11.筆


 鈴木はまだ状況についていけないようで、その場をぴたりとも動かなかった。

 私は再び口を開いた。


「先生。わたしがかく字は力があるの。ねがいごとをかくと、なんでもかなえてくれる。いま、先生にこわされた万年筆がなおりますようにっておねがいしたの。そしたら、きれいに直ったでしょう。今はね、先生を苦しめるねがいごとをかいている途中なの」

 

 鈴木はびくり、と肩を震わせた。


「いいの? かいちゃうよ?」

 

 そう言うと、鈴木は思い出したように、私に襲いかかった。奇声を上げながら両手を上げて猛進してきたのだ。字が書き終わる前に、止めなければとそう思ったのだろう。

 私は筆を止めた。


〝すずきせんせいがたおれてうごけなくなりますように〟


 ばたん、と激しい音がした。

 見なくても分かる。鈴木が転んだ音だ。倒れて動けなくなったようだった。


「いまね、先生がうごけなくなりますようにってお願いしたの。だって、先生はきっと、わたしが字を書けなくなるようにじゃまをすると思ったから」


〝だれもこのへやに入ってきませんように〟


 続けてそうお願いした。これで邪魔が入る事はない。


「いまはね、だれもこのへやに入ってきませんように、ってお願いしたの。先生、ざんねんだね。もうだれも助けにこないよ」


 そんな意地悪を言っても、動く事を禁止された鈴木はぴくりとも動かなかった。反応が無くてはつまらないと、足のみ動かないお願いに変更をした。

 話す機能を取り戻した先生は、息を荒げて呼吸をしはじめた。混乱しているようだった。


「先生。わたし、いつもおもっていたの」


 話を聞いているかも分からない様子だったが、私は話を始めた。


「先生はどうして、こんなにひどいことができるのかって。もしわたしが先生だったとしても絶対にこんなひどいことできない。人にバカって言ったり、アホって言ったり、他にももっといやな言葉、たくさん言われたわ。クラスのみんなをあやつって、ボールをぶつけたり、わたしのうわばきにがびょうをいれたり」


 そう言いながら、その時の事を思い出して涙を流していた。


「……給食に虫を入れたり……大切にしている万年筆をこわしたり」

「う、あ、あ……あああ、ああ」

「それをされる人のきもち、すこしでも、かんがえなかったんですか」

「ゆ、許してぇえ」


 鈴木は顎をカタカタと鳴らし、怯えていた。そんな姿を見ながら、私は冷たく笑ってみせたのだ。


「それ、よくわたしが言うことばだよ。ゆるしてって言うわたしに、先生はいつもなんていうんだっけ?」

「もう、二度とあなたに酷いことはしないわ! だから、高田さん許して! 本当に、あなたの事、申し訳なく思っているからお願い、酷い事をしないで」


 今思うと、彼女の最後の抵抗だったのだろう。涙を流し、同情を誘うような見事な演技だった。当時の私には、彼女が実に可哀そうな人間に見えてしまい、自分がものすごく悪い事をしている気分にさせた。


「高田さぁん……お願いよぉ……酷い事をしないでぇ」

「わかりました。もうなにもしません」


 私は再びしゃがみこみ、万年筆を出した。動かない手足を治してくれると思ったのか、鈴木のはしゃぐような声が聞こえた。


「ただし、あなたのほんとうの言葉をきいてから」


〝すずきせんせいが、うそをつけませんように〟


 私が書いた字が見えたらしく、鈴木は目を見開いた。

 顔中から、滝のように汗がにじみはじめる。明らかに動揺していた。


「先生はわたしにあやまりたい? わるいことをしたって、反省しているの?」

「反省なんてするか! 悪い事をしたなんて少しも思ってない! お前みたいなクズには相応の扱いだったんだよ! 気持ち悪い力を持ちやがって、早く消えろ! 死ね!」


 鈴木はそう叫びながら、涙を流していた。


「……うそつき」

「あああ、ああッ! まずい、殺されてしまう! あの馬鹿ガキにこの私が殺されてしまう!」

「ころしたりなんてしないわ」

「殺さないだと! 本物の馬鹿だなお前。馬鹿で助かったー」

「あなたが死ぬとさとう先生が、かなしむもの」


 私は再び、床に字を書き始めた。もう十分だった。嘘をつけないお願いを取り消しながら、一瞬でも信じた自分は本当に馬鹿だと思った。


「あなたみたいな、ひとがいることが、信じられません。やられた人の気持ち、本当にわからないんですね」

「あ、あ、あ、あ、あああ」

「本当はもっとはやく、あなたにひどいことをしたかった。でもできなかった。あなたが死ぬと恋人のさとう先生がかなしんでしまうから。さとう先生をかなしませたくなかった」


 動けない鈴木の目の前に跪き、目線を合わせた。

 それは、彼女への最後の敬意のつもりだった。


「でもおもいついてしまったんです。さとう先生がかなしまずに、あなたをくるしめる方法を。本当にごめんなさい」

「え、え……何? 何をするつもりよ」

「くるしいとはおもいますが、がんばって生きてください」


 万年筆で、床に字を書き始めた。後ろで鈴木が何か叫んでいたが、耳を貸さなかった。

 酷く残酷な事をするという自覚はあった。自分がどれほど、酷い人間か、この時やっと分かったのだ。

 でもだから、どうだというのだ。私は最初からずっと、鈴木を殺したいぐらい憎んでいた。その事をはっきりと認めたのはその時だ。

 今日がきっと人生の転機だ。

 これを節目に、もっと自分に正直に生きようと心に誓った。

 最後の一文字を書く前に、鈴木を見た。

 彼女は私が書いた文字を凝視しながら、やめてやめて…と声を震わせていた。


「先生、さようなら。じゃあ、またあとで」


 最後の一文字を書いた、その瞬間、視界が広くなった。そんな気がした。


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