6.力
手で何度も何度も、傷があった筈の場所に触れた。
なめらかな土ふまず。その他には傷一つない。
信じられなかった。
突如起こった不思議な出来事に、どうすればよいのか分からず、立ち上がって部屋を行ったり来たりした。
ふと傍にあったルーズリーフを見た。それを手に取り、そこに書いた文字を見る。
〝いたいよ。あしがいたい。はやくいたいのなくなって。いますぐに、あしがなおって〟
つい先ほど書いた文章を見て、首を傾げた。
次に、机上に置いたままの、束になっているルーズリーフを一枚めくる。
それは昨日書いた文字だった。
〝あしたさとうせんせいをみつけられますように〟
ここに書いてある〝あした〟というのは本日の事だった。
もう一枚ルーズリーフをめくる。半年前に書いたものが、そこにはあった。
〝すずきせんせいが くるまにひかれてほしい〟
その瞬間、心臓がどくんと跳ね上がった。
そうだ。これを書いた翌日、鈴木は車に轢かれたのだ。
ごくりと生唾を飲み、半年前の事故を思い出した。
真っ赤に染まる地面、ぴくりとも動かなくなった鈴木の身体。
確かに鈴木は目の前で車に轢かれた。今でさえその姿は鮮明に思い出せる。
そして、馬鹿だった私はやっと気がついたのだ。
もしかして、私が書いた文字のせいで鈴木は事故に遭ったのではないか?
昨日、佐藤先生を見たのも、今私の足が綺麗に治ったのも、すべてこの字が原因ではないのか、と。
ルーズリーフをまた一枚取り出した。
そんな非現実的な事ある筈がない。偶然に決まっている。その時はそう思った。だが、試す事をやめられなかった。
もう一枚だけ。もう一文だけ、何かを書いてみよう。私は鉛筆を手にとった。
少し悩んで、自分がものすごくのどが渇いている事に気がつき、字を書き始めた。
〝のどのかわきがいますぐおさまりますように〟
書き終わった瞬間、カラカラに乾いていた喉は、突然水を飲んだばかりかのように潤った。
思わず首に手を当てる。本物だった。いやまだこれでは分からない。喉が渇いていたのに、しばらくすると忘れてしまう事なんてよくあることではないか。私は心の中で否定と肯定を繰り返した。
まだ、確証を得るには十分ではないという結論に達し、いろんな事を書き続けた。
〝ふとももにあるおおきなホクロがなくなりますように〟
〝おなかがすいたのがなおりますように〟
太ももにあったホクロが消え、空腹感が無くなった。それでも私は否定した。まだだ。まだ、こんなお願い事では確証は得られない。
〝今日のしゅくだいができていますように〟
〝みじかい わたしのかみのけが ながくのびますように〟
〝すずきせんせいに とりあげられたシャープペンがもどりますように〟
三つの文を書き上げた後、結果を確かめもせずに、
〝さんびょうごに たくさんのながれぼしが ながれますように〟
そう書いて、部屋の窓まで走った。
カーテンを開け、窓を開ける。空を見上げた。
―――星。星、星。空を埋め尽くす程の無数の星が、大きな弧を描きながら降っていた。
それはまるで絵本の挿絵のような美しい星空で、その凄まじい光景は、私を信じさせるには十分すぎる程だった。
これは本物の力なのだ。
流れ星は三秒ほどで消え、元の静寂に満ちた夜空に戻った。
私は落ち着かなかった。
部屋に戻り鏡を見ると、短かった髪は長く伸びていた。明日提出期限の宿題も、空欄が全て埋められていた。鈴木に取り上げられたお気に入りだったシャープペンも、元からそこにあったかのように机上に置かれていた。
笑みがこぼれるのを抑えられなかった。
私はそれからしばらく、様々な事をお願いした。
〝あしたのあさごはんは ホットケーキでありますように〟
〝にきびがなおって いっしょうできませんように〟
しかし無意識のうちにだが、この時はまだ影響力の薄い願い事ばかりを書いていた。
心のどこかで取り返しがつかなくなってしまうような恐怖を感じ、書けなかったのだ。
そして、書き続けるうちにこの〝願い事〟に関していくつか気がついた事があった。
一つ目に、願い事は上書き制だと言う事だった。
髪の毛が伸びるようにと、願い事をしてから、元に戻さなければと焦った私は〝髪の毛が少し前の短さに戻りますように〟とお願いしてみた。
書き終わった瞬間、髪の毛は縮み始め、元の長さに戻った。願い事はいくらでも書き換えが可能だという便利なものらしかった。
二つ目に、別にルーズリーフに書かなくても願い事は叶うという事だった。
どうやら、ルーズリーフではなく私の字が原因のようだった。試しに、部屋のフローリングの床に鉛筆で願い事を書いてみたが、それでも叶った。
三つ目に、それなりに〝叶って欲しい〟という意識がないと、願いは叶わないという事だ。たまたま書いた文の通り、願い事が叶ってしまった、という事はない。もしそうだったら、授業中、何気なく書いていた事が、意図せず叶ってしまう不便な力になっていただろう。不本意な願いだと僅かに字が乱れる為ではないかとそう考えた。
たった一つしかなかった私の取り柄。
それにこんな不思議な力があったのか、と嬉しくなったのを覚えている。我ながら、呑気なものだった。
これは〝不思議な力〟で片づけられるようなものではない。
その気になれば核のスイッチを押すよりも簡単に世界を滅ぼす事すら出来るというのに、当時の私はその自覚がまるで足りなかった。
願い事を夢中で書き続けていたせいで、いつの間にか日付が変わっている事にすら気がつかなかった。
いつも眠る時間はもう過ぎていた。私は慌ててベッドに飛び込んで仰向けに寝転んだ。
この時すでに、鈴木と佐藤先生が恋人同士であるという事実にショックを受けていなかった。やろうと思えば、これから何とでもなるとそう思ったからだ。
そう、何とでもなるじゃないか。
〝鈴木先生と佐藤先生が別れますように〟
そう書くだけでいいのだ。
けれど、私は首を振り、その一文だけは絶対に書かないと固く心に決めた。
私は佐藤先生が好きだ。その佐藤先生を裏切る真似だけはしたくなかった。それに、佐藤先生が鈴木の事を好きなら、その思いを無理矢理捻じ曲げて心を操ってしまうのは良くないのではないか、とも考えた。
この事からも、当時の私は信じられない程、頭が悪かった事が分かるだろう。
何度も言うが、私は馬鹿で、愚かで、お人よしだった。だから、鈴木という糞のような教師につけこまれたりしたのだろう。けれど、そんな愚かさがあったからこそ、今の私が居る。
今は馬鹿だった昔の私に、僅かの感謝さえしているのだから。
いつの間にか眠っていたようで、母親が私を起こす声で目が覚めた。
母親が心配そうに体調はどうかと尋ねてきたので、ああそういえば仮病を使ったのだった、と昨日の事を思い出した。念のため、学校をもう一日休むかとも聞かれたが、私は首を振って、もう元気だから学校へ行くとはっきり答えた。
「そういえば、昨日凄い流れ星が降ったみたい。ほら、ちょうど今テレビでやっているわ」
朝食のホットケーキを食べながらテレビを見ると、昨晩見た風景の写真、映像がしっかりと映し出されていた。誇らしくなったのを覚えている。
私は学校へ向かった。その日は、登校中に吐き気が襲ってくる事はなかった。
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