9.糸

 

 万年筆が非常に高価な物だと知ったのは、翌日の朝だった。

 母親に万年筆について尋ねると、ものすごく高いものだと教えてくれたのだ。

 母親は私が欲しがっていると思ったらしく、子どもにはまだ早いものだとも言った。もし、それが欲しいなら、大人になって働き始めた時、初給料で買うといい、と勧められた。

 

 先生はなぜそんな高価な物を私にくれたのだろう。

 きっと先生の言葉に嘘偽りは無く、私の字が秀でているから、字の道に進んで欲しくて、そのきっかけになれば良いと贈ってくれたのだろう。彼は優しく、良い教師なのだ。

 頭ではそう分かっているのに、その日から佐藤先生に会いに行くと、さらに胸が苦しくなった。

 

 万年筆は筆箱には入れず、ズボンのポケットに入れて持ち歩いていた。鈴木は定期的に私の持ち物検査をするため、筆箱を探られた時に取り上げられる恐れがあったからだ。

 休み時間は、万年筆を眺めて過ごすようになった。

 教室で眺めると、取り上げられる恐れがあったため、トイレに籠って万年筆を眺めた。

 万年筆は、はたして私の手が触れてもいいものなのだろうか、と不安になるぐらい美しかった。眺めていると落ち着いた。教室に居る時の息苦しさが嘘のようだった。

 家に帰ると、先生から勧められた本を読み、その後で万年筆で字を書くという習慣が追加された。

 万年筆は今まで使ってきたどの筆記用具よりも書きやすく、手になじんだ。佐藤先生は私に字の道へ進むように、勧めてくれた。その期待に答えたいと思った。


 万年筆を頂いてから、私は浮かれていた。

 忘れていたのだ。鈴木に気づかれてはいけないという事を。

 そして数日間、大した警戒もせずに図書館に向かっていた事を。

 そして数日後にそれは起きてしまった。

 その出来事こそが、鈴木先生が私のクモの巣にかかってしまった瞬間で、私の運命を変える出来事になったのだ。



***



 放課後のホームルームが終わり、ポケットに入っている万年筆を触りながら、図書館に向かっている最中だった。

 突然、背後から腕を掴まれた。視線を向けると鈴木だった。血の気が引いていくのが分かった。きっとまた何か気に入らない事があったから、罵られるのだろうと思った。珍しい事ではない。けれど、放課後に止められるのは初めてだった。


「高田さん、ちょっと来てくれる?」


 そう言うと、鈴木は有無を言わさず、私を引っ張った。

 あまりにも早く歩くので、小走りで鈴木に着いて行った。手を掴む力は強く、痛かった。恐ろしくなり、必死で逃げようと手を振りほどこうとしたが、子どもだった私の力では敵わなかった。

 足が止まった場所は、倉庫だった。

 鈴木は扉を開けると、私を中へ突き飛ばした。足がもつれ、床に倒れこんだ。扉を閉める音が聞こえ、すぐにカチャリと鍵を閉める音が聞こえた。

 部屋は薄暗く埃っぽかった。授業等で使われる備品を保管する部屋のようだった。

 一瞬、閉じ込められたかと思ったが、鈴木も部屋に居た。倒れこむ私を見下すように立っていた。驚く程冷たい目だったので、恐ろしくて無意識に身体が震えた。


「どこかに行こうとしていたわね?」


 酷く冷淡な声だった。

 問いに対して、私は首を振るだけだった。恐怖のあまり言葉を発せそうになかった。


「図書館に行こうとしていたでしょう」


 心臓が跳ね上がった。ばれている。

 どうしてばれたのだろうか。佐藤先生が〝誰にも言わないで〟という約束を破り話したのだろうか?

 私は腰が上がらないまま、手で引きずるように後ずさった。そのたびに、鈴木は一歩ずつゆっくりと私を追い詰めた。やがて壁に突き当たり、完全に追い詰められてしまった。


「ねぇ。もしかして、佐藤先生に好意を寄せているの? だったら、教えてあげる。彼はね、平等主義者なの。虫を殺す事すら躊躇うような優しい人間なのよ。だから、あなたみたいな底辺にいる存在にも優しいの。ただそれだけ。何か勘違いしているみたいだけれど、自分の価値まで計り間違うなんて、本当に救えないのね」


 淡々とした口調で一気にそれだけを言って、鈴木は私の頭を踏んだ。靴底の隙間に挟まっていたらしい埃がぱらぱらと降ってきた。


「私は様々な言葉をあなたに言ったわよね。生きている価値が無いとか、空気を吸わないで欲しいとか、後は……そうね、馬鹿だとか阿呆だとか、虫、ごみ、屑、カスとも言ったわね。それらの全てを使ってもあなたを表現するには物足りないの。それ程あなたは底辺にいる。いいえ、底辺という言葉すら相応しくない。あなたは穴を深く深く掘って底から更に奥にいるような、そんな存在なの。そんな存在のあなたが、佐藤先生と会話だなんて、恐れ多いと思わなかったのかしら?」


 鈴木は初めて私に暴力をふるった。

 今までクラスメイトを通して外傷的な嫌がらせをされる事はあったが、こんな直接的なものは初めてだった。

 服を脱がされ、蹴られた。服を脱がされたのは、服に汚れをつけない為だと思った。この事から、この行為は鈴木にとっても公に広まるのに不都合があった筈だが、そのようなリスクを犯してまで、私に暴力を振るいたかったらしい。

 ただ、放課後、佐藤先生と会っていただけ。

 それだけの事が、鈴木にとっては許しがたい事だったのだ。

 鈴木は、何度も何度も私を見下ろして踏みつけた。手で暴力はふるわなかった。きっと直接私に触れることが嫌だったのだろう。顏や足、腕など外傷が目立つような場所は避けられ、腹、胸、背中、太ももなどを重点的に蹴られた。

 履いていたズボンを脱がされたとき、ポケットからからん、と音を立てて何かが落ちた。

 万年筆だった。

 今まで人形のようにされるがままだった私が唐突に、俊敏な動きで万年筆を拾ったのを見て、鈴木は面白い物を見つけたかのように笑った。



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