10.牙



「今拾ったものを出しなさい」


 首を振った。

 万年筆を握る手に力が入った。これを盗られる事だけは絶対に避けたかった。これは私の一番大切な宝物になっていた。

 大好きな佐藤先生からもらい、これに将来を誓ったのだ。

 将来、字で有名になった時にこの万年筆を出し、『これは大切な恩師から頂いた万年筆で、これがあったからこそ私はこの道に居る』と言うのが夢になっていた。それが佐藤先生への恩返しになると思ったのだ。

 絶対に渡さないと万年筆を抱え込むように隠した。鈴木に蹴られ、踏まれても万年筆は離さなかった。盗られても盗り返せばいい、という思考には至らなかった。そもそも鈴木に触れられる事すら嫌だったのだ。

 鈴木は段々苛々し始めたらしく、次第に言葉も乱暴なものに変わっていったが、それでも私は離さなかった。

 ほんの少しの油断だった。

 鈴木が一瞬、足をとめたのだ。その一瞬、力を抜いた瞬間を鈴木は見逃さなかった。

 手を思い切り蹴られ、衝撃で万年筆は転がった。

 からんからん、と転がる音が鳴る。その音を自分とは関係が無いものが鳴る音のように聞いていた。

 大切にしている万年筆とは関係ない、違う物が転がる音だったらどれだけ良かっただろう。

 顔を上げると、鈴木は嬉しそうに笑っていた。手には私の万年筆が握られていた。


「かえして」


 私は言った。鈴木に何かを頼む為に言葉を発したのは初めてだった。


「かえせ」


 鈴木は私の調子がいつもと違う事に、若干戸惑っているようだったが、それでも高圧的な態度は変わらなかった。


「いい万年筆ね。ママにでも貰ったの?いいえ、違うわね。あなたの事だから誰かのものを盗ったのね」

「さとうせんせいに、もらった」


 そう言うと、鈴木はあからさまに反応し、信じられないといった表情で万年筆を凝視しはじめた。

 万年筆を佐藤先生からもらったものだという事を知らなかったようだ。佐藤先生は恋人である鈴木にすら話していなかった。私との〝誰にも言わないで〟という約束を守り続けていてくれたのだ。

 ではどうして、私が放課後佐藤先生の元に通い続けているという事実が鈴木に知られてしまったのだろう。

 後から問い詰めて知った事だが、鈴木は放課後私の跡をつけて、図書館に入って行く姿を見たようだった。


「佐藤先生に頂いた? 虚言癖まであるなんて、本当に救えないわ」

「それをかえしてください。それになにかしたら、わたし、あなたにひどいことをする」

「はっ、酷いこと?」


 鈴木は握っていた右手を開いた。握られていた万年筆がゆっくりと滑り落ちていく。


「それは楽しみね。あなたに何が出来るのか」


 万年筆はかしゃん、という音と同時に床に落ちた。

 鈴木の右足がゆっくりと上がり、万年筆目掛けて右足を振りおろす。

 バキョ、という不思議な音が聞こえた。

 美しかった万年筆が二つに折れる音だった。目の前に、二つになった美しい万年筆が転がっていた。中からインクが漏れ、床に黒い液体が徐々に広がりはじめた。


 何かのたがが外れた気がした。

 どうしてこんな女に、今まで何もしなかったのか不思議なぐらいだった。やろうと思えばいくらでも出来た。苦しませる事だって、屈辱を与える事だって、傅かせる事だって出来たのだ。

 当時の私が、自分の愚かさにやっと気がついたのはこの時だった。


「せんせい、わたし、もうがまんしないわ」

 

 この時、声は震えていたと思う。


「万年筆になにかしたら、ひどいことをするって言ったのに、先生は万年筆をこわした。だからひどいことをされても文句はいえないわ」

「ふぅん。あなたに何が出来るというのかしら。子どもって何でも一人で出来るような気がしているから嫌いなの。大人が居ないと何もできない癖に」


 私は立ち上がって、鈴木を睨んだ。

 先ほどまで蹴られた身体の節々が痛んでいたが、そんな事はもう忘れていた。痛みを忘れる程、私は目の前の人物が憎かった。


「なにもわかっていないのは、先生のほう。だってわたし先生のことがだいきらい。そのりゆうがあれば、わたしはなんでもできる。今ならかんたんに先生のこと殺せるわ」


 そう言うと、鈴木は少しだけ動揺したような表情を見せた。

 まさか私に、殺すと言われると思わなかったのだろう。しかしすぐに鈴木は冷たい表情に戻り、かぶりを振った。


「何を言うかと思えば。子どもの力で大人を殺す事なんて出来る筈がないわ」


 鈴木は自分に言い聞かせるように、そう言った。


「できるよ。かんたんに。でもね、でもね……先生を殺すなんて、そんなこと……」


 一度、言葉を切った。


「そんなもったいないこと、わたし、ぜったいにしないわ。あなたにはくるしんでもらわくちゃ、意味がないの」


 そう言って、私は壊れた万年筆の前でしゃがみこんだ。

 右手の人差し指にこぼれているインクをつけ、指で床に字を書き始めた。鈴木は私の突飛な行動に、動けないでいるようだった。


〝このこわれた万年筆がいますぐなおりますように〟


 書き終わった瞬間、万年筆が再生した。

 まるで、DVDを巻き戻しているかのように、散らばった破片が宙に浮かび元に戻っていく。元に戻った万年筆を手に取ると、以前と変わらない、美しい万年筆に戻っていた。

 鈴木は目と口を大きく開け、固まっていた。何が起こったのか分からないようだった。

 私は鈴木の方を向いた。息を大きく吸う。


「わたしはバカなんかじゃないッ! あなたなんかと一緒にしないでッ!」


 今までに出した事ないような、大きくてはっきりした声で叫んだ。


「―――だってわたしは、天才なんだから」


 そう言った。

 再びしゃがんで、今度は万年筆で床に字を書き始めた。

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