ここに入るまではほとんど読まなかったかな。鶴織さんは?」
「私は一日に一冊くらいです」
「へえ、結構多読なんだね」
本から目を上げて佐藤が感心したように言うと、鶴織は少しうつむいて小さな声で恥ずかしそうに答えた。
「いえ……他にやることがないので……」
「あ、そうなんだ」
今度は佐藤の言葉を最後に会話が途切れた。佐藤は何か話しかけるべきだと思ったが、とっさに話題が思いつかず手元の本に再び視線を戻す。
開け放たれた窓の外から校庭でボールを追う運動部員の掛け声や、トランペットが高らかにファンファーレを鳴らすと、トロンボーンが重々しく同じメロディーを返す、という吹奏楽部員同士のやりとりが聞こえてくる。
「そ、そういや鶴織さんは何組だっけ?」
「一年一組です」
「あ、西松先生のクラスなんだ」
「ええ、そうですけど……どうしました?」
「いや、あの先生、授業を五分ぐらい延長するから人気ないんだよねー」
「ああ、確かにそうですね……熱意のある方だとは思うのですが」
「そうかな?いつも不明瞭な話し方をするし、妙に自信がないけど?」
「え、そうですか?いつも自信たっぷりですよ」
「うーん、そうかなぁ……」
また、会話が途切れる。再び室内に他の部活の掛け声と風の音が響く。
それでも、しばらくすると今度は鶴織が佐藤に声をかける。たいがいいつもこんな感じだ。会話を交わすといっても、佐藤は手元に本を置いたままだし、鶴織も原稿を前にペンを持ったままで、あまり相手の方を見ずに独り言を投げかけあうようなもので、しばしばそれは途切れた。それでも、しばらくたつとまたポツリポツリと頼りない言葉のキャッチボールは復活していた。相変わらず、部室では本に集中できなかったので佐藤は勧めてもらった本を家に持ち帰って読むようになった。
そんな日々が二週間ほど続いた。
運よく授業が早く終わったある日、佐藤が少し早めに部室に向かうと、部室棟の階段で文芸部の部長と鉢合わせした。髪が長く、眼鏡をかけていかにも文学少女といった出で立ちの部長は、分厚いハードカバーの本を数冊小脇に抱えている。部長はちょうど二階から降りてくるところだった。佐藤は階段をのぼりながら挨拶をする。
「あ、こんにちは」
「こんにちは。佐藤君だっけ?」
「あ、はい。そうです」
佐藤とあいさつを交わしながら部長は階段を下りてくると、佐藤の手前で立ち止まった。佐藤もそれに合わせて足を止める。
「部活はどう?」
「楽しんでます」
部長の問いに佐藤は全く迷わずに答えた。
「そう。それはよかったわ。私はいろいろあって部室にいないことが多いから……余計なお世話かもしれないけど、寂しくはない?」
「いえ、鶴織さんにお勧めの本とかを教えてもらってます」
佐藤の言葉に、部長は一瞬だけ動きを止めた。その直後、その間を取り繕うとするように部長はわざとらしく大きく頷いた。
「……ああ、鶴織さんね。仲良くやっているようならそれが何よりです。ええ」
そう言ってしきりにうなずく部長の様子に、佐藤はどこか不自然なものを感じた。けれども、それについてどうにかして問いただそうとする前に、部長は佐藤の横を通り過ぎて足早に階下へと降り始める。佐藤がその後ろ姿を目で追っていると部長は踊り場で立ち止まり、背中を向けたまま言った。
「……佐藤くん、鶴織さんのこと、よろしくね」
「……はい?」
それだけ言うと部長はすでに踊り場を回り、すたすたと階下へと姿を消していた。
佐藤は少しの間、手すりのふちを見つめていたが、体を軽く揺らしてスクールバックを持ち直して二階へ上る。いつも通り、廊下の突き当たりまで進み、文芸部の部室に入った。
「こんにちは」
「……こんにちは」
佐藤はいつも通り窓際の席で原稿用紙を広げている鶴織とあいさつを交わし、部室の真ん中から少し窓際に寄った席の前の机にスクールバックを置き、バックの中から読み終わった本を取り出す。その本だけをもって窓際に移動する。
「ありがとう。面白かった」
「喜んでいただけたのなら何よりです……」
佐藤のお礼を言うと、鶴織が恐縮したように小さく頭を下げた。それでもすぐに顔を上げる。佐藤は手近な椅子を引き寄せるとそこに座った。そのまま、なるべく自然な様子になるように頑張りながら声をかける。
「と、ところで、この本に出てきたラクロスってどんなスポーツなの?」
「えっと……ラクロスは、クロスと呼ばれる先に網の付いたスティックを用いて、直径六センチメートルのボールを奪い合い、相手陣のゴールに入れることで得点を競う競技です。もともと北米の先住民族が儀式や部族間抗争の解決策として行っていたスポーツでした」
佐藤の質問に、鶴織は一転して活き活きと説明を始めた。佐藤が驚きながらその様子を見ている間も、鶴織は流暢に説明を続ける。
「それが現在のカナダに移住してきた白人によってスポーツ化され、その後アメリカの歯科医の手でイロコイ族のものが広められました。そのため、現在のラクロスのルールはイロコイ族のものがもとになってます。げ――」
「へえ、そうなんだ。ありがとう」
適当なところを見計らって佐藤がお礼を言うと、それまで流暢に説明していた鶴織が急に赤面してうつむき、消え入りそうな声で謝った。
「すいません、つい調子に乗ってしまいました……」
「いや、ラクロスのことを知れたからそれでいいよ。それにしても、鶴織さんがスポーツについてこんなに詳しいなんて意外だった」
佐藤が感心してそう言うと、鶴織はうつむいて指先で原稿用紙を撫でた。その横顔はどこか寂しそうに見えた。
「わたし、生まれつき心臓が弱いので、スポーツは全くできないんです……。学校の体育もずっと、見学してばかりでしたし……」
「へえ、そうなんだ」
「はい。なので、できない分本を読んで、スポーツのことを知ろうとしたので知識だけはたくさんついてしまったんです。……一生やることはできないのに」
「そう……なんですか」
どこか寂しげな鶴織の言葉に佐藤はどう反応すればいいかわからず、手元の本のページに目を落とした。それに気が付いた鶴織が取り繕うように明るく言った。
「あ、いえ、私はそんなに気にしてませんから……」
「そう……なんですか……」
「ええ、そうです……」
佐藤の言葉に鶴織は明るく言いきるが、それでも語尾からにじむ寂しさは隠しきれていなかった。
結局、その日の部活はいつもにもまして会話が少なくなった。
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