7.根
私は力をもっぱら保身の為だけに使った。
休み時間のトイレや昼休みに席を離れなければならない時、机に〝わたしがここにもどるまで、ラクガキされませんように〟と書いておけば、机に心を病むような言動の数々を書かれずに済んだ。
他にも、給食に虫を入れられない事、体育の時間痛い思いをしない事などを書き綴った。
せっかくの力を上手く使いこなせていないという自覚はあった。
そんな回りくどいお願いをしなくても〝クラスメイトや先生が私を苛めませんように〟とそう書くだけで良かったのだから。そうすれば、苛めがなくなるどころか、その気になればクラスの中心人物にだってなれた。そんな事はいくら馬鹿だった私でも気がついていた。
けれど、その時私はそれらの願い事を書く勇気がなかった。
酷い仕打ちをされたクラスメイト達に慕われる事など望んでいなかったし、何よりも、自分が鈴木やクラスメイト達を自由自在に操るなど恐れ多い事のように思っていたのだ。
この思考からも窺えるように、当時の私の性格は、苛めのせいですっかり卑屈になってしまっていた。
このクラスをピラミッド型に例えるなら、誰よりも底辺にいると思い込んでいた。資質だけなら、頂点を目指せるというのに、それをしなかったのだ。
力を手に入れてからも、授業中に鈴木が私を積極的に当て、酷い言葉で馬鹿にすることは変わらなかった。
しかし以前程、その罵詈雑言が気にならなくなった。いざとなれば何とか出来るという切り札は、私の心に余裕をもたせてくれた。
クラスメイト達が私へ行う仕打ちは多少、操らせてもらっているが、鈴木の未来を操ったのは、あの交通事故一度きりだった。授業中の暴言を辞めさせる事など他愛もない事だったのに、私はそれをせず、黙って耐えていたのだ。
当時、私はピラミッドの頂点にいる鈴木先生を、底辺にいる私なんかが操るなど、とんでもない事だと、そのようなニュアンスの事を考えていた。
しかし、今になって分かる。
私は、鈴木への思いが恐れから憎しみに変わるまで待っていたのだ。
耐えきれなくなるぐらい恨んで、憎めば、酷く残酷な事をする理由になると、心のどこかでそう思っていたからだった。
ある日、放課後のホームルームを終え、急いで帰ろうと下駄箱に向かっている途中、廊下で佐藤先生と会った。
佐藤先生を見るのは久しぶりだった。鈴木先生と二人で保健室に居るのを見て以来会っていなかった。
私は驚き、すぐに軽く会釈をして通り過ぎた。
半年間受け持っただけのクラスで、それも三十一人の中の一人を覚えているとは思えなかったのだ。その上、一方的とはいえ保健室での出来事を見てしまっていたので、気まずさを感じていた。
しかし、佐藤先生は去ろうとする私に声をかけた。
「高田さん久しぶりだね」
変わらない優しい声だった。
私は思わず足をとめた。おひさしぶりです。蚊の鳴くような声でそう答えた。
「今、帰り? 気をつけて帰るんだよ」
相手を気遣っているような、優しい声だった。
一刻も早くこの場を去らねばならないと思っていた。佐藤先生が鈴木と恋人同士だとすれば、記憶の残るような言動や行動をすれば鈴木に伝わってしまう恐れがあったからだ。
そう思ってからすぐに、何を言っているんだ私は、と考えを改めた。
佐藤先生がよりにもよって自分なんかの話題を恋人に話すなどある筈がないじゃないか。大体、万が一伝わってしまったとしても、一体それが何だというのだ。二人が恋人同士という事を知らない私が、たまたま恋人と話したぐらいで鈴木の心証が悪化する事など考えられなかった。
私は佐藤先生に向き直った。
しばらく挙動不審に口をもごもごさせてから、せんせいはいまどこでせんせいをしているんですか? と尋ねた。家族以外の人間と会話するのが久しぶりだったため、声が震えた。
「ああ、僕は今図書館で仕事をしているんだよ」
意外な回答だった。
佐藤先生の姿をめっきり見かけなくなったのは、ずっと図書館に居たからだったのだ。てっきり私はどこかのクラスの副担任になっていると思い込んでいた。
驚いた顔をした私を見てか、佐藤先生はかぶりを振った。
「大した事はしていないんだよ。学校の図書館で働くための免許をたまたま持っていてね。前任の図書館の先生がお辞めになった時期と、鈴木先生が復帰された時期が重なったんだ。だから、自然に僕が図書館の先生になった。それだけだよ。本当はクラス担任の教師になりたいと思っているから、今の仕事はとっても退屈なんだ。君たちのクラスを受け持っていた頃に戻りたいぐらいだよ。あ……こんな事、誰にも言っちゃ駄目だからね」
佐藤先生は人差し指を唇に押し当てて、いたずらっぽく笑った。
変わらない。優しい佐藤先生だった。
こんな私にも他のクラスメイトと態度を変える事もなく接してくれる。なぜか涙が出そうになったが、不審がられると思い、必死で耐えた。
もし図書館に行ったらお話してもらえますか。そう尋ねると、佐藤先生は嬉しそうに笑った。
「滅多に人が来なくて退屈しているんだ。いつでも大歓迎だよ!」
その後、会話に慣れていない私はうまく話せなくなり、佐藤先生に挨拶をして逃げるように帰路についた。
自宅に帰り、自室のベッドの上で寝転びながら、胸が高鳴るのを感じた。
図書館に行けば佐藤先生に会えるのだ。
鈴木先生とのあんな場面を目撃してしまったにも関わらず、私は未だに佐藤先生に恋をしているようだった。報われない恋は諦めようと何度も自分に言い聞かせていたが、今日久しぶりに話して自覚した。どうしようもないのだ。今日のように、少し佐藤先生と話しただけで幸せな気持ちになるぐらいだから、もうどうしようもない。
鈴木先生と佐藤先生が恋人同士という事実はこの際もう関係ないと思った。
二人が恋人だろうとそうでなかろうと、どちらにしても報われない恋なのだ。佐藤先生が一回り以上も年下の、それも生徒で、よりにもよって私を選ぶとは考えられなかった。
だからといって、力を使おうとだなんて思わない。佐藤先生の気持ちを無視して操るなんて、とんでもない事だと思った。
ほんの少しの幸せで良い。
贅沢な事は言わない。放課後、少しだけお話するぐらいの幸せで十分なのだ。
字の力のお陰で毎日の生活は多少ましにはなったが、それでもまだ酷いものだった。
その日も給食を運んでいる途中、クラスメイトにぶつかられ、お膳ごと床に落としてしまい、給食が食べられなかった。馬鹿だった私は力の使い方を制限していたので、こういった予期できない仕打ちには対応できず、毎日必ず何かしらの仕打ちを受けていた。
少しだけでいい。毎日の生活に癒しが欲しかった。
『いつでも大歓迎だよ』
佐藤先生は言った。きっと社交辞令などではなく、本心から言った言葉だろう。彼はできた人間だった。少しだけ学校生活に楽しみを作るのは、いけない事なのだろうか? やはり私のような底辺はそんな事すら求めてはいけないのだろうか?
そこまで考え、私は首を振った。
そんな筈はない。私だって平等に、楽しむ権利がある筈だ。
この時、私は何も分かっていなかった。いや、考えようとしなかったのだ。
心の底ではどうなるか分かっていた癖に、それを考えようとしなかった。
鈴木という人間がいかに執念深く、恋人と話したぐらいで心証が悪化するような理不尽な人間である事を、分かっていたのに私は気がつかないふりをした。そうして、私は佐藤先生に会いにいく事を選んでしまった。この選択は、良い結果に転んだわけだが、決して賢い選択ではなかっただろう。
この頃も、根っこの部分は嫌な奴だったのだと否応なしに自覚させられるからだ。
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