彼女の原稿用紙
文芸部には一回だけ出てその後は幽霊部員化しようと思っていたのに、佐藤は結局その後も活動に参加するようになっていた。
授業が終わると友人とほどほどにしゃべり、それから文芸部の部室に行く。部室では適当に本棚から選んだ本を読む。いつ部室に行っても、窓際にいた少女――名前は鶴織 幸というそうだ――以外の部員がいるのを見たことがない。佐藤を文芸部に勧誘した部長もだ。(もっとも、部室は毎日開けられていたので部長は少なくとも鍵の管理はやっている様子だったが)
そんなほかの部員の動向とは全く関係なく、いつ行っても鶴織は窓際の席にいた。
鶴織は窓際の机、佐藤は窓際から少し離れたところに置かれた椅子。いつの間にかそれが定位置になっていた。鶴屋の前にはいつも紙があった。鶴織は一心にペンを走らせているか、本を読んでいる。どちらにせよ、何かに集中している様子だ。
部活動中はお互い、全く言葉を交わさない。佐藤が鶴織の声を聞いたのも自己紹介のときの「つ、鶴織です……」という消え入りそうな声だけだ。全く面識のない、作業中の少女に話しかけるほどの勇気は佐藤にはなかった。部室に入るときの挨拶もなく、佐藤は目の前に並んだ言葉を追いかけ、鶴織は目の前の紙にペンを走らせている。
それでも、佐藤は本の活字を追いながら時折鶴織の方に目をやる。佐藤は数秒間鶴織の方をうかがってから再び活字の世界に戻る。適当に文芸部の部室の棚からとった本のページは一向に進まない。もともと本をあまり読まなかったせいもあるだろうが、それ以上に、窓際にいる鶴織のことを意識してしまっている影響が大きい。数ページごとに意識を窓際に向けているのだから、当然といえば当然だ。全然本の内容に集中できていない。そして、いつも鶴織の姿はいつの間にか消えていた。
窓の向こうからは青春に励む運動部員の掛け声や、校内に散らばっている吹奏楽部のバラバラな演奏が飛び込んでくる。それに対し、文芸部の部室の中はページをめくる音と、原稿用紙の上をペンが走る音だけがかすかに響くだけだ。室内には本棚に居並んだ本たちから漂う年季の香りがあふれている。天井の蛍光灯は精一杯光ってるのだろうが、窓の外から差し込む光と比べたら弱弱しく、いつも部室の中は薄暗い気がした。
そんな文芸部の活動が一週間ほど続いた。
窓の外は夏の近づきをどことなく匂わせる五月晴れの日、佐藤と鶴織しかいない文芸部は埃の香り漂う部室でいつも通り静かに、ひっそりと活動を続けていた。さわやかな風が時折、カーテンをゆらゆらと揺らす。鶴織はペンを置き、ハードカバーの本を手に持って読みながらその風を気持ちよさそうに浴びていた。風に合わせて、開け放たれた部室の引き戸が時折カタカタと鳴る。
すると突然、窓の外の木々が激しく揺れ、開け放たれた窓の外から五月の風がひときわ強く吹き込んだ。室内に漂っている古い本から立ち上る埃臭い空気が部室の入り口から外に追い出され、代わりに新緑の香りが部屋に入り込む。佐藤が顔を上げ、窓の方を見ると、パラパラと紙がこすれる音がして、鶴織の手元から紙が舞い上がった。
鶴織があわてて手を伸ばすが、その指は紙をとらえられず、ただむなしく空を切る。その手から離れたハードカバーが床に落ちて鈍い音をたてた。
舞い上がった紙はそのまま風に乗って細長い部屋を飛び、佐藤の手元に飛び込んだ。続いて二枚、三枚と次々に佐藤の周りに落ちてくる。
「あ……」
「えっと……」
風に乗って部室の中を飛んでいく紙を追っていた鶴織の視線と佐藤の視線が交わる。
佐藤は一瞬だけ迷ってから机の上に本を伏せ、椅子を引いて紙を拾った。茶色い升目にこまごまとした文字が詰め込まれている。枠の外には何やら走り書きがある。この時初めて、鶴織がペンを走らせていた紙の束が原稿用紙であると佐藤は気が付いた。
佐藤が原稿用紙を拾い集め、角をそろえていると鶴織が走り寄ってきて原稿用紙の上辺をつかみ、折りたたむようにして無理やり机の上に伏せた。鶴織の長い髪が佐藤の顔のすぐ近くで揺れる。埃の匂いが大きく揺らぎ、鶴織の髪からはかすかにシャンプーの香りがした。
その拍子に佐藤が原稿を握る力が弱まり、鶴織がその手から原稿用紙をもぎ取る。鶴織はもぎ取った原稿を胸元に抱え込むようにしてうずくまった。
「あの……読みました?」
「いえ、決してそんなことはありません」
こちらを見上げ、恐る恐る尋ねてくる鶴織に佐藤ははっきりと答えた。原稿用紙に何か書いてあることはわかったのだが、その内容まで読み取っている時間はなかった。まっすぐにこちらを見てくる鶴織に対して気恥ずかしくなって佐藤は思わず目をそらしたくなってしまう。それでも、鶴織の顔からは目をそらせなかった。
「そうですか……」
鶴織は心なしか顔を赤らめながら立ち上がり、静かに窓際へ戻り始めた。佐藤はその背中に向かって声をかける。声をかけるなら今だ! ありったけの勇気をかき集めろ! 自分で自分をそう激励する。
「あ、あのっ!!」
「ははははいっ!!」
佐藤の言葉に、鶴織が胸元に原稿用紙を強く抱えたまま振り返った。心なしか、その顔は赤いままだ。
「あ、あの、おすすめの本を教えてくださいっ!!」
「は、はいっ!!」
佐藤の言葉に、鶴織は悲鳴のように応えると大急ぎで本棚に駆け寄った。
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