8.字
それから、図書館に通いはじめて一ヶ月経った。
佐藤先生に会いにいくのは、放課後と決めていた。本当なら放課後だけではなく、休み時間や昼休み時間も会いに行きたいぐらいだったが、頻繁に通い過ぎると、いくら優しい佐藤先生とはいえ気味悪がるのではないかと考え、放課後に少しの時間だけ図書館に行った。
また、佐藤先生に会いに行くのが目的ではなく、先生が勧める本を教えてもらいそれを借りるという口実で毎日図書館に通った。その為、その日に本を読み終えなければ、次の日に図書館に行く口実が出来ない為、私は家に帰ってから毎日必死で本を読んだ。先生が厚い本をすすめてきた日は、空が白み出すまで読みふける日もあった。
図書館は人気が無かった。
滅多に人は来ず、私が居る間に一人来れば多い方だった。
「学校のすぐ近くに立派な図書館があるだろう? 生徒たちはみんなそちらに行ってしまうんだ。ここは狭いし、埃っぽいし、新しい本もないし。あっちは広いし、綺麗だし、新しい本も揃っているからね」
先生は少し悲しそうに、そう教えてくれた。それが人気のない理由らしかった。
放課後になり、私が図書館に現れると、きまって佐藤先生は嬉しそうに笑った。
「高田さん、いらっしゃい」
裏のない、本心からの歓迎だった。
その歓迎に対して、私は俯きながら消え入るような声で、こんにちはと答える。それが毎日のやりとりだった。
佐藤先生に笑顔を向けられると嬉しい半面、どうしていいのか分からなくなった。顔に熱が集まっていくのを感じ、挨拶をするとき恥ずかしくていつも俯いていた。
「わたしが放課後毎日ここに来ていることを誰かに話していますか?」
ある日、先生にそう尋ねた事があった。
この頃には大分、言葉をスムーズに話せるようになっていた。
先生はきょとんとした顔をして首を振った。
「誰にも言っていないよ」
「ほんとうですか?」
「うん。本当に誰にも言っていないよ。あまり良くないことだからね」
意味が分からず首を傾げていると、先生は悪戯っぽく笑って続けた。
「生徒を早く帰らせるならともかく、放課後残らせるなんて、本当はいけない事なんだ。今さらだけど高田さんの方こそ、言いふらさないでくれよ」
意味を理解した途端、顔に熱が集中した。
きっとこの時の私はリンゴのように真っ赤な顔をしていただろう。まるで、自分だけ特別、と言われているようで嬉しかったのだ。
「ぜったいにいいません……!」
声が震えた。
真っ赤な顔をしている事に気づかれないように俯きながら、私はずっと言わなければいけなかった事をぽつりぽつりと話し始める。
「ぜったいにいいませんから、そのかわり、あの……先生もだれにも言わないでもらえませんか?親にも、友だちにも、生徒にも、ほかの先生にも、その……」
言葉を詰まらせながら、言った。
「恋人にも」
佐藤先生は少しだけ目を見開いて驚いていた。
「誰にも言わないから、大丈夫だよ」
先生は私の頭を、安心させるように撫でてくれた。
他人の手のひらとは温かいものだということをその時初めて知り、涙腺が緩んだ。他人が優しくしてくれる、たったこれだけの事が当時の私にとっては、特別な事だった。
きっと佐藤先生は、私がクラスメイトから虐げられていた事を知っていたのだろう。
なぜなら、私の髪の毛を撫ぜるその手つきは弱者を慰めるような、優しい手つきだったからだ。まさか自分の恋人が主犯だという事には気がついていないだろうが、それでも私は嬉しくて堪らなかった。
そんな事があってからも、私は毎日図書館に通い続けた。
またある日の事、佐藤先生は珍しく私に頼み事をした。
「手紙を届けたいのだけど、ここに住所と名前を書いてくれないかな。高田さんはとても字が綺麗だから、ぜひお願いしたいんだ」
「わたしで、よければ」
私は佐藤先生に頼られたことがうれしくて、張り切って住所を書いた。
書き終わった封筒を見せると、佐藤先生は目を見開いて驚いていた。先生は私の字を見るといつもそういう反応をした。クラスを受け持っていた時も、私のノートを見るたびに、いつも笑みを絶やさない佐藤先生が真剣な表情になり、ノートを食い入るように見つめる。
信じられないものを見るような目だった。
佐藤先生は私の方を向き、少し話そう、と椅子に座るように促した。私は椅子に座った。
「前にも言ったけれど、君は字の道へは進まないのか」
私は首を振った。
「かんがえたことも、ないです」
「じゃあ久しぶりに、僕に教師として将来のアドバイスをさせてくれ」
佐藤先生はまたあの時の表情をした。私のノートを見ていた時と同じように、いつも笑みを絶やさない佐藤先生が、真顔になり真っすぐに私を見つめた。
そして私にとって一生忘れられない言葉を言ったのだ。
「君は天才だ」
「えっ……てんさい?」
それは初めて言われた言葉で、意味は分かるがぴんと来ない言葉だった。
馬鹿や阿呆は数えきれない程言われたが、まさかいつも言われている言葉の対義語を言われる日が来るとは思わなかったのだ。先生は静かに席を立つと、何かを持って戻ってきた。それを机の上に置く。
「これが何か分かるかい?」
私は首を振った。棒状の美しいそれを見るのは初めてだった。
「これはね、万年筆という筆記用具だよ。これを高田さんにあげる。字の汚い僕が持っていても仕方のないものだからね」
机に置かれた万年筆はとても美しく、目を奪われた。
先端が黒色で、中心部は緑色のストライプ柄。所々に金色の模様が入っている。筆記用具と言うより何かの宝石のように思えた。手にとってみると光沢があり、持ち手の部分はつるつるとしていた。
私は狼狽した。家族以外から、ものを貰う事は初めてだった。
「こ、こんなすてきなもの、あの、その、たかいんじゃないんですか」
「値段なんて関係ない。それは僕が持っていたら無価値なものなんだ。君が持つ事で初めて価値が出るのさ。だから、そんな事は気にせず受け取ってくれないかな。もし、こんなちっぽけな万年筆で君が字の道に行ってくれる事があれば、僕はそれだけで誇りに思う」
これはもしかして夢なのではないかと、そう疑った。
この時程、自分の字が美しい事に感謝をした時はなかった。おずおずと万年筆を受け取った私を見て、先生は嬉しそうに笑っていた。
その日家に帰ってから、先生から勧められた本を初めて読まなかった。
代わりに、美しい万年筆を空が白くなるまで飽きもせずずっと眺めていた。
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