第9話 9月上旬の1日

私のぼんやりとしたお休みの終わりがやってきた。彼はまだ望洋としている時間が長いが、出勤はするようになった。職場に通うリハビリをしている。毎日出勤して英語の勉強をしているらしい。


休みの終わりと言っても、単に以前より決めていた私の仕事が始まるだけだ。ちょっとした仕事だ。前みたいに何日も留守にしたり、泥にまみれたり、山に1週間こもったりするわけではない。


もちろん新たな環境で仕事をしていくことに緊張しないわけではないが、どんなに仕事が合わなくても毎日夜には家に帰れるのだ。それだけでずっとマシに思える。部屋にまで上司が追跡ホーミングしてきて、仕事爆撃をしたりしない。



「ご飯、作りおいてるからきちんと食べるんだよ」

「わかった。きをつけていってらっしゃい」



こうして私がしっかり働けば彼も辞めることに抵抗がなくなるはずだ。そう思ってまだ暑い日差しの中、真っ黒な鴉色のスーツで歩く。カンカンと態とらしく鳴る靴が忌々しい気分だ。

歩く、このカン、がなる度に足先がぎゅっと詰まって私の足を痛めつけるのだ。帰る頃には爪が全て割れて、赤黒くなっているだろう。

どうしてか靴が合わないのだ。なんで人間の足は先に向かって広くなっているのに、ヒール靴は足先を三角に作るのだ。作った人はこの靴を履いていないに違いない。


ヒールの靴はローマ時代に元々奴隷を綺麗に見せて値段を上げるためのものだった。ヨーロッパがそれを導入した理由は、道端に汚物が捨ててあり、街が汚かったから服を汚さないためだ。

今の日本に本当に必要なのか、よくよく考えて欲しいと切実に思う。今の日本女性は奴隷なのか?道端にトイレで流している汚物が所狭しと落ちていて、街は汚物にまみれているのか?服を汚さないためにそんなに高い靴を履く必要があるのか?冷静になって欲しい。この血まみれはなんともバカバカしい。


フォーマルな格好、女、絶対にヒールの靴を履かなければ行けなくなる。そうしないとやいやい五月蝿いセクハラ文化があるからだ。

履けと命じる人は対象者に奴隷と同じ格好をしろと命じているのだ。これがセクハラでなくてなんなのか。私がこの苦痛に耐えるのなら、男どもはもっと痛い靴に我慢するべきだ。


フォーマルな格好の度に私の足は血塗れだ。爪を切ればいい?どこまで切れと?深爪程度に切りそろえている。根元から縦に割れて砕けて、時には足に鋭利な刃物となって刺さるのだ。ヒールは憂鬱な気分になる。


真っ白なオフィスのドアをノックする。私のこれまでの常識と異なる世界がある。いや、私の常識なんて家の中ですら通じないどこにもないものだ。全て学んでいくしかない。



「おはようございます」



第一印象は大切だ。足の痛みなど無いかのようにニッコリと笑って挨拶をしてみた。私できる子。

彼は今頃、職場、そして上司の恐怖と戦っているのだ。その痛みと比べたら私の怪我は半年もあれば癒える。まだ頑張れる。



「おはようございます。早速だけど、マニュアルこれ。とりあえずやってみて」

「ありがとうございます。マニュアルを読みます」

「30分までには、設営完了しておいて」



まあ下っ端社員ならそんなもんだろう。手渡された資料をふむふむと読みたいが全然わからない。きっとマニュアル作成者はどっぷりと自分の常識に浸かっているに違いない。まあ、仕方あるまい。一度も常識から出たことない人が世の中の大半だ。


もちろん30分後には何故できないのかを詰問されて、マニュアルがわからないと白状することになった。私にそれを言い渡したあと、質問をさせてくれなかったのも悪いと思うが、まあそれは私の常識だ。

私は新入社員に「ほら、マニュアルあるからとりあえず銃を撃ってみろよ」なんて言ったことはないが、民間ではそうではないのだろう。


とりあえず売り物を任せてみて、なんでできないんだ?じゃあ、こうすればいいんだろう?と教えていく方式らしい。できれば初めに教えて欲しいと思う。


郷に入っては郷に従えともいう。


私の価値観でいえば、初めの一年は間違えて、ごめんなさいをしながらなんとかするもんだ。手取り足取り、歩き方どころか、トイレの入り方まで新兵に教えてさえ、5年目ぐらいまでは新兵の失敗を先輩と上司が拭うものだ。

まあ拭えないポンコツ上司が多かったのは否めないが、理想としてはそう語られていた。私はそうしてきた。


まあ一日を通して、なんだか色々言う新たな上司を見ながら、ふーんと聞いていた。そのうち分かり合うだろう。今は無理だけど。

常識は企業文化分は私が合わせるが、残りは2人が歩み寄ってなんとか出来るだろう。とりあえず会話ができる程度まで近付きたい。


血塗れのストッキングを捨てながら今日一日をそう振り返った。

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