第16章 美智子の涙
第十六章 美智子の涙
1
美智子はつぶやいている。監禁されていた。その疲れがでた。
キリコは美智子をみおろしていた。病室のベッドによこになり、唇がかすかに動いている。ツブヤイテいるようだ。あんなにすきだった直人と、離れ離れになってしまった。それもこの世とあの世。けっして、距離の縮まらない世界。けっして、会うことはできない隔たり。悲嘆にくれた。なにもすることがなかった。
まいにち庭に作った霧降の滝をみて過ごした。まいにち滝をみながら直人をかきくどいた。どうして死んでしまったの。どうしてわたしを残して死んだの。わたしは永遠に苦しむために、直人とめぐりあったの。そんなのって、寂しすぎる。
寂し過ぎるよ。
悲し過ぎるよ。
もういちどあのたくましい胸にだきしめてもらいたいのに。直人はもうこの世界にいない。ふたりで過ごした思い出。わたしはいつまでも忘れない。わたしが生きている限り。この世界のわたしの思いでの中に。あなたは生きている。直人は生きている。そう思ったら、わたし生き続けていく勇気がわいてきた。わたしが生きていれば、直人も生きているのだ。永遠にわたしといっしょに――。
そして、直人は生きていた。
三年目。直人の三回忌。わたしは声をかけた。
だって直人が生き返ったとしか思えなかった。
「霧降に行くの?」
少年は、「そうです」と応えた。
直人そっくりの顔。
でもアクセントが微妙にちがっていた。
「歩くのがすきですから」
ああ、それからの霧降りの滝までの彼と歩いた時間。
たのしかった。
だれなのか、名前を訊きたい誘惑。でも、訊きたくない。
直人と歩いていると思いたかった。
いや、トキメイテ、すっかりその気分でいた。
直人がわたしに用意してくれたサプライズ。
従弟の隼人が。
フロリダから。はるばる。日光は霧降の滝にやって来た。
直人には未来が見えていたのかもしれない。
なぜ直人の三回忌に、隼人が霧降にやってくるのがわかったの
か?
直人は死に瀕して、未来を透視していた。
ぼくになにかあって死ねば。
三年後にはいまのぼくの歳になる隼人が現れる。
兄弟のように育った隼人だ。
ぼくの歳になったら、ぼくのすきだった霧降に現われる。
新しい気もちになって……彼とやりなおしてくれ。
そんなメッセージがこめられているようだ。
その隼人は病室の窓の外をみていた。長い一日だった。美智子を救出にかけつけた。日輪学院での戦い。翔太郎の死。孫の美智子を助けての壮烈な最期。唄子もいた。ふたりをブジに助けだした。
窓の外は夕暮。
通りでは車のヘッドライトが光の帯をなしていた。キリコだ。病院の正面入り口をキリコが歩いて歩道にでていく。隼人はっとした。迫りくる夜景を眺めるどころではない。
不審な行動だ。あわててキリコに携帯をいれた。反応がない。すたすたと歩道を歩きだしている。もうじき建物の陰になる。隼人は迷った。美智子をこのままにはしては置けない。
廊下にとびだした。ナースセンターに声をかけた。
「だれかガードをよこしてくれるように頼んで」
秀行の連絡先を看護師につげた。
「霧太をすぐ行かせた」
病院を出たところで秀行から心強い連絡がケイタイに入った。
2
隼人はキリコに追いついた。
「だれを尾行してる?」
「美智子さんのガードは」
「霧太がついてくれる」
「なら安心ね」
前方を黒服のふたり連れが声高に話ながらスーパーに入っていく。
のんびりと、談笑しながら――何か買う気だ。
「あれか?」
「病室をうかがっていたの。まだ美智子さんが狙われているとみるべきよ。広告塔にするなんて単純な動機ではないみたい」
ところが、スーパーの店内には黒服はいない。裏口からでていった?
「ヤバイ。ぼくらを連れだしたのだ」
ふたりはあわてて病院にもどることにした。
「霧太がでない」
「ヤバイゾ。まだ着かないのか」
キリコはケイタイをとじると走りだした。
「急ごう」
そうはいかなかった。黒服に囲まれた。
「鬼門組か!!」
パタパタとコウモリが窓の外で飛び交っている。
そのうちの一匹が病室の窓にとまった。
口でコツコツとガラスをたたいている。
少し、休んでまたコツコツとはじめる。
その音に呼び寄せられた。
コウモリがまたパタパタと窓にとまる。
窓ガラスをつつく音が速くなる。
霧太はコウモリと向かいあった。
コウモリがニヤリと笑ったようだ。
あまり激しくつついた。
コウモリの口が真っ赤になった。
血がてている。
その血を啜っている。
薄気味が悪い。
霧太はひるまない。
にらみあった。
ずきずきとあたまが痛む。
頭に手をやる。
頭をかく。
髪がごっそりとぬけおちた。
手にした髪の束が真っ赤になった。
火をふいた。
手から燃える髪が床におちた。
あわてた。
靴で。
火を。
消す。
ない。
なにもない。
床には燃えている髪なぞない。
幻覚だ。
霧太は、無意識だった。
小さな声だった。
必死で九字をきった。
臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前
平常心がもどってきた。
しかし――。
コウモリの数は、さらに増えている。
窓イツパイに蠢いている。
いや。幾重にも重なり合っている。
もう、外の景色はみえない。
ピシッと窓ガラスに細い線がはしる。
ピシピシと蜘蛛の巣のような細い線が。
霧太は美智子をみた。
美智子は目をとじたままだ。
霧太は恐怖は感じない。
美智子を守りぬけるかどうか。不安なだけだ。
「霧太!!」
キリコが飛びこんできた。
「外で隼人がたたかっているから」
コウモリを使役する黒服の集団と隼人が戦っている。
そういうことだと、霧太は理解した。
ぼくらはふたりだけではない。
「こいつら日光の鬼神のコウモリよ」
「だつたら、サル彦ジィの敵だ」
「昼の日輪学院での仇を撃つ気よ」
「日光へスケット頼んだのだね。ちょうどいいや。まとめてヤツッケてやる」
「霧太。油断しないで。くるわよ」
バリンと窓ガラスがわれた。
われたガラスがくだけて床に散らばった。
3
医科大学があり附属病院がある。とてつもなく広い敷地だ。新宿の繁華街の喧騒はここまではとどかない。排気ガスの臭気は漂ってくる。
病院の車寄せでは隼人が黒服と戦っていた。
「久しぶりだな。榊隼人」
「おまえは、日光の鬼神か」
「おれが死んだとでもおもったのか。おれたちはみな王仁。同じような体型だからな」
似すぎている。個性がないってことか!! バツと鉤爪が襲ってきた。
「王仁は、おれたちの階級(クラウン)をあらわす称号だ。おれたちはひとりではない。みんなで記憶も共有している」
「美智子さんに毛布かぶせて!!」
「霧太。眼つぶし使うわよ」
きくやいなや、霧太は眼をとじた。
キリコの手には噴霧器があった。
キリコはコウモリにむけて噴霧する。
群れをなして部屋になだれこんだコウモリの群れが退散していく。
「やつとこれが役にたったわ」
コウモリの忌避剤だ。ノズルから噴き出す霧にはコウモリのきらいな臭いがついていた。
「ほんとうに役にたっとはね」使用したキリコが驚く効果だった。
コウモリが空から降ってきた。
「チクショウ。キリコ、なにをした」
王仁がバリバリと歯をきしらせる。
「どうして、摩耶や中山家を襲うのだ」
隼人は剣を中段に油断なく構えている。
「痴れたこというな。われらはむかしから戦いつづけてきた」
「攻撃して、滅ぼして、なんの利益がある」
「榊一族も黒髪もそうだ。われわれの存在に気づくものがいなくなる」
隼人は汚らしいものを見る目で王仁をにらみつけた。
「ほら、その目が気にくわない」
確かに隼人は汚穢ものを見る目をしていた。
「それにな、おれたちは一族同士では繁殖できないのだ」
繁殖などという動物的な言葉を選んだ。
ゆがんでいる。平野に住む農耕の民に追いつめられた。
暗い森のなかでの狩猟。山の民。自虐的になってもしかたない。
だからといって、いまさら争うこともないだろうに。
「それはちがうぞ!! 隼人。おまえらのために、地球は病んでいる。だから滅びるのはおまえらだ」
「環境汚染。だから地球が怒っている。といいたげだな」
「環境破壊をつづけているのは農耕民族のおまえたちだ」
「話をそらすな。もうこれいじよう、美智子さんにかかわるな」
「そしてわたしたちにもね」
キリコが駆けつけた。スプレイをかまえている。
「王仁さんにも効くかしら」
4
「キリコだけに、霧吹きか」
王仁があざ嘲笑っている。技がつうじない。必殺の手刀もきかない。空手チョップ。効果なし。なんという敵だ。
ひとの顔。ひとの皮膚。ひとの肉。ひととおなじ骨、でできあがっているはずだ。
骨も折れよと首筋にたたきこんだ手刀。はねかえされる。頸骨をくだけるはずなのに。ブロックさえ割る手刀だ。それがまったくムダな攻撃だ。昼からの闘争の経験で隼人は悟っているのに。いまさらながら敵の異常さにおどろく。スプレイを吹きかけても王仁には効果なし。ただいたずらに体技をくりだすだけだった。
これは鬼族の階級、王仁に属するものの力か!? ふたりはじりじりと追いつめられる。まちがいない。これら黒服は、ただの広域暴力団のヤクザではない。全員鬼族だ。
「どうする隼人」
「このままでは、超ヤバイ」
「なにをぼそぼそいっている」
王仁はおもしろがっている。楽しんでいる。みずからは、包囲網のそとで。キリコと隼人が疲れ切るのを楽しんでいる。膝に敵のキックを受けてキリコがよろめいた。
隼人は目の前の敵を無視して駆けつけることができない。
「キリコ!!」隼人はサケブダケダ。
「キリコ!! アブナイ」
精悍な体型の女の子がとびこんできた。
全身黒装束だ。
「すけっとするよ」
「あっ!!! 伊賀の百子チャン」
「埼玉のB級グルメ大会のバイトであって以来ね」
「百ちゃんの伊賀のイカ焼きおいしかった」
「バカかきさまら。命もらうぞ」
トツゼン介入してきた百子を王仁が威嚇する。
百子がピュっとく口笛を吹く。
「クノイチ48。参上」
わらわらと黒装束の少女たちが車の陰から現われた。
5
攻め方が違う。戦い方が根本的に違っていた。クノイチ48というだけのことはある。いままでどこに潜んでいたのだろうか。
「サルトビの技の元といわれる日光黒髪流、サル彦ジイ直伝の跳び技、確かにみてとったわ」
「ハズカシイヨ。コイツラには効かないんだもの」
48のメンバーは手の平サイズのボウガンをかまえている。
射る。音がしない。どこから。矢がとぶのか。わからない。
薄闇のなかでの使用には。絶好の武器だ。黒服は射倒される。
もだえる。起き上がれない。そのままジュと溶けだす。
矢は心臓に集中している。
「情けムヨウ。わたしたちの仲間もおおぜい殺されている。キリコ気合い入れて。これは戦い。殺し合いなの。遊びじゃない。ゲームじゃないのよ」
そうだ。これは戦いだ。一族の存亡がかかっている。そして、正義のための――。
お互いの身のこなしから……その決意のほどを認め合った。
あの埼玉のB級グルメ大会で。友情を培った百子が駆けつけてくれた。全日本高校剣道大会でも技を競い合ったマブダチだ。こんな形で、また会えるとは――。わたしを見守ってくれていたのだ。
うれしい。キリコは涙を必死でおさえた。
ボウガンの威力はスサマジイ。
三節棍も自在にあやつっている、クノイチ。
白刃をかざして黒服の群れに斬りこんでいく、クノイチ。
まさしく戦いだ。百子は伊賀クノイチのリーダーになっていた。
わたしたも鬼にたいしてもっと効果のある武器を使用するべきだ。
キリコはふところから金属鞭をとりだした。
形状記憶合金で特注した。いままで使う気がしなかった。生命の
危機に追い込まれて。
ふんぎりがついた。
相手は鬼だ。今風にいえば吸血鬼なのだ。
人の世を乱そうとしている。人の生き血をすって。
平然としている鬼だ。世の乱れを呼ぶ根源的な悪だ。
殺。
殺。
殺。
キリコは痛む足を労わりながら。それでも――。鞭をふるった。百子と背中合わせに鬼とむかいあった。
「すごいイケメン。彼氏なの……?」
「だといいんだけど」
隼人の戦う姿を遠目でみながら。キリコは寂しく応えた。
黒服の群れが倒れた仲間を引きずって。消えていく。
街は夜。
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「助かりました。ありがとう」
隼人がかけつける。百子に礼をいう。それからキリコに。
「よくやったな」
隼人にお礼をいわれた百子が街灯の下で顔を赤らめている。
剛勇無双のクノイチのボスもイケメンにはよわいのか!!
キリコもあらためて隼人を見あげる。なるほど、小栗旬のようだ。「多襄丸」を 演じた小栗旬に似ている。いまどきめずらしいサムライ面だ。
「ヤッパ、恋人ムードじゃん」
「そんなんじゃナイシ」
百子にひやかされた。キリコのほほが桜色にそまる。声までうわずっているが。真顔になって「霧太は!!」隼人はキリコがあぶないと、夢中で病室をとびだした。いきなり、痛む足をひきずって走りだした。きゅうに、残してきた美智子と霧太が心配になった。美智子はまだねむりつづけていた。
微塵に砕けたガラス。コウモリの死骸。大騒ぎになった。でも駈けつけた所轄の刑事は、日輪学院で共闘した顔見知りだった。ことなきを得た。ことが公にはならなかった。
「わあ!! キリコ、有名人のボディーガードしてるんだ。それも、カッコイイお兄さんたちといっしょなんだぁ」
「弟の、霧太よ。お姉ちゃんが、助けてもらったの」
「噂は、きいています。イカ入り焼きそば、すごくおいしかったって」
霧太がおとなびた挨拶をかわす。
「ねぇ。目を覚ましたら中山さんのサインもらってね」
百子がふつうの女の子らしさをみせる。
……その美智子はまだ、夢の中……。わたしはだめ。直人のことを忘れられない。あれから庭の霧降りの滝をみて過ごした。それはもう、毎日まいにち飛瀑の音を聞いて過ごした。直人のことばかりかんがえていた。やっとすこし立ち直ってきた。またひとを愛することはできない。死んでいく恋人、直人をみてとった。怖いのよ。わたしの愛する人は、直人だけ。直人、直人、直人……長い眠りから美智子は目覚めた。
白い天井、白い壁。白いカーテン。
でも太陽の光は窓から射していない。
薬品の匂いがしている。
病室みたい。ここは病室だ。
ベッドに横たわっていた。体に異常はない。痛みはない。
よかった。ブジだ。五体満足で目を開けられたことに、美智子は感謝した。直人は? 直人はいない。わたしはひとりで白いシーツの海に漂っていた。思いでの海に沈みかけていたのだ。はつきりと記憶がよみがえってきた。
このとき、ドアが開いた。
直人が、いや隼人がはいってきた。
「お目覚めですね」
隼人がうれしそうに笑っている。キリコもいる。
「唄子は……?」
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