第20章
第二十章 霧降り高原の怪
1
唄子の事件から数カ月後。
「春の霧降もいいわよ。雪解けの水で霧降の滝も増水している。美智子さん誘っていこうか」
キリコが隼人に声をかける。隼人はマトリの事務所の隅に机を置いている。直人の部屋が同じ階にあってそこに住みこんでいる。仕事には同じ部屋にいたほうがいいだろう。ということで秀行が机を空けてくれた。麻薬取締官の机もある。同居人のおおい部屋だ。
「それはいい。行詰まったときは、現場にもどる」
秀行が離れたところで妹のキリコのことばをきいていた。あいづ
ちをうつ。
「現場百回ですね。ぼくも直人の滑落事故現場をこの目で見たいですから」
「このところ、おかしいと思わないか。芸能界やスポーツ界で麻薬汚染が多発しすぎる」
有名タレント何人も大麻煙草を吸ったということで逮捕さている。ごていねいに、自宅の部屋で大麻を栽培していた。角界の関脇級の力士が逮捕された。断固として大麻吸引、その事実を否定しているものもいる。あれほど空港で厳重に見張っているのに。その蔓延ぶりは異常だ。
赤の緊急ランプが点滅した。
「わかりました。霧降川ですね」
キリコが受話器を置く。
「事件よ。霧降にいく運命みたい」
「場所はわかるのか」
「兄さん。わたしがどこで育ったか忘れたの」
連絡の内容を確かめて、秀行がキリコにいう。
「ドクターヘリにも出動要請をして置く。連絡を絶やさないようにな」
「隼人。いくわよ」
日光の霧降川で溺死寸前の老婆が保護されたという連絡だった。その老婆が「大麻」の葉を所持していたというのだ。
屋上に格納してあった。あの日光遊覧ヘリだ。
「こんどは、ぼくが操縦する」
キリコがまぶしそうな顔で隼人を一瞬みつめた。出会ったころのことを、思いだしているのだ。
「美智子さんには、連絡しといた。百ちゃんがいるから安心よ」
霧降は霧の中だった。このあたりを遊び場として育ったキリコでなかったら。着陸地点を探せなかったろう。滝のずっと上流だ。現場に駆け付けたばかりといた警官。ヘリの到着の早さにオドロイテいる。
「ほんとに、東京からきたのですか? おどろきました」
「流れ着いたという女のひとは? どこ」
「あ、失礼しました」
ふたりは炭焼き小屋に案内された。いまは、炭焼きはしていない。観光客が興味をもつかもしれない。費用をかけて撤去することもあるまい。何十年も、放置されている。やっと風雨を避けられるといつた小屋だった。渓流釣りにきていた男たちがいた。発見して連絡をよこした人たちだ。
心配そうにのぞきこんでいる。
その先に!!! よこたわっていたのは……。
「おばあちゃん。霧代おばあちゃんなの」
死んだはずの霧代オバアチャンにそっくりだった。
2
老婆の唇がわなないた。キリコは手をのばして老婆のほほにふれた。
つめたい。冷えきっている。深いしわが刻まれている。なにかやるせないほどなつかしい。老婆は苦しそうに唇を結んでいる。左端の上唇を噛んでいる十年前に別れたきりの母のくせだ。
「おかあさん」
「…………」
「かあさん!!」
「…………」
涙をこぼしながらキリコを見つめている。キリコはだまって母をだきしめた。
にわかには信じられない。母の顔に精気が一瞬もどった。ほほえんだように見えた。母は震える手でふところから草の葉をとりだす。
「やっぱり、大麻ですかね」
警官が緊張感の欠けた声でいう。
大麻の葉と大麻タバコ、麻薬、を持った老婆が助けられた。という情報は正しかったのだ。震えながらその所持してきたものをキリコに手渡す。なつかしそうにキリコのほほにふれる。また意識を失ってしまった。バリバリとヘリの音がした。上空でホバリングしている。隼人はあわてて外に駆けだした。ドクターヘリが着いたのだ。霧はまだ晴れていない。隼人は発煙筒で着陸地点を知らせた。
「あんなになっちまって」
応急処理を済ませたキリコの母が古川記念病院に搬送されていった。老婆と見紛うほど、変わってしまっていた。まだ四十五歳のはずだ。死んでしまっている。サル彦ジイにいわれていた。母に会えてキリコはうれしそうだった。
「兄貴にも、おっかあ、のこと知らせておいた。死んでいると思っていたから、霧太なんか泣いていた。みんな霧り降に向ってる」
そういうキリコも涙声だ。遙か向こうの福島の山々のほうまで、霧がかかっていた。
「決まりだね。このおくにむかしサル彦ジイチャンが忍んだ鬼の部落がある。そこに大麻畑がある」
「ぼくも親父から聞いたことがある。栃木県は戦時中までは野州大麻の生産量日本一。45万貫の生産額を誇っていた。むろん、その茎から繊維をとるのが目的だった」
霧がうすれた。一面に緑の山だ。
「なにかあったな」
ヘリについているモニターに本部から連絡がはいった。
「なにかあったの?」
「偶然なの」
女子職員の声がした。
「キリコ。見えてる?」
「これは!」
キリコに変わって、隼人が絶句する。ふたりして画面を注視している。モニターに霧降川が大写しになっている。
「あんなに探していたのに」
「だから偶然が幸いしたといったでしょう」
「いつごろ撮ったもの?」
「昨日らしい。霧降ではめずらしい花なのでTV局に持ちこんできた山岳写真家がいたの」
「なんとね。ケシのお花畑か。これで決まりだな。でも、いまごろケシが咲くのか」
「古い。古いわね。このハイテックの時代よ。どんな栽培方法でも採用できる。東京のビルで稲を育てられるのよ」
3
「どんな栽培方法でも採用できるわよ。設備にはいくらでも金をかけられる。巨万の富をもたらすのだから」
キリコがじぶんを納得させるようにつぶやく。鬼神のやっていることを肯定したわけではない。キリコは長いこと鬼神にいじめぬかれてきた。恨みをここではらすことにきめていた。キリコはそこで働かされていた母たちをおもっていた。そこで強制的に働かされていた黒髪族の女たちをおもっていた。
おかあさん、生きていた。
おかあさん、会いたかった。
おかあさん、仇はうつから。
おかあさん、恨みははらすから。
長いこと麻薬Gメンが追ってきた流通経路。生産地。精製所。それらすべてが、やはり日本に畑があった。それも日光、霧降高原の奥に栽培地があった。むろん精製工場もある。
東京の方角からヘリの影が現われた。
キリコは操縦席で隼人に状況を説明する。
もう泣き顔は消えている。
「自衛隊の特殊部隊がきてくれた。兄が出動依頼したの」
それほど巨大な敵なのだ。背後からヘリがついてくる。
「いよいよだな、キリコ。ぼくも直人の仇がうてる」
「隼人、あせらないで。いままでとはちがう。鬼神の本拠地よ。選りすぐりの敵よ」
霧降の滝が眼下に見える。そのまま、北上する。キリコはヘリから下を見定めている。サル彦ジイからきいていた鬼神部落の場所。俯瞰するだけで位置は確認できる。子どものころから忍びのサバイバル訓練で日夜駆けめぐったなつかしい山々だ。ふいに、行く手の上空で炎が上がった。
少し遅れて銃声。
発砲音がする。
「陸自のヘリが攻撃されてる」
「機銃掃射している。敵が地上から攻撃したので対抗しているのだ」
ロケットランチャらしい。煙と炎のノロを引いて上空を飛び、ヘリを狙い撃ちにしている。ヘリが一機、火をふいて落ちていく。陸自の攻撃ヘリは既に地上の敵が射程圏内にはいったのだろう。バリバリバリと銃声をひびかせている。威嚇射撃をしている。キリコたちは火器での制圧は望んでいない。あくまでも、日光忍群らしく、剣と暗器、体術で勝負す気だ。
「隼人。ランデングするわよ」
「OK」
「いくわよ」
「キリコとぼくらの必死のおもい、見せてやろう」
「キリコ。いきます」
「直人。カタキとるからな」
キリコは戦闘場面から少し離れた丘の影にへりを降下させた。地上はいたるところで薄い霧が渦を巻いていた。キリコにとっては故郷の霧だ。霧を透視する能力があるらしい。大きなバックパックを背負っているキリコ。隼人を誘導する。
ぐいぐい前にすすむ。
木立をよけて進む。
枝を避けて腰を落と。
森をぬけた。
「うわあ、きれい」
キリコが現況からは不謹慎な歓声を上げた。
ケシの花畑だった。人口の太陽。光の塔に畑は照らされていた。
上空に空はない。巨大なシードルにおおわれているのだ。
森をぬけた。いつの間にか人工の光に照らされたケシ畑に迷いこんでいた。
わきに粗末な木造の小屋。
キリコが近づくとワッと女たちがとびだしてきた。
「キリコだ。キリコちゃんでしょう」
拉致されていたキリコの同族の女性たちだった。
「やっぱりきてくれたのね。だれかわたしたちの花びら通信に気づいてくれると待っていた」
黒髪の女たちは、彼女たちにできるやりかたで。
ケシの花をオニガミの隙をみて、川に流していたのだ。
美しいケシの花畑だ。
日本で栽培されているとは。
『美しいものには近づかないほうがいい』
直人の残した言葉を隼人は思いだしていた。
直人は今日あることを予感していたのだろう。
いや、幻視したのだ。
ケシの向こうに麻畑がつづいていた。二メートルをこす大麻が密生していた。
直人にはこうした光景が見えていたのだ。その透視能力を恐れた王仁の攻撃をうけたのだ。彼らの罠にかかって崖から転落したのだ。のたうつ木の根に足を絡めとられた。そして死の世界に落ちていった。
4
「いくわよ。武器はもってきたわ。後からついてきて。鬼神一族に積年の恨みをはらすときよ」
キリコがバックをどさっと床に置く。キリコが勇ましい声で黒髪の女たち鼓吹する。キリコが先頭きって走りだす。バックからとりだした暗器を両手にしている。
サル彦ジイチャンの恨みを晴らす。
母の恨みを晴らす覚悟だ。
キリコたちは森の奥に進んだ。
「金網の電気ヘンスやオニガミの呪術のこめられた障壁に閉じ込められて、逃げられなかったの」
キリコの疑問に応えがもどってくる。
「キリコのおかあさんは? ぶじだった」
「たぶん……」
キリコが首をかしげる。森の奥に半地下のコンクリートの建物があった。壁面にはびっしりと苔が生えている。天然のカモフラージとなっている。
廊下の奥からオニガミが現れた。暗器を、手裏剣のようにキリコが投げる。黒髪の女もそれに倣う。
「これが欲しかったのよ。これさえあれば逃げられたのに」
銃撃されても、刀できられても、ひるまないオニガミ。それが、この槍の先端のような形をした飛鏢を額や胸にうけると。もろくも倒れる。
「精製所のレンフイルドはおおかた制覇した」
秀行と霧太の特殊犯罪捜査班がなだれこんできた。麻取りもいる。
王仁がニタニタ笑っている。それも日輪学園で倒したモノと――。
全く同じ顔。
同じ体つきだ。
不気味だ。
鉤爪が長くのびる。
乱闘向きの武器となる。
投げられた鏢を鉤爪で受ける。
金属音がひびく。
鉤爪は鋼の硬度を具えている。
あんな爪でひきさかれたらひとたまりもない。
「キリコ」
怨念をこめ復讐の思念をこめた。その対象であるオニガミがキリコを襲う。
「おれの嫁になれ」
「あんたぁ。まだ生きていたの!!」
「あれきしの傷で、あれきしことで、死ぬかよ」
キリコの投じた鏢はことごとく打ち落された。
「おれの嫁になれ」
ニタニタわらっている。乱杭歯のあいだからダラダラとヨダレをたらしている。
悪臭がする。両目が赤く光っている。
「だれが、あんたなんかの――」
5
そこまでだった。隼人が駆け寄るのが一瞬遅かった。
あんなにいやがっていたオニガミの手がキリコのあごに触れた。
キリコが一瞬ひるんだ。キリコは金縛りにあったように動きがとまった。
その一瞬のスキをつかれた。
キリコはからだを横にひねってかわした。
かわしたはずだったが……。
オニガミの鉤爪がキリコの胸に深くつきささった。
閃光のようにきらめく鋭い突きだった。
キリコはさけられなかった。
肉と骨が断ちきられるブスという音がした。
キリコが絶叫した。
「隼人!!」
「キリコ」
キリコをかばって飛びこんだ隼人。
隼人の左腕にもオニガミの鉤爪が!!!
隼人は剣をふりおろした。
里恵から譲られた細川の鬼倒丸だ。
サル彦ジィの恨み。
黒髪の女たちの積年の怨念。
そして直人の無念。
すべてをこめた剣のひらめき。
王仁のくびが中空にまった。
「わたしだめみたい。……でもこうして隼人の胸で死ねるなんてしあわせだよ。隼人にだかれて死ねるなんてうれしいよ」
「キリコ。キリコ。まだこれからだ。まだ敵はいる」
「隼人といっしょに戦えてうれしかった……」
「ぼくらは、最高のバディだった。まだこれからだ、キリコがいなかったらぼくはだれとチームを組めばいいのだ」
「だれか探さっせ……。さがさっせ。サガサッセ」
『探さっせ』――探しなさいよ。なんとやさしい方言だろう。
「美智子さんと隼人のことを守りつづけたかった。ゴメンね」
「キリコ。これくらいの傷で黒髪の女が弱音をはくな。キリコ、キリコ。しっかりしろ」
「隼人にだかれて死ねるなんておもわなかった。うれしいよ……」
「ぼくらは、いつまでもバディだ」
「隼人。わたしたちはいつまでもバディなの」
「ああ、ぼくとキリコは永遠にバデイだ。不滅のバデイだ。死ぬなんてかんがえるな。生きるんだ」
バディ。バディ。バディ。
意識がモウロウとしている。おなじことばをなんどくりかえしていたが……。
キリコは……。
古川記念病院。三年前に直人が死んでいった病室だ。
同じベッドにキリコがよこたえられている。その隣のベットには――。
「直人! 直人!! しっかりして」
「ぼくは、かすり傷だ。それよりキリコがだめだった」
東京からとんできた美智子は、隼人にすがりついてから、われにかえった。
「隼人、だいじょうぶ」
「霊体装甲があったから。直人が守ってくれた……」
「キリコ。キリコさんは?」
頭をやっと横にふることで、隼人は応えた。
美智子は、キリコに気づいた。崩れるようにキリコがよこになっているベットの傍ら倒れてしまった。キリコの枕元では美智子のガードの任務でキリコと行動をともにできなかつた百子がぼう然としていた。
黒髪の女たちをひとりも助けることができなかった。鬼神は黒髪の女を根絶やしにしたのだ。鬼神は半地下の巣窟に彼女たちを追いつめた。麻薬の精製所もろとも彼女たちを爆死しさせた。
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